「オーヴェ、オーヴェ!」
リビングのソファで腹ばいになりながら雑誌を捲っていたウーヴェの耳に騒々しい足音と己を呼ぶ声が届き、気怠げに身体を起こすと、意外な近さにくすんだ金髪が見えて飛び退いてしまう。
「な、なんだ?」
「うん。今日ってキスの日なんだってさ。知ってたか?」
ウーヴェが飛び退いて出来た空間に正座するリオンの顔に浮かんでいるのが良からぬ事を思いついたときの笑みだったため、問われた言葉の意味を考える前に枕代わりにしていたクッションを抱え込んで眼鏡の下から青い目を覗き込む。
「いや、初めて聞いたな」
「へー。歩く百科事典って上のクリニックの双子に揶揄われてるオーヴェでも知らねぇんだ」
「歩く百科事典はアロイスのことだろう?」
「アロイスでもオーヴェでもどっちでも良いよ」
今俺が話題にしてるのは百科事典のことなどではなくキスの日という記念日のことだと、ウーヴェが抱え込んでいたクッションを奪い取ったかと思うと不満の声を無視しそれを背後に投げ捨てる。
「こら」
「こらじゃねぇ」
「……で、その俺が知らなかったキスの日がどうしたんだ?」
早く本題に入れと苦笑しつつウーヴェが先を促すと、リオンの顔にそれはそれは見事な、大輪の花が満開に咲き誇っている姿を想像させる笑みが浮かび、長い付き合いの中で数え切れない程見てきたはずのその笑顔にウーヴェが無意識に息をのんでしまう。
「キスしよ、オーヴェ」
「……」
記念日に合わせてキスをしようと笑う永遠の恋人であり人生の伴走者でもあるリオンの相変わらずな突拍子もない言葉に面食らってしまうが、キスをすることを拒否することなどウーヴェには出来なかった。
ただそれを素直に認めると、この先何かと調子に乗る光景がありありと脳裏に浮かび、眼鏡のブリッジを押し上げながらどうしてと意地の悪い問いを投げかける。
その仕草が何を表しているのかをウーヴェは己の事ながら失念していて、リオンの口角が不気味な角度に持ち上がったのを見た瞬間、己の失態を悟る。
「キスはしないぞ!」
「えー、なぁんでそんなことを言うんだよー」
本当はキスしたいくせにーと、図星を刺されて思わず目尻のほくろを赤く染めてしまったウーヴェは、しないといえばしないと絶対に通用しない言葉を吐き捨ててこの話は終わりだと手を振るが、その手を掴まれ青い目に瞳だけではなく心の奥底まで見つめられている錯覚を覚えてしまう強さで見つめられて自然と眼鏡の下で目を泳がせてしまう。
「オーヴェ」
「……っ!」
その目に見つめられ、名を呼ばれるだけでどうしようもないほど落ち着きを失ってしまう己が恥ずかしく、顔を背けるとくすりと小さな笑い声が間に落ちる。
「……もー結婚して何年経つと思ってんだよ-、オーヴェ」
本当に本当に、俺のダーリンはいつまで経っても恥ずかしがり屋さんなんだからぁと、揶揄っていると言うよりは情だけが籠もった声で笑われ、上目遣いで見つめると、いつもいつまでも見続けたい笑みを浮かべたリオンがいて。
「……恥ずかしがり屋でも素直じゃなくても良いけど」
素直じゃないお前も好きだけど素直なお前はもっと好きと、ウーヴェの心と体をある方向へと向かわせる言葉をウーヴェの耳に囁きかけながら笑うリオンに勝てるはずもなく、クッションを抱えていたときよりも強く優しい力でくすんだ金髪を胸に抱き寄せ、期待に満ちている目を閉ざさせる為に瞼にキスを落とし、同じ期待に薄く開く唇にそっと唇を重ねる。
「……ん」
どちらのものか分からない鼻から抜けるような息が間に落ち、離れようとするウーヴェを引き留めるようにリオンがウーヴェの髪に手を差し入れ、重なった唇の向こう側に舌を押し込む。
「ん……っ!」
予想外の密度の濃いキスを交わしたあと、ウーヴェは目の前の肩に顔を押し付け背中を一度震わせてしまい、リオンが小さく満足げな息を吐く。
「……ベッド行く?」
その声に一瞬で現実に引き戻されたウーヴェが耳まで真っ赤に染め、うるさいと思わず怒鳴り返してしまう。
「もー、本当に素直じゃないんだからー」
リオンの言葉に反論しようと顔を上げたウーヴェだったが、そこに己の想像とは全く違う穏やかな笑みを見いだし、これ以上意地を張っても仕方が無いと溜息を吐き、ベッドに連れて行けと命じると、喜んでと顔だけでは物足りないのか全身から喜色を滲ませたリオンがソファから立ち上がりウーヴェの腕を引いて立ち上がらせる。
「仲良くしてる時にいっぱいキスしような」
「……気持ち良くしてくれたら考えてもいい」
「あ、何だよ、それ」
左足を壊されたウーヴェの杖の代わりになりながらリオンが不満に頬を膨らませ、それを見たウーヴェが楽しそうに肩を揺らす。
「じゃー頑張りますかー」
「明日の朝飯を食いたければ加減をしろ」
翌朝の絶品の朝食を人質に取られたと言いたげに天井を見上げるリオンの頬に音を立ててウーヴェがキスをし、それを嬉しそうな顔でリオンも受け取るのだった。
その後、ベッドルームの空気は甘く濃いものになり、いつもに比べれば素直にリオンを受け止めたウーヴェが、思い出したように何度もキスをするリオンの手を、夢を見るために目を閉ざすまでしっかりと握り締めているのだった。
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