現実世界・オルフェウス号 午前10時過ぎ
ハレルは自室のカーテンを閉め切り、椅子に深く腰を下ろした。
船は静かに揺れているだけだが――胸の奥は落ち着くどころではない。
(……また誰か死ぬ。そんな気配がする。
ただ“待つ”なんて、出来るわけがない)
胸元のネックレスに触れる。
金属は、微かに熱を帯びて脈打つように震えていた。
「セラ……聞こえるか?」
応答はない。
いや、遠く、砂の擦れるような微細なノイズだけが返ってくる。
「頼む……リオのところへ飛ばしてくれ。
やってみないとわからないってのは分かってる。
でも、このままじゃ……何もできない」
しばらく沈黙。
次の瞬間、部屋の空気がわずかに歪んだ。
――《……可能性は、低い。
でも、やってみる》
セラの声だ。
いつもより、ノイズまじりで不安定だった。
「頼む。行かせてくれ」
――《……転移座標、確定中……境界……揺れて……》
目の前が白く弾けた。
◆ ◆ ◆
異世界・ゼルドア要塞城 同刻
訓練場の空気は冷たい。
剣の衝撃音、魔術の光、兵士たちの怒号――
城壁の石がわずかに震えるほどの騒ぎ。
アデルが声を張り上げる。
「そこ! 紋が崩れている! やり直せ!」
周囲の訓練兵たちは緊張しきった表情で、捕縛魔術の紋を描き続けている。
中には手が震えている者もいた。
“昨夜の密室殺人”が、確実に彼らの精神を削っていた。
――前日、レオン=バークハルトが密室で殺された。
その衝撃は一晩では収まらず、
食事係の女性たちはひそひそと耳打ちし、
医療班の魔術師たちは「魔法による焼灼痕だ」と囁き、
若い兵士たちは落ち着かない視線で廊下の影を気にしていた。
訓練中であっても、誰もが“自分も次かもしれない”と感じている。
そんな空気の中で、アデルの声だけが鋭く響いた。
「集中しろ! サボれば死ぬのは訓練ではなく現実だ!」
長身の白外套を翻し、
銀の剣を腰に下げたアデルは、
いつもより厳しい表情で魔術陣の描き方を教えていた。
「捕縛魔術・第三級! 魔力線を乱すな。
これは“動きを止める技”だ。甘さが出れば抜けられるぞ!」
訓練兵が震える声で返事をする。
「は、はい……!」
リオは一歩進み、
静かに深呼吸して空中に紋章を描く。
青い軌跡が弧を描き――
淡い光の鎖が、指定された標的に絡みついた。
「……ど、どうだ?」
アデルは腕を組み、小さくうなずく。
「悪くない。が、まだ“本気の相手”には通じない。
何度も言うが、力ではなく精度だ、リオ」
「承知している。」
そう答えながらも、リオの表情は曇っていた。
(……胸騒ぎがする。昨夜の死と、揺らいだ転移地点。
境界が不安定なままなのは分かっているが……)
背筋に寒気が走る。
そのとき――
空気が微かに揺らいだ。
「……セラ?」
リオの腕輪が淡く光る。
だが返答は断片的だった。
――《……り……お……境界……ずれ……》
「どうした……?」
反応の途切れた腕輪を見つめる間もなく――
突然、訓練場の空気が裂けた。
光の粒が舞いあがる。空間の端が波紋のように歪む。
パアン、と乾いた音とともに、
青白い光が中庭の中央から爆ぜる。
兵士たちが一斉に後ずさり、
アデルが剣に手を伸ばす。
光がほどけ――
その中心に、ひとりの人影が落ちてきた。
「……っ!」
リオが駆け寄る。
「ハレル!?」
ハレルは片膝をつき、息を荒げながら顔を上げた。
「……成功、したのか……? セラ……」
リオは呆れ半分、驚き半分で肩を支える。
「普通やらないだろ……境界が揺れてる時に飛んでくるとか」
「……悪い。もういてもたってもいられなかった」
アデルが険しい顔で走ってくる。
「ハレル! 雲賀ハレル、貴様どうやって?またセラか?」
「ああ……ごめん。今はそれどころじゃない時間がない。」
その言葉に、アデルも口を閉じた。
緊張感の正体に、心当たりがあった。
◆ ◆ ◆
ハレルとリオ、アデルは、訓練場を離れながら情報を共有した。
「榊良太。赤城翔。二人とも“胸を熱で焼かれた刺し傷”。
しかも、密室。これはただの殺人じゃない」
リオの表情が僅かに歪む。
「こちらのレオンとまったく同じ手口。犯人、転移者で間違いないな」
「そうだ。だから頼む。
この城にいる人たち――全員の持ち物を確認したい。
転移者かどうかの手がかりがほしいんだ!」
アデルは一拍置いてから、静かにうなずいた。
「分かった。王国警備局の権限で一時検査を行う。
ハレル、お前も同行しろ」
「もちろん!」
◆ ◆ ◆
ゼルドア要塞城・居住区 正午前
ハレルとリオに続き、アデルはすぐに他の教官団へ連絡を飛ばした。
王国軍、警備局、魔術研究局――
この年に一度の“巨大合同訓練”には、
計百名を超える訓練兵と、十名以上の教官が常駐している。
異世界側で二人目の殺人が確認された以上、
全員の安全確認と“犯人の潜伏”を疑う必要があった。
アデルの号令で、教官団が一斉に動く。
「各隊、所属と人数の点呼を開始してくれ!
