雲が悠々と流れる少し煙たい灰色の空を俺はぼぅと眺めていた。雲が右から左へと流れていくのをただ見ているだけの時間。机の上には、二時間前の国語の教科書が広がっていた。自分は空の色と同じ色の瞳のはずなのに、俺の目に映る空はいつだって青じゃなくて、灰色だ。
教室の一番後ろ、窓側の席。席替えのたび、運良く何度もこの席をあて今回も。入学して半年がたつが未だ学校というものには慣れない。小学校のような幅広い年齢層が集まる仲良しこよしの教育の場ではなく、何年後かに控えた人生の分かれ道、受験に向けてしごかれる教育の場。個性がではじめ、自分のやりたいことを見つけ熱中するものも増えてき、皆、入学当時の固まった表情ではなく、生き生きとした、輝いている表情になっていた。俺を除いて。
(退屈だ……)
何もかもやる気が出ない、見いだせない。自分で選んだ道だというのに、どうしてこうも退屈に感じるんだろう。毎日のノルマをこなすだけの、決められた日々。そこに何を見出せばいいのだろうか。
伸び放題になった黒髪は、緩く結んでいるが、うまくまとまらずハーフアップとかいうスタイルになっていた。それを弄りながら、時々出そうなため息を飲み込む。
「鈴ヶ嶺この問題答えろー」
「……あ」
数学の教師にあてられ、俺は黒板に目を移す。わけの分からない数式が並んでおりすぐに頭は考えることを放棄していた。立ち上がったまではいいものの、答えられるはずがなく「わかりません」と下を向く。いつものことだ。
勉強なんてやっても無駄。分からないし、楽しくない。そこに何かを見いだせない。
「明日小テストだぞ。鈴ヶ嶺―できなきゃ居残りだからな」
そう、数学の教師は言うと俺の隣の席の人を指名し、回答するようにいった。隣の席の奴はきりりと立ち自信に溢れた顔で、声で答えとその答えになる根拠、道筋をすらすらとはなす。「正解だ」という教師の声とともに大きな拍手が向けられる。
隣の席の奴は、着席しふぅと息を吐いた後すっとこちらに顔を向けた。そして、小声で「ノートみせてあげよっか」と言う。俺は戸惑いそいつを黙って見ていると、こわばった顔で「お節介だったね」と先ほどの自信のある笑顔は何処かに行ってしまった。そして、何事もなかったようにまた書き取りを始める。
俺はというと、また窓の外に視線を移し、悠々と流れる雲を眺めていた。
(雨……降りそうだな)
授業が終わるまでふて寝をしてようと、俺は机に突っ伏した。
何が面白くて意味があって勉強するのかいまいち理解が出来ていなかった。そこに面白さも何も感じない。
俺――鈴ケ嶺梓弓《すずがみねあずゆみ》は少なくともそう思う。
授業を進める教師の声がだんだんと遠くなっていくのを聞きながら、俺は何故今自分が学校に通っているのか、その原因について回想した。
あれは、いつだったか、多分数年前のこと――――
「テメェなんて、いらねえんだよ!」
耳をかすり飛んできたワインの瓶は壁にぶつかると粉々に砕けた。パリンッと音を立てて、床に散らばった。
目の前でギャンギャン騒いでいる血の繋がらない父親を俺はただ黙って見つめていることしか出来なかった。子供ながらに、こういう人に反抗したらダメなんだろうと分かっていたからだ。物わかりはいい方で、諦めもいい方だった。
「なんだ、その反抗的な目は! あの女が何処の誰だか知らない奴との間に出来た子供なんだ、テメェは! 俺の子じゃねえ。女にも逃げられ、赤の他人の子供を押しつけられる俺の気持ちを考えろ!」
俺には母親と父親はいない。この父親の代りをしている男とは赤の他人だ。一滴すら同じ自が流れていない。この男は、俺の、もうここにはいない母親のことが大好きだった、愛していた。だけど、母親は入籍し、俺を産んだ後家を出て行ってしまった。理由は分からない。
いうには、目の前の男は、自分と、俺の母親の子供だと思って育てていた俺が、全くの他人だったことを最近知ってしまったらしい。DNA鑑定をするのを渋っていたというのもあったため、本当に最近血が繋がっていなかったことが判明したそうだ。それから、俺に対するあたりが強くなった。
