その翌週金曜の夜、とある洋風居酒屋のカウンター席に私は一人で座っていた。
二十代初めの頃は、一人で飲みに出かけることなど考えたこともなかった。けれどこの店にだけは一人でも来ることができるし、今では一人で来ていても、のんびりと寛げる居心地のいい空間になっている。
店の名前は「リッコ」。マスターの奥さん「梨都子」の名前に由来していることは、ここに初めて来た時に知った。
私がこの店の常連になったきっかけは、ここを指定してきた友達本人が、訳あって急に来られなくなったことにあった。一杯だけ頂いた後、そのまま一人で飲むのは寂しいと思い帰り支度を始めていた私を引き留めたのは、その時その場にいた梨都子だった。
話し上手、聞き上手な彼女と、その夫であるマスターとは、あっという間に仲良くなった。それからは時々、今夜のようにふらりと一人で店にやって来ては、軽く一杯程度のお酒を飲みながら食事をするのが当たり前となっている。
飲みなれたレモンサワーをいつものように注文する私に、マスターの池上が告げる。
「今夜は後で梨都子が来るよ」
「そうなんですね。会うの、久しぶりかも」
「さっき梨都子にメッセージ送ったら、碧ちゃんが帰るって言っても引き留めておいて、だってさ」
「顔を見ないで帰るなんてこと、しませんよ」
くすっと笑う私に、池上がふと私の手元を見て訊ねる。
「ところでグラス、空いてるみたいだけど、どうする?何かお酒作ろうか?」
私は少し考えてから答えた。
「梨都子さんが来てからにします」
「そう?じゃあさ、今日出す予定のデザートがあるんだけど、先に食べてみる?」
「デザート?今月は何にしたんですか?」
「今月はね、シンプルにプリンにしました」
「食べたいです!」
「今出すね」
ワクワクしながら待っていると、ホイップクリームとフルーツを添えたプリンが目の前に現れた。
「わっ、美味しそう。いただきます!」
私は早速スプーンを手に取り、プリンをそっとすくい取って口の中に入れた。
「んんっ!懐かしいような味。美味しいです。池上さんのデザート、外れなしですよね。もしかして、お菓子屋さんもやれたんじゃないんですか?」
「さぁ、どうだろね。俺にはこっちの方が性に合ってるみたいだよ」
池上はあはは、と笑う。
「なんにしても、料理できる旦那さんっていいですよねぇ。そうやって、梨都子さんの胃袋をつかんだわけですね?」
にやにや笑いながらそんなことを言った時、不意に私の背後に誰かが立った。
「そうなのよ。つかまれちゃったのよね」
その声に振り向くと、いつ来るかと待っていた梨都子が、悪戯っぽい顔をして私を見下ろしていた。
「もうっ、びっくりした。気配を殺すのはやめてくださいってば」
「あはは、ごめんね。二人して楽しそうに喋ってたから、邪魔したら悪いかなと思ってさ」
「なんですか、それ。私、梨都子さんが来るって聞いて、今か今かと待っていたんですからね」
苦笑する私に笑顔を見せながら、梨都子は隣の席に腰を下ろした。
「ねぇ、真人。ジントニックが飲みたい」
「オッケー。碧ちゃんは?」
「私も梨都子さんと同じのをお願いします」
「あれ?今日は飲んでなかったの?」
「違うの。二杯目は梨都子さんが来てから頼もうと思って、先にデザート出してもらってたんです」
私は自分の目の前に置かれた食べかけのプリンを目で示す。
「そうだったんだ。これ、美味しいでしょ?私の好きなタイプのプリンなんだ」
「そうなんですね。毎回なんでも美味しいけど、今回のはなんていうか、懐かしい感じの味がする。ほっとする美味しさって言うのかな」
「今の碧ちゃんの絶賛コメント、聞こえた?」
梨都子は目を輝かせて池上を見上げた。
池上は嬉しそうに笑っている。
「碧ちゃん、いつも美味しいって言ってくれてありがとね」
「美味しいから美味しいって言ってるだけですよ」
