幼馴染の佐藤とおじさんが繁華街でキスしていたという噂を聞いて、ショックでなかったわけではない。怜は部活動の最中にそれを同じクラスの川中から聞いて、翌日は本人からもその話を聞いた。朝クラスに向かって歩いている怜の方へ、制服のスカートを靡かせながらよく知っている顔の女が怜に向かって話しかけてくる。
「そもそもあんなところ行ったの、私の意思じゃないの。」
ユウは三日前の放課後、半年ぶりに帰郷していた従姉妹と待ち合わせをしていたという事だった。いつもの通りに流暢に話していた佐藤ユウは、けど怜が聞いていたあの場所の話に差し掛かると、急に言葉がゆっくりになる。
(したんだな。)と思った。
怜が相槌を打たずに首を傾げていると、みるみるユウの顔が赤くなる。
「おーい!ユウ!こっち」
同じクラスの女子から呼ばれ、佐藤ユウが振り向き怜の方をちらっと見た後で走って行く。
ホームルームの時間が始まり、いつも通りにクラスメイトと並んで担任からの連絡に耳をかたむける。
一体なんで、あんな言い訳していたんだろう。怜はユウの顔を思い出しながらそう考えていた。
板書をする時間、皆が無言でペンを走らせている。怜も同じように、ノートに書き取りしながら、昨日のことを思い出している。サッカー部の川中の友人が見たという相手は、50代半ばか、高校の教師としていてもおかしくないくらいの年齢の中年だったという。だから、噂を聞いた時はすぐ、ユウにはそういう趣味があるのかと思った。どちらにせよ、それに対して何かを言う気が起こらなかった。別に不愉快だったわけでも、寂しかったわけでもない。むしろ、そういう話はスルーするのがお互いの精神衛生的に良いんだと感じてた。でもこれは、怜が不可解なことに出会した時のいつもの反応に過ぎなかったのかもしれない。
話しかけてきたユウも話しながら、不可解な顔で怜を眺めている。ともかく、怜にとっては海外のセレブ結婚のたぐいのニュースをいきなり聞いた時のように青天の霹靂ってこういうことなのかと思っていたのだった。
二時間目の授業は岩田の社会だった。イワタは、ごく個性のない中年の教師ではあったが、なぜか女子生徒からは人気がある。答案を返しているイワタを見ながら、いつもは(ふーん)くらいしか感想を抱かない怜だったが、今日は岩田のする事をじっと見ながら一体この男のどこが女子から受け入れられるに値するのかを考えていていた。
机の上でくるくるとペンを回す。一年の時は、すぐに手の上のペンが落っこちたが今は何度でも回すことが出来る。隣の席の林さんがチラチラこっちを見ている。怜は、林さんが好きなテレビタレントの事を考えている。イワタの見た目は、普通だと思う。服装は、清潔感がある。普通に二人子どもがいて、バレーボールの顧問をしている穏やかな教師だった。もし他の教師と違うところがあるとするなら、生徒と距離があるということかも知れない。
岩田は中年五十代半ばという属性でなくって、自分の中にある良い教師という属性を着てから怜達の前に現れていると思う。…そういうのが、授業中の受け答えや、生徒がやらかした時の優しさなんかに現れている。自分達みたいな両親からの干渉や、馴れ合いの延長の果てにあるような毎日の生活の中で生徒からイワタを「別のもん」と思わせているんじゃないか。
「なあ。」
「ん」
「お前さ、例えばだけど。
めっちゃ、美人の五十くらいのおばさんがいるとするでしょ」
水飲み場でたむろしていた友人の西川に向かって怜が手についている水滴を飛ばしながら言う。
「その相手と…一緒にご飯食べれるとしたら、お前食べに行く?」
「行くわけ、ねーだろ」
「そうだよな。」
そう答えて、ふと考え直す。「じゃあ、普通の五十くらいのおばさんが、自分からしたらすごく好みだったとしたら、キスくらいしてもいいと思う?」
「うーん。」
西川は考えている。
「うん。
『すごく好み』だったらな。」
ふーん、と怜は言って、でも、それだったら自分だってそうだと思った。自分で聞いておいて結局それは、ものの聞きようみたいな話じゃんと思った。
「それ以外は?」