父親は、酒に溺れ、それでいて働かないから金は減っていくばかりで。
俺の身体には酷い赤黒い痣ばかりが残っている。消えたことはない。毎日のように殴られた。そんな地獄みたいな生活が続いていた。生きている意味をこのころから見いだせずにいた。それでも、こんな奴に殺されたくはないただそれだけを思っていた。
そんなある日のことだった。俺の人生の転機が訪れたのは。
父親はいつものように俺に酒の瓶を投げてきた。当たらずにすんだが、またいつものように瓶が割れる。足下に転がった、割れた瓶を俺は呆然と眺めていた。片付けるのも俺の仕事だったから。
しかし、その日はいつもと雰囲気が違ったのだ。父親は、俺に怒鳴りつけながらまたワインの瓶を探しにふらりと立ち上がる。
「……あの女絶対に殺してやる……このガキもいつか」
父親がぽつりとこぼした言葉。その言葉に俺の身体は反応した。
この間父親が付けていたテレビドラマのワンシーンを思い出す。復讐に染まった男が、愛していた女とその女を奪った男を殺す話。
『殺してやる』。その一言で、身震いした。殺される。あのドラマみたいに。
本能的に――そう思ったらいつもは動かない身体が自然と動いた。足下に転がった瓶を拾いあげ、背中を向ける父親にそうっと近づき、そのまま勢いに任せ思いっきり瓶を後頭部に向けて振り下ろした。
どさ……という音とともに父親は前に倒れた。後頭部からは血が。真っ赤な血が。俺は父親に近づいて、彼の身体を揺さぶった。彼は起きなかった。だんだんと体温が失われていくものだから、ああ、これが死なんだと知った。
こんなにも簡単に、殺せてしまうんだと。人は死んでしまうんだと。理解してしまった。
だけど、父親を殺したところで何も変わらなかった。冷蔵庫には大量の酒と、そのつまみしかなかった。それでも食べないよりかはましで、冷蔵庫をあさり、いつ開けたかもわからないつまみを食べた。嫌いな匂いと癖の強いゲソやらチーズやらをかきこんで、咳き込み、むせ、結局は吐いてしまう。
いえば地獄絵図だった。
父親の死体を見ても大して別に何も思わなかったが、これからの生活はどうなるのだろうと、そんな先の見えない不安に珍しく駆られていた。元から、死ぬか、生きるか。最も先の見えない生活をしていたのだが、それがふと父親を殺したことで現実を見た。
「……今、夜……」
確かこの時はまだ小学校低学年ぐらいだった。普通なんてなくて、何が普通かも分からなかった。
そして、何も分からないまま俺は人を殺した。
これからどうやって生きていけば良いんだろう。何も分からなかった。目に見えていた灰色の汚い世界は、一瞬にして真っ暗になった。先も見えなければ、足下さえ見えない、分からない。
「とりあえず……外」
とにかくここから離れなければならない。そんな気がして、俺は玄関に向かい、ドアノブを捻ればすぐに扉は開いた。逃げようと思えば逃げられたのに、俺がそうしなかったのは、外もどうせここと変わらないと思ったからだ。
何日、何ヶ月、何年、いやもう分らないけれどぶりの外だった。アパート暮らしだったらしい俺は、とりあえず隣の住民を起こさないようにと鉄製の階段をゆっくり通り街灯が多い大通りへ出る。空を見上げれば白い星が転々と真っ暗な空を照らしていた。
星に見とれていると、ふと後ろに何者かの視線を感じた。振返ればそこに黒いフードをかぶった、声からして男の人が立っていた。いつの間に。アパートの住民だろうかと、俺はその人をじっと見つめていた。
「おうおう、怖い目だな」
「……目、怖い」
男は、軽くそう言うと両手をひらひらと振った。
父親にも言われた言葉だった。目、目が反抗的だと。目が気にくわないと。そんなつもりはないのに、多分母親か父親か……の遺伝で、目つきが悪いのだろう。一度かが見てみてみたが、つり上がっているような不機嫌そうな顔をしているんだ。