そうやって小一時間ほど、梨都子と、時には池上も交えてお喋りしながら飲んでいたが、ふと時間が気になった。
「今何時かな」
時刻を確かめるためにバッグの中から携帯を取り出した。手帳型のカバーを開いた時、床にひらりと落ちたものがあった。
「あ……」
太田の名刺だった。
床に手を伸ばした私よりも先に梨都子がそれを拾い上げて、目の前にかざした。
「名刺?」
「それは……」
梨都子はぴらっと裏を返し、しげしげと見つめている。それから私を横目で見て、意味ありげに微笑んだ。
「碧ちゃんたらスミに置けないじゃないの」
「そういうのじゃないから。返してくださいよ」
私は手を伸ばして、梨都子の手から名刺を取り返そうとした。
梨都子はにやにやしながら、私の手の届かない高さまで名刺を高く掲げた。
「この手書きの番号って、この人のだよね?よく見たら、碧ちゃんと同じ会社の人なのね。いつもらったの?電話はかけてみた?」
私は梨都子の手から名刺を奪い返すことを諦めて、肩で息をついた。
「かけてません」
梨都子の目が見開かれた。
「どうして?嫌いな人なの?」
梨都子の勢いに、私はたじたじとなった。
「別に嫌いってわけじゃないけど……」
「それなら、とりあえず連絡だけでもしてみればいいのに。それでさ、会って話してみたら、何かが変わるかもしれないでしょ?そうだ。一対一で会うのが不安なら、ここに連れてくればいいわ。私がじっくりと見定めてあげる」
「そういうのはいいですって……」
これは酔ってるな……。
私はカウンター向こうの池上に目で助けを求めた。
池上は「悪いな」と謝る仕草を私に見せてから、梨都子をたしなめる。
「梨都子、碧ちゃんが困ってる。いい加減にしないと嫌われるぜ。その名刺も早く碧ちゃんに返しなさい」
梨都子はぷうっと頬を膨らませながら、渋々名刺を私に返した。
「だってさぁ。碧ちゃんが幸せになるきっかけになるかもしれないでしょ?だったら、何か協力したいなって思ったんだもん」
池上は呆れたようにため息をついた。
「そういうのは、頼まれてからでもいいだろ。それまでは口出ししないで見守っていればいいんじゃないのか。碧ちゃん、ごめんな。梨都子はさ、碧ちゃんのことを妹みたいに思ってて、心配してるだけなんだ」
梨都子をフォローする池上に微笑ましさを感じつつ、私は苦笑を浮かべて頷いた。
「もちろん分かってますから」
私と池上の会話に、梨都子は不満の残る顔つきで割り込んでくる。まだ言い足りないらしい。
「だって、碧ちゃんは合コンの話には乗ってこないし、ピンポイントで誰か紹介するって言っても全然興味のない顔するし。そうなると、出会いの場なんか限られてくるでしょ?もたもたしてたら、気づいた時には出会いのチャンスなんか相当減っちゃってるし、いいオトコなんてとっくにヒトのものになってるんだからね。ついでに言うと、残り物に福はないのよ」
「残り物、って、お前なぁ……。語弊があるからそういう言い方はやめろよな」
池上の顔がぎゅっとしかめられ、口調も強まったところに、苦笑交じりの声がさらりと降って来た。
「残り物に福はないって、いったい何の話してるの?」
よく知る声に、私と梨都子は揃って首を後ろに回した。
「史也君。いらっしゃい」
「清水さん、こんばんは」
「よう、史也。先週ぶり」
「どうも。なんか今日は暇そうだね」
清水は店内をぐるりと見渡した。
「一番忙しい時間は終わったんだよ」
「そうなんだ。ま、結構遅い時間だもんね」
清水はスーツのジャケットを脱いで椅子の背にかけると、私の隣に当然のように腰を下ろした。
「席はそこでいいの?」
「もちろん。俺の定位置だからね。池上さん、俺のボトル、出してよ」
「オッケー」
池上は清水の言葉に頷いて、ずらりとボトルが並ぶ棚に手を伸ばした。
