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仕事のミスは、取り返しがつくものだった。
けれど、取り返しがつかない“自信”を、みことは失った。
取引先へのメールを誤送信した。
添付ファイルも、宛先も間違えていた。
上司が慌ててフォローに回り、大事にはならなかった。
それでも、会議室で一人、注意を受ける時間は、みことにとって十分すぎるほど重かった。
「最近、集中力が落ちてるように見える」
上司は、責める口調ではなかった。
「体調、何かあるなら、無理しないで相談してほしい」
みことは、曖昧に頷くだけだった。
(相談したら、終わる)
仕事を続けられなくなる。
“普通”でいられなくなる。
その恐怖が、喉に詰まって言葉にならない。
帰り道。
電車の窓に映る自分の顔が、ひどく疲れて見えた。
(俺、何やってんだろ)
ミスをするたび、誰かに迷惑をかける。
忘れるたび、自分が嫌いになる。
それでも、すちの前では笑ってしまう。
「大好きだよ」って言ってしまう。
――でも。
(このままじゃ、もっと壊れる)
怖いのは、病気そのものよりも、 “自分が自分じゃなくなっていく感覚”だった。
夕飯を食べ終えたあと、みことは珍しく黙り込んでいた。
箸を置いたまま、俯いている。
「……みこと?」
すちが声をかけると、みことはゆっくり顔を上げた。
一瞬だけ、迷うような目をしたあと、いつもの笑顔を作る。
「俺さ」
小さく息を吸ってから。
「仕事、辞めようと思う」
すちは、言葉を失った。
「……え?」
「今日、ミスしちゃって…」
軽く笑う。
「迷惑かけちゃったんだよね。これ以上、続けるの、ちょっと怖くなっちゃって」
すちは、みことの手を強く握った。
「怖いなら、休職って選択もあるよ」
「……うん。でも」
みことは、視線を落としたまま、静かに首を振る。
「俺、自分のミスに毎日怯えながら仕事するの、もう無理」
「それに…」
少しだけ、声が震えた。
「迷惑かけるの、ほんとにつらい」
その言葉は、みことの本音だった。
すちは、胸の奥で何かが崩れる音を聞いた気がした。
「……俺が支える」
すちは、迷いなく言った。
「仕事のことも、生活のことも」
「一人で抱えなくていい」
みことは、驚いたように目を見開いて、それから、ふっと笑った。
「すち、ほんと優しいよね」
「当たり前だろ」
「……ありがとう」
しばらく沈黙が流れたあと、みことは、いつもの言葉を口にした。
「すち、大好きだよ」
その声は、少しだけ弱かった。
すちは、みことを強く抱きしめる。
「俺も大好きだよ」
すちは眠れなかった。
(俺一人で、守れるのか)
収入。将来。病気の進行。
頭の中で、現実的な問題が次々と浮かぶ。
けれど、それ以上に怖かったのは…
(みことが、自分を責め続けること)
みことは、きっとまた一人で泣く。
「忘れたくない」と。
「迷惑かけたくない」と。
すちは、みことの寝顔を見つめながら、静かに覚悟を固めた。
――みことの“居場所”になる。
翌日。
みことは、退職の手続きを進めた。
書類の文字を読むのに、少し時間がかかった。
署名のペンを持つ手が、わずかに震えた。
(これで、ひとつ、終わった)
寂しさよりも、妙な空白感が胸に残る。
帰宅すると、すちはいつもより早く帰ってきていた。
「おかえり」
「ただいま」
みことは、少し照れたように笑う。
「今日から、俺、無職だ」
「……胸張って言うな」
すちは苦笑しながら、みことの頭を撫でた。
「これからは、ゆっくりでいい」
「うん」
みことは、安心したように頷いた。
そして、いつものように言う。
「すち、大好きだよ」
みことは、また一人、洗面所で泣いた。
「……仕事、できなくなっちゃった」
「俺、役に立たなくなってくのかな」
涙が、止まらない。
「……それでも」
唇を噛みしめながら、呟く。
「それでも、忘れたくない」
すちの名前を、小さく何度も呼びながら。