男は、「おい、ボウズ聞いてるか?」と俺の周りをぐるぐると回る。ポケットから飴を取り出すなり、食べるかとも聞いてきた。俺は、何て言えば良いのかどう受け答えれば良いのか分からず口を半開きにして男を見ていると、男はフードを脱いでみせた。
「ああ、俺と同じか」
「おなじ?」
月明かりで照らされた男の顔には、何かできられたような不快切り傷がついていた。髪は真っ白で、でも所々黒が混ざっている綺麗とはいえない髪色をしていた。
「なあ、ボウズ名前は?」
「……」
「質問しているんだ。名前は?」
「……あず……ゆみ」
「梓弓?」
男は俺の名前を聞き、そして口にするとあっているかとでもいうように目を向けてきた。
名前なんか聞いて如何するんだと俺は男を見つめ返した。そんな風に、見つめ合っていると男はいきなり大声で笑い出した。
俺はそんな男を不振がるように見たが、怒らなかった。そうして、ふと俺は気になり、男が肩に提げていた黒い長細い鞄を指さした。それに惹かれたのはもしかしたら運命だったかもしれない。
「ああ、これか気になるか?」
「……いや、別に」
「梓弓、お前帰る場所あんのか?」
「無い」
「そうか、じゃあ明日の暮らしは?」
「……知らない」
男はさっきのテンションとは打って変わって冷静な顔で、トーンで俺に聞いてきた。
帰る場所? 明日の暮らし? そんなものは知らない。
人を殺した悪い人間は警察に捕まって一生監獄で過ごすんだ。地獄を抜け出したところで、地獄が続いているだけだ。
男は少し考えるような素振りを見せ、それから思いっきり手を叩いた。
「だが、まあお前は人殺しが悪いことだって知っている、それに後悔や悲しむことが出来るんだから、お前は悪い奴じゃねぇよ、梓弓」
そういうと、男は俺の頭をワシャワシャと撫でた。嬉しそうに笑うその人を見ていると、何故だか自然と頬が緩んだ。
初対面のはずなのにどこか懐かしくて、どこか温かい気持ちになる。先ほど人を殺したと自覚し、心の中でもう戻れないと悟ったのに。
そう思って男を見ると、男は手を止め俺を見た。
「でもな! 俺は悪い奴だから、お前を救う方法がわかんねえ! 明日の暮らしとか居場所とか与えられねえ! でも、もし汚くても生きていきたいって思うんなら俺についてこい。日の当たらない場所でも息はできる」
「……どういう」
何となく察していたのかもしれない。
人殺しが表にたって何かできるわけないと。光の世界とはほど遠いところにいると。
でも、男は止めようとしてくれたし選択肢だってくれていた。けど、明るい道なんてないと思ったし、分からなかった。暗い道しか知らない。道という道が見えないそんな世界しか知らないから、俺は男の手を取るしかなかった。
俺は、男を見上げた。男はニッと笑う。
「俺は狙撃手だ。依頼を受けて人を撃ち殺して生きている人間だ。なあ、梓弓。お前にその覚悟が、こっちの世界で生きる覚悟があるんだったら俺はお前に生き方を教えてやる。汚い生き方だ。それでも、這い蹲ってでも蹴落としてでもいきたいなら……」
「いきたい。分からない、俺は、知らない、世界を、綺麗な空も、道も、わかんない、から」
もし、この男についていったら世界を、明るい世界と道を知ることがいつかできるのだろうか。その道を世界を探すヒントを得ることは出来るのだろうか。
たとえ汚い道であろうと、道で。走り続ければいつか、見えてくるだろう道もあるのではないか。
「そう、そうか。じゃあ」
と、男は来ていたフード付きの黒いパーカーを俺に着せて、手を差し出した。
「今日から、俺はお前の人生の『先生』だ」
「……せん、せい」
「教えるのはクソほど下手だが、お前を導いてやるよ」
そう、これが、俺と先生の出会いであり、人生の第一の転機になった。
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