清水も「リッコ」の常連だ。池上夫妻とは昔からの知り合いらしい。何度かここに足を運んでいるうちに私も彼と親しくなり、今では仲のいい飲み友達だ。
お絞りで手をふきながら、清水はにこにこと梨都子に笑いかけた。
「今日はツイてるなぁ。碧ちゃんだけじゃなくて、梨都子さんにも会えるなんて」
梨都子はふふんと鼻で笑う。
「相変わらず調子がいいわねぇ」
「いやいや、本心ですって。ほんと、いつ見てもお綺麗で。目の保養になります」
「本心ねぇ。どうだか……」
ぶつぶつ言いながらも、梨都子はまんざらでもない顔をしている。
「二人とも今日は仕事だったんだよね?お疲れ様ってことで、乾杯しようよ。池上さんも、そろそろ飲んじゃっていいんじゃない?見れば常連さんたちしか残っていないみたいだし。――ねっ、皆さん。池上さんも、もうお酒飲んじゃって構いませんよね?」
清水はくるりと体の向きを変えて、テーブル席の数人に向かって声をかけた。
「どうぞどうぞ!」
「マスター、ごちそうするよ」
返って来た陽気な声に、清水はにっと笑った。
「……だってさ」
彼の笑顔を受けて、池上は嬉しそうな顔をした。
「それじゃあ、お言葉に甘えて、一杯だけ飲んじゃおうかな」
池上はいそいそと出してきたグラスをビールで満たす。
「それでは、改めて乾杯!」
清水の音頭を合図に、それぞれがその場でグラスを高く掲げた。
梨都子の口調が怪しくなり始めたのは、それから間もなくだった。
「だから……碧ちゃんはさ、もうちょっとガード緩くした方がいいって……」
池上は眉をひそめて梨都子の前に水を置く。
「梨都子、もう帰りな。タクシー呼ぶから」
「それなら、私、一緒に乗っていきます。住所だけ教えてもらえれば」
「だったら、俺も一緒に帰るよ。池上さんの家は知ってるからさ」
「大丈夫よぉ。一人で帰れるって」
梨都子は楽しそうに、あははと笑う。
「まったく……」
池上は呆れながらも心配そうな顔で梨都子をちらりと見て、私と清水に申し訳なさそうな顔を向けた。
「それじゃあ、悪いんだけど、一緒に帰ってもらってもいいかな?俺は店の片づけが残ってるから……。しかし、梨都子がこんな風に酔っぱらうことって、珍しいんだけどな。いよいよ年なのかね」
「ちょっとぉ、年とは聞き捨てならないわね」
「あ、聞こえてた?」
池上は梨都子の文句を軽く流す。
二人のやり取りに笑いたくなるのを我慢して、私は酔っぱらい状態の梨都子をまじまじと見た。
「でも、私もこんな梨都子さんを見るのは初めてかも」
「俺も。これはなかなか貴重だな。今度会った時のネタにもなる」
清水は愉快そうに笑っている。
「やれやれだな」
池上は苦笑いしながら、電話を手にした。
「タクシー呼ぶよ」
そう言って池上が電話をかけてから十数分後、タクシードライバーが私たちを店まで呼びに来た。
「今行きます。……碧ちゃん、梨都子さん、行くよ」
私たちを促して席を立つ清水を、池上が引き留める。
「これでタクシー代払ってくれ。もしも足りなかったら後で教えて」
「分かりました。ここはお言葉に甘えさせてもらおうかな。――じゃあ、行こうか」
「うん。梨都子さん、帰りますよ」
声をかけると、梨都子はご機嫌な様子で立ち上がった。そのまま私の腕に自分の腕を絡ませる。ふらつく身体を支えたいのなら、小柄な私よりしっかりした体躯の清水の方が安定するはずだ。それなのにあえて私に寄りかかるところは、夫である池上の気持ちを考えてのことなのだろう。酔ってはいても、そういうところはしっかりしているんだな、と感心する。
二人とも、お互いを大切に思ってるのが分かるもんね――。
羨ましく思いながら、私は梨都子を抱えるようにしてタクシーまで連れて行った。後部座席に梨都子を先に乗せて、自分はその隣に座る。助手席には清水が乗った。
まずは梨都子を送り届けるべく、清水の案内でタクシーは無事に目的地へとたどり着く。
