「そうですか……見てしまったのですね」
本に視線を落とすキリンさんは、どこか悲しそうだった。
その姿に罪悪感を抱きつつも、私の中で思うことがあった。
また、そんな顔をするのだと。
「どうして、そんな顔をするの?」
心の中で思っていたことがいつの間にか口から出ていた。
キリンさんは、驚いた表情で私を見つめる。
「いつもいつも、そうやって悲しい顔をする時があるの。私はその理由が知りたかっただけなの」
言い訳のように聞こえるのは、私の中でも勝手にキリンさんの日記を読んでしまったのだという罪悪感があるからかもしれない。
私は立ち上がって、机を埋め尽くしていた紙の一枚を掴む。
「こんな紙じゃ、キリンさんのこと。よく、分からないからさ!」
いつも、キリンさんのことを聞いてははぐらかされていた。
けれど、本にはちゃんと書いてあった。
写真が載っていた。
多分、あの本はキリンさんの日記なのだと思う。
こんな一枚一枚が積み重なっただけの本で、私もキリンさんのように勉強をしようとしたのだ。
自分が好きな人のことだから。
「私はもっと、知りたいの。キリンさんのこと」
キリンさんは、呆気にとられたように私をただ見つめている。
「聞いてる?キリンさん!」
私は彼の裾を掴んで揺らした。
振動が伝わったのか、心なしか表情が緩やかになる。
私は焦点のあった目に、言葉を投げかける。
「私は、キリンさんが大事だよ?だから、急にいなくなってた時はびっくりしたの!」
キリンさんが私を置いていくわけがないと思った。
だから、書置きを探したんだ。
心の中で言い訳のように付け加える。
「ふふ、ありがとう。そんなことを考えてくれていたなんて知りませんでした」
キリンさんは、小さく笑いをこぼす。
また、本心を告げてしまっていたからキリンさんが微笑んでいたのだと気付くと、少し恥ずかしくなった。
「私はですね、先ほどまで……」
なぜか、キリンさんの声が次第に暗くなっていく。
「キリンさん?」
笑顔が消えていき、真剣な表情で虚空を見つめていた。
キリンさんは、手で口元を隠しながら考え込んでいる。
私の声が聞こえていないようだった。
そこに私が踏み込めないような壁を感じた。
今までずっと笑顔の印象が強かったキリンさん。
今のキリンさんの顔は、見知らぬ他人を見ているようで少し、怖かった。
「そういえば、貴方にお願いしたいことが出来たんです」
淡々とした声のキリンさんは、私に手を差し出す。
表情一つ動かさないキリンさん。
いつもより大きく角ばったような手が、私を待っていた。
「握ってもらえますか?」
上から降ってくる生気のない声に、恐る恐る、手を重ねる。
手の中で何かが羽ばたくような感覚。
その瞬間、キリンさんがそっと手を離すと手の中には、再び金色の蝶が三匹生まれた。
「バラ園にある、一輪の花にこの蝶を、渡してきてくれますか?」
「どうして?」
「実は、その花とは以前からの知り合いなんです」
私が聞いた質問に、少し外れてキリンさんは答える。
「ううん、違うよキリンさん。知り合いなら尚更、キリンさんが行く方がいいと思うんだよ?」
「いえ、私にはやることがありますので」
キリンさんの腕に収まっている分厚い本が目に入る。
「それに、私は……」
キリンさんはまた悲しそうな顔をする。
さっきみたいな怖い顔ではなく、ただただ寂しそうな表情。
包帯に巻かれた方の弱々しい手が、私の頭を優しく撫でる。
「どうか許してください。今の私では、何も教えられないことを」
力なく、告げられた言葉は、とても悲しかった。
それは、私を切り離すように、空気に響いた。
キリンさんの目には、私は写っておらず、虚空が広がっていた。
どうして、そこに私が写っていないの?
私に話しているんじゃないの?
虚空に呟くその姿は、キリンさんを知ろうとした私の気持ちを、否定したようだった。
「キリンさんは、ずっとそうだよね」
発する声色が変わったのだと、自分でも気付いた。
その証に、キリンさんの目の中には、怒った顔をした私が捉えられていた。
「出会った時からずっとそう!何も教えてくれないんだもん!」
どこかで私の何かが壊れてしまったようだった。
心の中に隠れていた気持ちがとめどなく、言葉になって姿を現していく。
「そうやって、考え込んでるように見せて、実は全部知ってるんでしょ!」
掴んだままだった紙を、キリンさんの前に見せつける。
「これ全部、キリンさんのことに関係してるんでしょ。たぶん。本も見たもんね。よくわからなかったけど!」
感情が溢れ、留まることなく、言葉に出ていく。
言葉に出す過程で失敗しているのか、喉がやけに苦しい。
痛くないのに、苦しくて。
それを誤魔化すようにただ、ひたすら言葉をキリンさんにぶつける。
「私よりここに長くいるんだから、知らないわけないもんね!なのに、私には……ずっと知らないふりするの!」
私がこの世界について知ろうとした時。
高い本棚に手が届くようになることを教えてくれたのは、紛れもないキリンさんだった。
でも、それはつまり、私が届かないところもキリンさんは知っていたということになる。
知りえなかったんじゃなくて、知らないふりをしていたんだ。
「私はただ、キリンさんを知りたいだけなのに。いつも悲しい顔して誤魔化すんだから!」
それは、私からの追及を逃れるためのようにも見えた。
私の中で、キリンさんが徐々に霞んでいく。
目の前が白くぼやけてくる。
言いたかったことを吐き出せているはずなのに、喉と心が焼けるように苦しくて。
「教えてくれないならもういいよ!」
その場から逃げ出したかった。
この苦しみから、解き放たれたかった。
胸が張り裂けそうになりながら、いつもの扉から暗闇に向かって走り出す。
キリンさんが追い付けないくらいの速さで走る。
無造作に扉をあけ放ったまま。
それからは、無我夢中だった。
いつもより、短く感じた暗闇のトンネルをくぐり抜け、私はバラ園に足を踏み入れていた。
全身に響く心臓の音がうるさい。
前と同じ光景なはずなのに、どこか妖艶な空気が漂い、どこまでも広大に続いている花達が、私を飲み込もうとしているようだ。
「あ、置いてきちゃったかも」
肩を見ても、生まれた金色の蝶たちがいない。
闇雲に部屋から飛び出してしまったから、置いてきてしまったようだ。
「独りだ……」
無我夢中で飛び出した時のことを思い出す。
キリンさんの顔がフラッシュバックのように、目に焼き付いていた。
私と目を合わせることなく、立ち尽くしている姿。
時間が止まっているようだった。
私の言葉はキリンさんに、届いていなかったのかもしれない。
でも、私が言葉を重ねるたび、悲しみが刻まれていく表情を見ていなかった訳ではない。
伝わったのは、私の悲しみだけだったかもしれない。
本当に私が伝えたかったことは、私が伝えられなかったんだ。
悲しい顔をする理由が知りたいのもある。
でも、一番はそんな顔をしないで。
私が支えるから。
と、言ってあげたかったのだ。
「あら、貴方。どうしたの?」
声が聞こえた方に顔を向けるが、ただバラ園が広がっているだけだった。
「どこ見てるのよ。ここよ、ここ」
目の前から声がする。視野を広げると、足元に一輪の赤いバラが佇んでいた。
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