バイオリンの音が駆けている。
岩崎が演奏している曲は、男爵邸で披露されたものとは異なり、爽快で、晴れやかなものだった。
その、流れる曲の速さときたら、全速力で走っているかの様で、演奏している岩崎の指は器用を越えた動きをしていた。
左手の指先が、弦の上を忙しく動く。
もつれてしまうのではないかと思う程、小刻みに岩崎の指は動いていた。
そのたび、バイオリンから、小気味良い高音が流れ出る。
だるそうに転がっていた二代目も、おっと声をあがて、起き上がり、お咲は、これまた目を丸くして演奏に聞き入っていたが、わあっと、嬉しそうに叫んで、曲にあわせながら跳び跳ね始めた。
月子も、初めて耳にする軽快な音楽に、つい、笑みを浮かべていた。
調《しらべ》は、どんどん速くなり、岩崎も、体をくゆらせながら、勢い良く弓を引く。
月子の知らない世界が、小さな居間で繰り広げられていた。
岩崎が大きく、弓を引き切った。
賑やかに流れていた音が止まり、瞬間、静けさが戻ってきたが、すぐに、二代目と中村のヤジのような歓声と、興奮しきったお咲の騒ぎ声が響き渡る。
「ちゃん、ちゃん、ちゃんちゃん」
お咲の独唱が始まった。
よほど気に入ったのか、お咲は、嬉しそうに、一生懸命、岩崎が演奏した曲を唄い始めていた。
無理もないと、月子は思う。
月子ですら、気分が高揚し、演奏を終えて、律儀に一礼する岩崎の姿が、勇ましく、そして、誇らしく見えるのだから。
まだ、幼いお咲ならば、当然、弾けきってしまうだろう。
そんなことを思いつつ、月子は、岩崎の姿に見入ってしまっている自分に気がついた。
どうすれば良いのかわからなくなった月子は、さっと目を伏せて、岩崎からの視線を避ける。
「中村のにいさん、こりゃまた、色々、大変だ!」
「だろう?二代目!まあ、この主旋律は、聞き取り安いかもしれないが、お咲は、岩崎の編曲部分と、間までちゃんと聞き取ってるんだよ。って、わかんのかねぇ?あんたに……」
完璧に岩崎の演奏を唄いあげている、お咲のことを中村は、褒め称えるが、二代目には、何が凄いのか、わかるまいと、少々複雑な顔をした。
「おやおや、見くびってもらっちゃ困る。俺にも、ちゃんと分かりますよ。なんとわなし、むず痒い雰囲気を、作ってしまったって事もねぇ」
へへへと、薄ら笑いながら、二代目は、岩崎と月子をチラチラ見た。
お咲の唄声を、岩崎も聞いてはいるが、視線は、月子へ定まっていた。
やりきった、と、脱力感を漂わせながら、しっかり、月子を見ていたのだ。
「あぁ?!お咲はどうなる?!って、言うか、本当だわ。こりゃあ、目の毒だ!」
「なあ?お咲の凄さは、俺もわかったけど、二人の凄さも、なんとわなし、って、やつじゃないですかい?中村のにいさん?!」
だわなぁ。こりゃまた、と、中村も二代目の口車に乗っかっている。
一方、岩崎は、やはり、なんのことやらと、二代目と中村を責めるように睨み付けた。
「慣れないバイオリンを、即興で弾いたのだぞ!もっと、ちゃんと、お咲のことを考えないかっ!」
「とはいうけど、二人のことこそ、ちゃんと考えないと、お咲の行く末もかかって来るって話じゃないかい?京さんよ?」
二代目は、不機嫌な岩崎へ、飄々と言った。
その後ろで、月子は居心地悪く、もぞもぞしながら、座っている。
お咲はというと、ご機嫌な様子でまだ唄っていた。
「まあまあ、なんだ。とにもかくにも、凄いこと、って訳だろ?堅物の岩崎が、若い嫁さん貰うわ、天才少女が現れるわ!」
ははは、と、中村は、大笑いし、二代目も、まっ、おいおいってことかねぇ、などと良くわからない事を言いながら、酒もつまみもねぇなあ、と、拗ねている。
「あっ、な、何か、用意いたします!」
月子が、立ち上がろうとするのを、岩崎が止めた。
「そもそも、なんで、人の家で、お前たちは、酒盛りをやっている!中村!説明してみろ!」
岩崎からすれば、西条家より戻ったら、余計な面子が勝手に酒盛りをしていた。という話で、納得がいかないらしい。
「あっ、お咲ちゃんが……」
お咲は、唄い終わり、どうすれば言いのかと、また、立ちすくんでいる。
目ざとく見つけた、月子が、お咲へ拍手しながら、
「皆様も!お願いします!お咲ちゃんが、可愛そうです!」
言い合っている男達へ向かって、意見する。
「ありゃ、嫁さんにしかられたぞ、岩崎!」
「いやぁ、怒った月子ちゃんも、可愛いねぇ」
中村も二代目も、軽い態度は代わらずで、岩崎は、そんな二人に堪忍ならんと、顔を歪めきっていた。
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