「ここですか?」
「うん、この一軒家。ドライバーさん、すみませんが、少しだけ待っててもらえますか?」
清水はそう告げて、車の外に出た。
「梨都子さん、お家に着きましたよ。降りましょう」
私は声をかけながら彼女の腕を取り、車の外に引っ張り出す。
「玄関まで一緒に行きますね」
「二人とも悪いわねぇ。だけどもうダイジョブよ」
眠たそうではあるが、思いの外しっかりした声で梨都子は言う。
「ほんとに?鍵、自分でちゃんと開けられます?」
「ダイジョブダイジョブ。史也君、碧ちゃんのこと、ちゃんと送ってね。よろしく」
「了解です」
清水は笑いながら片手を上げてみせた。
「よし。梨都子さんも大丈夫みたいだし、俺らも帰るとするか」
「そうですね。梨都子さん、またね。おやすみなさい」
「ありがとね。二人ともおやすみ」
足元をややふらつかせながらも、梨都子が確かに玄関のドアを開けて家の中に入ったことを見届けて、私たちは待たせていたタクシーに乗り込んだ。今度は二人して後部座席に乗る。
「さて。次は碧ちゃんね。矢本町だっけ?」
「はい」
「ドライバーさん、次は矢本町にお願いします」
「矢本町ですね」
ドライバーは確認するように繰り返してから、車を発進させた。
車に揺られながらふと思う。
「梨都子さんが家に着いたこと、連絡しておいた方がいいですよね」
「そうだな。池上さん、きっと心配してるだろうからな」
清水が携帯を取り出そうとするのを止めて、私はバッグに手を入れた。
「私、かけますよ」
店の方に電話をかけると、池上はすぐに出た。
「梨都子さん、ちゃんと家に帰りましたよ」
―― 悪かったね。ありがとう。少し前に梨都子からも電話があったよ。今度お詫びとお礼ということでご馳走させて、だってさ。
「その時は遠慮なく、清水さんと一緒にご馳走になります」
―― 史也は?
「一緒にいます。次は、私を送ってくれるそうです」
―― そっか。ありがとうって言っておいてくれる?
「はい。伝えておきますね」
電話を切って携帯カバーを閉じた時、清水が私に何かを差し出した。
「これ、落ちたよ」
目を凝らして、それが太田の名刺だと気づいて慌てた。電話をするためにカバーを開けた時に、またしてもケースの中から落ちてしまったようだ。清水にからかわれると思い、私は身構えた。
けれど清水は、至って普通の調子で私に訊ねた。
「誰の名刺?」
「えぇと、会社の同僚の……」
「裏に電話番号が書いてあったね」
「あぁ、それは……」
私は口ごもりながら、清水の手からその名刺を受け取る。
「付き合ってほしいって言われて。それで、もらったんです」
「ふぅん。電話しないの?」
「今迷ってるところで……」
「どうして?嫌いな人なの?」
「嫌いじゃないんですけど……」
返事に困って目を泳がせたタイミングで、タクシーが止まった。
「なんだ、残念。もう着いたのか。この話、もう少し聞いてみたかったのにな。近いうちに、またリッコで飲もうぜ」
「……そうですね」
私は曖昧に笑った。このことは梨都子にも知られたことだし、次に二人の間に挟まれたら、酒の肴にされそうな予感がする。
タクシーのドアが開いたのをきっかけに、私はそそくさと清水に挨拶をする。
「それじゃあ、また」
タクシーから降りる間際、私の背中に向かって清水は言った。
「その人のこと嫌いじゃないなら、とりあえず電話してみたら?もちろん、他に好きな人がいるのなら話は別だけど」
動きを止めた私に、彼はさらに続けた。
「もしかしたら、何かが変わるかもしれないよ。……なんてね。余計なお世話だよな。またね」
「はい。あの、送ってくれてありがとうございました」
何かが変わる――。
それは梨都子からも言われた言葉だ。清水を乗せたタクシーを見送りながら、私は飲み友達二人の言葉を心の中で繰り返していた。