「ん…お前、もしかして佐藤のこと考えてる」
「うん。それ以外の、普通の、例えば数学の矢田みたいなおばさんだったら、どう」
「え…。なに?」
「だから、キスか食事、しても良いって思う?」
「思わない。多分援交してるみたいな気持ちになる」
西川はそう言った後ですぐに別の友人に呼ばれたようで、怜に背中を向ける。
サッカーボールを思い切り足で蹴る。そうすると、思った方向へ気持ちよくそれが飛んでいく。相手がそれを足で受け、前へ向かって走っていく。
サッカーはそれの繰り返しだった。それの何が楽しいのかと聞かれたら、多分答えられない。でもその時の時間は、他の何をしているよりも早く過ぎると思う。
汗を流した後で、外に設置されている水飲み場から水を勢いよく流し、怜は横から口を開けてそれを飲んでいる。
ーー怜はそれからも、色んな「組み合わせ」について考えていた。
例えば、コンビニでよく見かける30代くらいの女。用務員のおじさん。通りすがりの会社員、鼻歌を歌って歩いているちょっと危ない感じがする若い男…
ああいうのとキスしなきゃいけないとしたら自分はするだろうか。
(するわけがない。)
そう思い、汗をタオルで拭う。
やっぱり考えてみたところで、ユウがしていたことがどんな状況で、どんな感覚であったのかは分かりそうになかったし、それに対して自分がどんな気持ちでいるのかもよく分からなかった。
帰りの支度が終わり、怜はサッカー部の友人達に別れを告げると玄関から出る前に一階のトイレへと入った。一つだけ個室のドアが閉まっていて、中で物音がする。怜は気にせずに個室のひとつに入り、用を足した。
外へ出ると、さっき埋まっていた個室は未だ中に誰かが居るようだった。
怜が手を洗っていると、突然ガタガタッと音がして、さっきの個室の中から生徒が飛び出してきた。
そこに居たのは、隣のクラスの笹岡だった。
一瞬、何があったのかとそっちを見るが、まだドアの中から「やめろって言ったろ!」と声が聞こえてきたので怜はそっちの方を見る。笹岡は驚いて蓮の方を見ていたが、何か諦めたような顔をして立っている。
声がした個室の中から出てきたのは、怜も見たことがある生徒だった。生徒会にいる三年の生徒だ。名前は覚えていないが行事のたびに生徒代表で話をしているのを見たことがある。その顔で怜の方を見て突如怯えたような顔になる。笹岡に向かって叫んだあとも小さく口を開けっぱなしだった相手の生徒は、笹岡の方を睨んだかと思うとダッシュでトイレから出て行った。
残された怜はあっけに取られて残された笹岡の方を見る。
…たしかこいつは、吹奏楽部に所属していた。入学式のときに細い身体で、これまた細い楽器を演奏していた姿が何故か脳裏に焼き付いていた事をたった今思い出す。
「今の…どうしたの?」
怜がそういうと、踏み出してきた笹岡が怜の腕を引き、抱き寄せたかと思うと怜の唇に自分の唇を重ねた。
怜が驚いていると、笹岡は怜の頭に手を伸ばし、そのままドラマでしか見たことのないような濃厚なキスを始めようとする。怜は慌てて、自分から笹岡の体を引き離す。
「ちょ、」
「びっくりした?」
「何すんだよ」
怜は改めて笹岡の顔を見る。何を考えているのか、よくわからない表情でこっちを見ている。
「え。…これが、俺たちのしてた事。」
してた事?
怜はまじまじと笹岡の顔を見ながら、言われている事を理解しようとしてみる。
トイレで。同じ男同士で。
個室で。
片方が叫んでて。
その顔を見て、笹岡が笑い出す。怜はその笑い声を聞きながら、場違いに、そういえば笹岡が笑ってるのを初めて見たと思った。
一年の頃から、どちらかというと多分笹岡は暗くて、影を背負ってるような生徒だと思っていた。こんなことで笑うのかと、今し方されたことも忘れて怜は考えていた。
「今からおまえも、共犯だからな。誰にもいうなよ。」
笹岡はそう言って、あっけに取られている怜を残してトイレから出て行った。
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