5月1日。大型連休の初日を迎えた。
「わざわざお越し頂いてごめんなさいね……」
「いえ」
こういう場には慣れていないのか、心なしか課長の表情は硬い。カップにハーブティーを注がれるのを待って、課長は、
「こちらこそ、お時間を作って下さり、ありがとうございます。……それから、なかなか伺うことが出来ませんで、申し訳ありませんでした……」
「いいのよいいのよ」と母は顔の前で手を振り、「呼べないのってうちの事情なんだから。ごめんなさいね。かえって気を遣わせてしまって……」
「いえ。ところでお父様は……」
「お風呂入ってるのよ。……莉子の恋人が来るってもう、ずっとそわそわしちゃって……あのひと」言って母はティーポットを置くと、ダイニングテーブルを挟んでわたしの前に座り、「変な匂いとかさせられないって、もうね。何時間も入りっぱなしなの」
「……放っておいて大丈夫なの?」
「いいのいいの。あのひとどうせゲームやってんだから。放っておいていいのよ」
「あがったぞー」
「あっほら来た。……ね。なんだかんだ言ったって、あのひと目立ちたがり屋なんだから……」
わたしたちに向けて目配せをすると、母は席を離れ、「あらあら」と言って父の首からかけたタオルを取る。「お客様いらっしゃるんだから、待たせちゃ駄目よー」
「お客様ではないだろう」と怒ったように父が、「……遼一くんは、わたしたちの家族なんだから。お客様という言い方はないだろう……おまえ」
「あらごめんなさいお父さん」舌を出して笑う母は、「さぁさ。積もる話もあるだろうからねえ、ゆっくりしていってちょうだい」
最後はわたしたちに向けたのだろう。笑みを絶やさぬ母は、
「あとでお夕飯の買い物に行きましょう。……それじゃあ、莉子ちゃんたちの話を聞きましょう」
* * *
「莉子さんのことは、とても大切に思っていて……宝物だと思っています……」
改めて言われると照れるわ。課長。真顔でそういう台詞吐けるんだもの。そして似合うんだもの。すごいわ。
「莉子さんには一目惚れで。その……会った瞬間、このひとだ、と思ったんです。だから、一生をかけて、莉子さんを守り抜きたいと……思っています」
「莉子のほうはどうなんだい」と、わたしに水を向ける父。「莉子の……正直な気持ちを聞かせてくれないか」
――正直な気持ち。
「わたし……」どう言うのが正しいだろう。母は……わたしが悩みぬいたことを知っている。「正直、……このひとにわたしがふさわしいのかって、迷うこともあったけれど、いまは……いまは」
わたしは凪いだ海のように穏やかな課長の目線を受け止め、
「わたしが、このひとを幸せにしたい。……わたし、このひとと幸せになりたい……。欲深になれるのって、わたし、初めてなの。……それまでの人生ってどこか……他人事で。他人事のように自分の人生を眺めている自分がいて。なのに、遼一さんといると……どんどん、したいことが生まれるの。欲望があふれて、取り返しがつかないくらいに、好きに……なって。
好きで好きでたまらない。……こんな気持ちを味わうのは、生まれて初めてなの。
教えてくれた遼一さんには……嬉しい。幸せって気持ちでいっぱい……なの」
「……莉子」
課長に頭をぽんぽんとされるの、弱いの。そっと涙を拭う……その手つきも、好き。
わたしにこんな気持ちを教えてくれてありがとう。課長がいるから、いまのわたしはあるんだよ。
うんうん、と涙ぐんで頷く母。黙って見守る父。どれもこれも、家族としての愛のかたち、なのだと思う。
「莉子がそう思えるのなら……よかった」
わたしのことにはあまり干渉しないはずの父がぽつり、呟いた。
* * *
「さぁさ。どんどん食べてー。もっとお肉を焼くわよー」
夕食の場にて、立って母は肉を焼き続ける。「あなたたち若いんだから、どんどん食べて、しっかり大きくなるのよ!」
「いや課長がそれ以上大きくなると、わたしが困るし……」
「お母さんこのお肉本当美味しいです」ご機嫌取りも上手な課長は、「……お父さん。飲んでください」
瓶ビールで父に酌をする。ああありがとう、と頬を緩める父は、
「……莉子は、わたしに似て酒が弱いのでな。飲めないといろいろと不便だ。……莉子のことを頼むよ」
「はい。任せておいてください」
「お父さんそんな大げさな」とわたしは苦笑し、「課長も。そんな結婚前提みたいな……」
「いやするだろう? 結婚。普通に……」課長は笑ってわたしの髪を撫でると、「今年の莉子の誕生日に、入籍しようよ。そしたら絶対に忘れないだろう?」
――いいんだけど。いや、すっごい嬉しいんだけど……。両親の前でってのがちょっと複雑……。わたし、思春期迎えた頃から、父に、距離を置くようになったし。いまさらこんなラブラブ場面見せつけるのってちょっと……アレじゃない? 空気読めてない? みたいな。
「遼一さんのご両親にも、ちゃんとご挨拶をさせて頂かないと」とまとめあげる母。「遼一さんのご両親は、お忙しいの?」