一人でも姿が見えなければ、すぐ私のところへ報告!」
「了解!」
石造りの長い廊下に、複数の教官の声が反響する。
ハレルとリオは、その横を歩きながら状況を整理していた。
「……この規模だと、犯人が紛れるのは簡単だな」
リオの声は低く、落ち着いていたが――
その眼差しの奥には、鋭い警戒が宿っていた。
「でも、持ち物検査なら……何かわかるかも」
ハレルが言うと、近くにいた教官の一人がうなずいた。
「捕縛術式の刻印石、魔術発動媒体、刃物類……
あらゆる道具を確認する。
訓練兵全員に“転移用の術式”を刻んだものを持つ者はいないはずだ」
リオが補足するように言う。
「転移は、特別な媒体か術式がないと無理なんだ。
転移痕が残るような物――たとえば熱刃の魔術痕とか、
術式が刻まれた石片があればすぐわかるはず」
「そんなもの、普通の訓練兵が隠し持てるのか?」
ハレルの疑問に、リオは短く首を振る。
「……無理だと思う。だから余計に不気味だ」
◆ ◆ ◆
要塞城・中央ホール 午後1時
数百人規模の兵士と職員が、
各隊ごとに整列し、所持品を机の上に広げている。
革袋、食糧、魔術札、訓練用の木剣。
医療班の者は薬草キットや治療具を並べ、
厨房係の者は小型の調理器具を提出し
、 魔術研究局の若手は、魔法陣の印を刻んだ手袋を外して机の上に置いた。
教官の一人が、長い杖を突きながら歩く。
「魔術痕反応なし……次!」
別の教官が冷たい声で告げる。
「この袋、中身を全部出せ」
城内は、張りつめた空気で満たされていた。
(誰だ……?この中に犯人がいるのか?
それとも、すでにどこかへ消えた……?)
ハレルは一人一人の表情を見ながら歩く。
震える者、落ち着かない者、逆に妙に冷静な者――
いずれも“動揺”の色はあるが、決定打はない。
リオもまた、周囲をじっと観察していた。
その視線は鋭いが、焦りは見せない。
(……この中に紛れているなら、必ず痕跡があるはずだ)
◆ ◆ ◆
要塞城・西棟へ向かう廊下 午後1時40分
検査は終盤に差しかかり、
大広間に残るのはあと数十人。
そのとき――
「教官! ちょっと来てください!」
青ざめた表情の兵士が駆け寄ってきた。
アデルが足を止める。
「どうした!」
「西棟の私室で……っ!
ひとり倒れていて……返事がありません!」
ハレルとリオは顔を見合わせる。
(また……? いや、こんな“検査の最中”に?)
アデルは即座に走り出した。
「案内しろ!」
兵士が先導し、三人は石造りの廊下を駆け抜ける。
扉の前には、数名の訓練兵が怯えた様子で立ちすくんでいた。
「開けた瞬間……もう倒れてて……!」
兵士の声は震えていた。
焦げ臭い匂い。
扉の一部が、外側から焼け焦げて黒く変色している。
アデルが深呼吸をひとつ。
「下がれ!」
扉を押し開ける。
その先――
薄暗い一室の奥に、人影がうつ伏せに倒れていた。
リオが息を呑む。
ハレルの首筋に、冷たいものが走る。
“第四の死”が確実にそこにあった。
アデルが低くつぶやく。
「……とうとう“行動を急いだ”か」
ハレルの胸元のネックレスが、不穏に明滅する。
アデルがわずかに目を細め、剣の柄に触れた。
リオは肩越しに長い廊下を振り返る。
その奥で、待機中の兵士たちがざわつき――
誰もが“見えない何か”に怯えていた。
ゼルドア要塞城を包む空気が、
確実に、ゆっくりと、重く沈んでいく。
まるで――この孤島全体が、ひっそりと息を潜めているかのようだった。
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