「アビゲイル様
コーヒーのおかわりは
いかがでございましょう」
その声は
まるで冷えたガラスを撫でる風のように
静かだった。
アビゲイルが、そっと視線を落とす。
そこに立っていたのは──
小さな影。
青龍。
白磁のように滑らかな銀のポットを
両手で抱え
慎ましく彼女の脇に立っていた。
包帯に覆われたその小さな腕は
ところどころ滲むように染まっていて
布の奥に隠された爛れた傷痕が想像を呼ぶ。
だが
彼の姿勢には一切の陰りがなかった。
完璧な所作、無駄のない動き。
礼節を極めた従者としての在り方が
彼の全身から滲み出ていた。
アビゲイルの胸が、かすかに震える。
(時也様の御家に代々仕える⋯⋯
精霊のような存在ってことかしら?)
脳裏に浮かぶのは、時也の言葉。
──〝式神〟
人ではなく、命でもなく。
けれど、誰よりも魂の深くに仕える存在。
(あぁ⋯⋯
こんなお姿でも、主人の為にと懸命な姿⋯⋯
なんて尊いの⋯⋯)
アビゲイルは、手の中のカップを見つめる。
それはもう空になっていて
銀のポットの注ぎ口から漂う香ばしい香りが
ふわりと彼女の鼻腔をくすぐった。
彼の睫毛に目を留めた瞬間
呼吸が止まりそうになる。
──銀箔のような睫毛。
光を受けて淡く輝くその一筋一筋が
まるで細工された装飾のように美しい。
そこから覗く山吹色の瞳は
濁りひとつない透明な輝きを放っていた。
(澄んでいて⋯⋯冷たくて
それでいて、どこか哀しげで⋯⋯)
まるで
何百年も季節を越えてきた木霊のように。
凛として、儚くて
けれど決して折れぬ芯を持った視線。
(⋯⋯大人の姿だったら
どんな感じかしら⋯⋯)
知らずのうちに
アビゲイルの思考は
妄想の海に沈みはじめていた。
──主に忠誠を誓う、長身の従者。
黒い燕尾服に身を包み、無言で跪き
跪いたまま時也の手に接吻を捧げるその姿
──誰も知らない深夜
密室で交わされる密やかな会話。
「⋯⋯今宵も、貴方様のお傍に在れたこと
誇りに思います」
「⋯⋯青龍。
今夜は少しだけ⋯⋯傍にいてくれませんか」
──そんな関係が、ひっそりと⋯⋯
ああ、なんて⋯⋯!
(駄目よ、アビゲイル⋯⋯っ!)
慌ててカップを両手で握り直し
唇をぎゅっと噛みしめた。
(時也様に⋯⋯聞こえてしまう⋯⋯っ!)
動悸が高鳴り、耳の奥がじんと熱くなる。
背筋に汗が一筋、静かに伝った。
(でも⋯⋯でも、妄想が⋯⋯っ
止まらなくてぇ⋯⋯!)
