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とても簡単なことではありませんか。私に振り向いて、何か一言、声を掛けてくれたら良いのです。何でもいいのです、貴方の、芯からの言葉だったら。何か難しいことを言っているでしょうか?だのに、なぜ、してくれないのだ!貴方がそうするだけで、浮かばれる人間がいるのだ。貴方の僅かな所作と言葉一つで、私が、どれほど救われるだろうか!どれほどそれを望んでいるだろうか!貴方は知っているのだろうか?知っていて、私に意地の悪いことをしているのか?だとしても、構わない。私で、笑ってくれ。私の存在を認め、笑ってくれ。楽しんでくれ。暇潰しにでもなれたなら幸せなのだ。でも、頼むから、どうか、振り向いておくれ。それだけなのだから。
そのガラス窓を隔ててすぐそこに、信濃町で同乗した、今一度ぜひ逢いたい、見たいと願っていた美しい令嬢が、中折れ帽や角帽やインバネスにほとんど圧しつけられるようになって、ちょうど烏の群れに取り巻かれた鳩といったようなふうになって乗っている。 美しい眼、美しい手、美しい髪、どうして俗悪なこの世の中に、こんなきれいな娘がいるかとすぐ思った。誰の細君になるのだろう、誰の腕に巻かれるのであろうと思うと、たまらなく口惜しく情けなくなってその結婚の日はいつだか知らぬが、その日は呪うべき日だと思った。白い襟首、黒い髪、鶯茶のリボン、白魚のようなきれいな指、宝石入りの金の指輪――乗客が混み合っているのとガラス越しになっているのとを都合のよいことにして、かれは心ゆくまでその美しい姿に魂を打ち込んでしまった。
水道橋、飯田町、乗客はいよいよ多い。牛込に来ると、ほとんど車台の外に押し出されそうになった。かれは真鍮の棒につかまって、しかも眼を令嬢の姿から離さず、うっとりとしてみずからわれを忘れるというふうであったが、市谷に来た時、また五、六の乗客があったので、押しつけて押しかえしてはいるけれど、ややともすると、身が車外に突き出されそうになる。電線のうなりが遠くから聞こえてきて、なんとなくあたりが騒々しい。ピイと発車の笛が鳴って、車台が一、二間ほど出て、急にまたその速力が早められた時、どうした機会か少なくとも横にいた乗客の二、三が中心を失って倒れかかってきたためでもあろうが、令嬢の美にうっとりとしていたかれの手が真鍮の棒から離れたと同時に、その大きな体はみごとにとんぼがえりを打って、なんのことはない大きな毬のように、ころころと線路の上に転がり落ちた。危ないと車掌が絶叫したのも遅し早し、上りの電車が運悪く地を撼かしてやってきたので、たちまちその黒い大きい一塊物は、あなやという間に、三、四間ずるずると引き摺られて、紅い血が一線長くレールを染めた。
非常警笛が空気を劈いてけたたましく鳴った。
田山花袋 『少女病』