「や……まあ」宝くじのことを言えず言葉を濁す課長。「母は、パートの仕事をしていて、父は、平日は朝から晩まで働いています。莉子さんのお父様ほどではないにしても、……いえ、土日なら空いているかと思います」
「そしたらそうね。今月か……来月までのどこかで、一度一緒にお食事出来るといいわね」
――そっか。結婚って、そうなんだ。
それから母と遼一さんがよく喋るのを、わたしはぼうっと見ていた。なんだか……水槽のなかで泳いでいる魚を見ている感じ。不思議で……不可解な気持ちになった。
* * *
「莉子。あのさぁ……大丈夫?」
「なにが」ととぼけてみても、課長にはお見通しなのだろう。布団の中で、彼はわたしを招き入れる。「途中から入れてなかったから、大丈夫かな、……と」
「うん。あのね……」とわたしは課長の胸元に額を預け、「結婚って、ふたりだけの問題じゃないんだね。ふたりきりで解決出来る問題じゃない。相手の家族をも巻き込む一大事……なんだよね。そう考えると、なんか……急に、怖くなってきて」
わたしを突き飛ばした綾音ちゃんのことを思い返す。奪われた女が怒りに走るとああなるのだ。だが決して――他人事ではない。
「課長を好きな誰かを傷つけて、そこまでして……手に入れるべき幸せなのかな……って」
わたしの髪を撫でる課長の手つきはやさしい。――普通の男であれば、ここは、『おいおいいまさらそんなこと言うなよ』って突っ込む場面だろうけれど、課長はそうはしない。――ある程度吐き出させてから自分の意見を表明する、そういうアプローチを好む男だ。
「勿論、わたしが一番好きなのは課長だけれど。この気持ちが……いつまで続くのかなって。このときめきがいつか消え失せるときがあるのかな……って思うと。怖くなって。
うちの母だって交際当初は熱心に父にアプローチされてるって言ったけど。見ての通りよ。夫婦っていうより、頼れる同士、って感じ……。父は趣味のことで熱くなるところはあるけれど、家族の問題に対しては、なんというか……冷淡なひとなんだよね。冷めた目線を持っている……」
「おれたちの愛のかたちが今後どう変わっていくのかは、誰にも分からないけれど」しん、とした部屋に課長の低い声が響く。「それは、お互い、そのときそのときで、考えて……ベストなやり方を見つけていけばいいんじゃないかな?
莉子。おれの目から見て、きみのお母さんは、幸せそうだったよ……。よく笑って。よく食べて。お元気そうで安心した。
それにきみのお父さんも、きみが幸せそうなのを見て満足していた。きみは……愛されているんだね。莉子……」
「父は、……わたしのことを、都合のいい人形としか見ていないのかな、って思うことがあって。手軽に満たされるリカちゃん人形みたいな。好きに物を買い与えるし、その一方で、学校絡みの面倒で些末なことはすべて母任せ。……わたしが、課長のプレゼントに過剰反応したのは、父のことも……あったと思うんです……」
「歪みのない家庭なんてどこにもないさ」と課長。「よっぽど相手を痛めつける行為を除いては……それは、その家庭の在り方だから、容易に口出し出来る問題じゃない。おれだってひとには言えない変なところだってあるさ。誰だってそうさ。変な者同士がくっつけば、そりゃあ、変なことだって起こりうるさ……」
「……新しいセックスのやり方とか?」
わたしのジョークにくすりと課長は笑った。「それもそうなんだけど。おれ、はっきり言ってヤンデレだよな。……荒石くんの暴走が、他人事とは思えない。一歩間違ってたらおれもああなるんだって……反面教師にさせて頂いている」
「課長は、無理にわたしにお酒を飲ませたりしません」とわたしは顔をあげ、彼の顔を見据えると、「課長は……いつも、わたしのして欲しいことをしてくれる……だから、満足なんです……」
「実を言うと、おれも、冷淡なところがあってな……。きみの気持ちが分かる気がするんだ。……莉子。おれたち、似た者同士なのかもな……。誰かのために熱くなって、でも、自分のことに関しては変に冷淡で……」
そっか。だからわたしたちは惹かれ合うのだ。その理由が改めて分かった気がする。
「似た者同士、これからも仲良くしましょう」
「ああ」
ぎゅう、と課長を胸に抱き締めて、わたしは幸せなぬくもりに浸った。
* * *
もう一泊していけばいいのに、という母の発言をよそに、わたしたちは、実家を後にした。帰り道をてくてく歩いていると課長が、
「……えっちしたい」
「わたしも!」と課長のたくましい腕に抱きつき、「あでも、ハードなのとかは駄目ですよ? 激しいのは好きですけど。……課長」
わたしは踵をあげると彼の耳に、息を吹きかけ、
「だーいすき」
顔を真っ赤にする課長が愛おしくって、気が付けばいっぱい彼にキスをしていた。
「……莉子。もう、そんくらいにしておいて。みんなが見てる……」
「あ」
駅前で、完全いちゃつくバカップルだこれじゃ。笑って彼の腕を引き、わたしは……幸せな結末が待ち受ける未来へと、飛び込んだ。
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