今この瞬間、彼女の脳内では
〝主従の信頼〟が〝夜の秘密〟へと
変貌を遂げていた。
しかもその中心に居るのが
アリアの隣でコーヒーを口にしている
あの〝神格化された夫婦〟の夫──
時也である。
完全なる背徳。
解釈の危機。
それでも、彼女の妄想力は止まらない。
それどころか、むしろ加速していた。
ふと
彼女の異変に気づいた青龍が首を傾げる。
だが、問いかけようとしたその瞬間──
「⋯⋯少し、甘めにお願いいたしますわ」
アビゲイルは完璧な微笑みを浮かべて
杯を差し出していた。
その顔には、一点の曇りも、動揺もない。
それは、推し活によって鍛え上げられた
〝感情統制〟という名のスキル。
妄想と現実を峻別し
完璧に装うプロの笑みだった。
「かしこまりました」
青龍は小さく頭を下げ、ポットを傾ける。
静かに注がれる琥珀色の液体が
カップに満ちていく音だけが
彼女の妄想を現実に引き戻していた。
(あぁ⋯⋯青龍さんも、尊いですわ⋯⋯っ)
アビゲイルが胸の奥でそう叫んだ
まさにその瞬間だった。
漆黒色の液体が静かにカップに注がれる音──
それが一瞬
風に攫われたように途絶えた。
「⋯⋯これは──っ!?」
誰よりも早く声を上げたのは
他ならぬ青龍自身だった。
彼の身体を淡い光が包み込んだ。
揺らめくような、しかし確かな神気の奔流。
包帯に覆われていた小さな身体が
柔らかな光に呑まれたかと思うと──
次の瞬間
その姿は青年へと変貌していた。
銀白の長髪が、さらりと背へと流れ落ちる。
その頭部には
しなやかに曲がる龍の角が左右に伸び
琥珀色の光を柔らかく湛えていた。
鋭さと品を兼ね備えた整った顔立ち。
まるで時を司る神が
人の姿を借りて現れたかのような
崇高さと威圧を併せ持った存在だった。
身に纏うのは、薄い水色の着物。
その淡い色彩が
逆に彼の異質なまでの気高さを際立たせる。
「⋯⋯青龍⋯さん⋯⋯?」
アビゲイルの声は、か細く震えた。
まるで神話を目の前で目撃したかのように
全身の毛が逆立ち、心臓が跳ねた。
鼓動が喉まで競り上がり
言葉にならない感情が押し寄せてくる。
──尊い。
あまりにも神聖すぎて
脳が処理を拒むレベルの〝尊さ〟
目の前の存在は
間違いなくさっきまで
自分にコーヒーを注いでいた
〝幼子〟だったはずだ。
それなのに今、立っているのは──
ソーレンにも劣らぬ長身の男。
気高く、冷ややかで
だが一瞬だけ浮かんだ驚きの表情が
あまりに人間らしかった。
その姿に──全員の動きが止まった。
椅子を引きかけたソーレンの手も
カップを口に運びかけたレイチェルの腕も
途中で固まっていた。
時也がそっと椅子を引き、立ち上がった。
驚きに目を見開きながらも
その瞳には懐かしさが湛えられている。
彼は一歩、青年の青龍に近づき、見上げた。
「⋯⋯アビゲイルさんの、加護──」
その言葉に
誰もが再びアビゲイルに視線を向けた。
彼女は椅子に座ったまま
口元に手を添えた状態で
ほぼ〝脳がバグっていた〟
(⋯⋯あぁ⋯⋯駄目ですわ⋯⋯
尊すぎて⋯⋯っ!
この光景、五周は脳内で再生できます!!)
だがその奇跡のような瞬間も
永遠には続かなかった。
青龍の身体がふわりと光に包まれ
再び──
幼子の姿へと戻っていく。
残像のように宙に揺れた銀髪が
一瞬後には包帯に包まれた
小さな体に戻っていた。
何事もなかったかのように
青龍はそこに立っている。
だが──
時也はそっと、幼子のその頭に手を置いた。
包帯の隙間から覗く髪に、指先が触れる。
「お前の元の姿に⋯⋯久しぶりに逢えて
心から嬉しく思いますよ」
その声音には
かつて共に過ごした時代への深い敬意と
絆の温もりが滲んでいた。
レイチェルがため息のように呟く。
「元の姿の青龍って⋯⋯
ソーレンよりも大きいのね⋯⋯
異能の効果、驚いたわぁ⋯⋯」
ソーレンが眉を顰めたが
否定はしなかった。
彼自身、驚きと僅かな焦りを隠せず
指で無意識に
コーヒーカップの縁をなぞっている。
アラインは目を細めながら
驚いてテーブルに落とした
茶菓子の欠片を摘んで口に運び
楽しげに言った。
「流石に、効果は一瞬しか保たないのか。
それにしても⋯⋯
本当に驚異的な異能だねぇ?」
その視線は、笑っているようで
真剣でもあった。
「禁忌を犯した代償さえも乗り越えるとは
不死鳥も恐れる訳ですね」
時也の感嘆の呟きを聞きながら
カップの中の琥珀色を見つめ
アビゲイルは小さく震えた。
(⋯⋯私、やってしまいましたわね⋯⋯)
それは、ただの〝現象〟ではない。
彼女の信仰が、奇跡を起こした。
それは、確かにこの世界の理を
揺るがすほどの力だった──⋯
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