テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
すんきちがバイトをしている居酒屋『つづら屋』は、駅前の雑居ビルの2階にひっそりと営んでいる。
騒がしすぎす、静かすぎす。カウンター席の向こうで焼き鳥が焼かれる匂いと、ホールに流れる昭和ジャズ。すんきちはその空間の片隅で「接客モード」の自分を何とか保っていた。
「すんきちくん、3番テーブル追加で生ビールねー」
「はい…すぐにお持ちします」
小さく返事をして、伝票を手にドリンクカウンターへ、バイトに入ってもうすぐ2ヶ月。まだ慣れない客の顔と言葉が、時々心をざらつかせた。特に、酔った人との絡みは苦手だった。
だがこの日、彼の「苦手」の定義はひとつひとつ塗り替えられることになる。
「……お、今日の店員さん新人?顔見ねぇな」
声をかけてきたのは3番テーブルの奥。目元が暗くてよく表情が見えないが、微笑みながら話しかけてくる…すんきちは思わず1歩、足を止める。
「えっ…あ、いらっしゃいませ。生ビール、ご注文いただいて…ます、よね?」
「うん、頼んだよ。でも今のは注文じゃなくて挨拶だって(笑)まぁ、いいけど。対応ちゃんとしてんじゃん」
苦笑い混じりに言いながら、そいつはグラスを傾ける。ひと口飲んで、「っあー」と気の抜けた声をあげた。
「おまえ、名前なんて言うの?」
「……..は?」
「バイトなのに名札ついてないじゃん。俺、名前呼ぶ方が覚えやすいからさ。きいときたいなって」
まっすぐな目線だった。じっと見られると、胸のあたりがむず痒くなる。まるで何かを見透かされているようで。
「……す、すんきち、です。下の名前で」
「へぇ、珍しいな、なんか、和菓子っぽい名前」
「はは…..よく言われます」
脈絡のない会話に、すんきちは目を泳がせながらも必死に笑みをつくる。無害な営業スマイル。だがそいつはそれをあっさり見破っていた
「無理して笑わなくてもいいよ。別に嫌味で話しかけてるわけじゃないから(笑)」
「……」
どう返せばいいのか分からなかった。だから、すんきちはそのまま何も言わずに頭を下げた。そいつはそれに対して特になんとも言わず、またグラスに口をつけた。
会話はそれで終わるかと思った。だが、会計のとき男はニヤッと笑いながらこう言った。
「じゃ、また来るわすんきちくん。あと、俺の名前『ミス』覚えててね」
「ミスさん…」
「ミスでいいよ(笑)」
心のどこがが小さく跳ねた。
それが警戒心なのか好奇心なのか、自分でもよく分からない。ただーー
(…..変な人だったな)
心に残ったのはそれだけだった。
コメント
1件
天才