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#王子
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祭りの華やかな喧騒が遠のいた後の屋敷は、耳が痛くなるほどに静まり返っていた。
先ほどまでの光の粒や笑い声が嘘のように、廊下を渡る夜風だけが冷たく通り抜けていく。
刹那様は自室に戻るなり、着替えもせずに卓の前に座り、強い酒を煽るように飲み干していた。
その横顔は、祭りの夜に見せた微かな熱を無理やり振り払おうとしているかのように
以前よりもずっと鋭く、そして冷ややかだった。
「……刹那様」
私がそっと背後から歩み寄ると、彼は盃を置くこともなく
ただ一点、虚空を見つめたまま低く呟いた。
「……緒美。お前は、なぜ鬼が好んで人を喰らうか知っているか」
唐突な問いに、私は言葉を詰まらせた。
ただ「空腹を満たすため」……
そんな単純な理由ではないことが、彼の震える声音から痛いほどに伝わってきたからだ。
「我ら鬼という種は、生まれつき欠けているのだ。魂の器にな」
「その虚ろを埋めるために、最も清らかで純粋な人間の情動を───『愛』を喰らって、辛うじて己の存在をこの世に繋ぎ止めている。……だが、俺の家系にかけられた呪いは、それよりもずっと性質が悪い」
彼は自嘲気味に笑い、飲み干したばかりの盃を、力なく畳の上に転がした。
虚ろな音を立てて転がる盃を追うこともせず、彼は語り続ける。
「かつて、俺の先祖は一人の人間の女を愛し抜いた。だが、愛が深まりすぎたゆえに、抱擁の最中に理性を失い……彼女の喉笛を、その牙で噛み砕いてしまったのだ」
「女は死に際、鮮血に染まりながら呪いの言葉を遺した。───『未来永劫、貴方の血族は愛する者をその牙で引き裂き、一生涯、愛に飢えた孤独の中で、のたうち回るがいい』とな」
(そんな……あまりに、悲しすぎる……)
最強の鬼としてこの街に畏怖される彼の力は
同時に「誰一人として愛することができない」という、究極の罰でもあったのだ。
彼が今まで、誰とも深く関わらず、冷酷な仮面を被って生きてきた本当の理由。
それは、彼自身が誰よりも
自分の中に眠る、愛を捕食衝動へと変えてしまう「獣」を恐れていたからに他ならない。
「だから、お前も俺に触れるなと言ったのだ。俺が優しくなればなるほど、俺の中の『飢え』は制御不能なまでに加速する」
「……お前を慈しみたい、抱きしめたいと思う心が、そのまま、お前を殺して喰らいたいという衝動に変わるのだ」
刹那様が、力なく畳に両手を突いた。
その広い背中は、この広大な屋敷の中でたった一人
数百年という永い時を
誰にも触れられぬ孤独に耐え続けてきた子供のように、ひどく脆く、小さく見えた。
私は、気づけば一歩踏み出していた。
愛してはいけない、触れてはいけない。
頭では、何度もその契約を繰り返しているのに
目の前で震える彼を、どうしても放っておけなかった。
「……それでも、貴方様は私を守ってくださいました。私を買い取り、居場所をくださった」
私は彼の背中に、そっと、触れるか触れないかの頼りなさで手を伸ばす。
指先が彼の紺青の羽織に触れた瞬間、刹那様の肩が、電流が走ったかのように大きく跳ねた。
「……やめろ、緒美。今すぐ離れろ。死にたいのか」
「嫌です。刹那様が、今こうして……そんなに苦しんでいるのに、私だけ逃げるなんてできません」
私は彼の拒絶を無視して、そのまま彼の背中に顔を埋めた。
厚い着物越しに伝わってくる、鬼の、異常なほどに高い体温。
それは燃える火のように熱く、けれどどこか、泣いているかのような寂しげな鼓動を刻んでいた。
「私は、喰べられても構いません。……刹那様の抱えるその孤独を、私の命で少しでも埋められるのなら。刹那様を、これ以上一人にしたくないのです」
「……馬鹿なことを……っ、お前は……」
刹那様が激しく振り返り、私の肩を砕かんばかりの力で強く掴んだ。
間近で見つめるその瞳は、怒りではなく
涙を堪えるかのように激しく、切なく揺れていた。
愛が、いつか命を奪う毒なのだとしたら。
私はもう、その毒に全身を侵され、戻れなくなっている。
懐の中の時計が、カチカチと狂ったような速さで
非情にも逆方向に時を刻み始めていた。