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ユカリは焦りを御しつつ新たに生み出された深遠なる魔術の手続きを繰り返す。何度やっても何度やっても暗い闇は姿を見せず、深奥の扉は開かなかった。ベルニージュは隣で辛抱強く見守り、ユカリが手順を誤れば正確に指摘する。
ジニはユカリとベルニージュの分まで嵐の軍勢たる呪いを防いでいる。ユカリも知っているつもりだったが、思っていた以上にその魔術の知識は深く広く、あらゆる邪な呪いに瞬時に適応し、対抗していた。ソラマリアは剣と氷の魔術でレモニカとグリュエーのために立ち塞がり、グリュエーは演奏を始めるべき時を今か今かと待っている。
「想定外の時間切れだよ! 後ろを見な!」とジニが短剣の如く鋭く忠告する。
玉虫色に照り輝くメーグレアの毛皮を纏いし蜂、『爛れ爪の邪計』が戻ってきた。それも嵐とは反対側から、結果的に挟み撃ちにされてしまう。どうやら柱に囲まれた檻の神殿の敷地を一周してきたらしい。脳を締め付けられるような不快な吼声で威嚇し、土も石畳も等しく焼き焦がす酸の血をばらまき、嵐のグリュエーに飛び込むことも厭わないつもりか、全力で駆けてくる。
すでにソラマリアが抜刀して呪われた聖獣を迎え撃とうとしている。それでも深奥への扉は寸分も姿を現さず、ユカリは悔しそうに降参する。
「ベル。お願い」
ベルニージュがすぐさまユカリと同じ深奥の扉を開く呪文を行使する。時の過ぎ去るように素早く、天の運行の如く違わず、たった一度で成功させる。ユカリたちの眼前の空間に月も星もない夜のような、宇宙の暗黒へと通じる回廊のような真っ暗闇が現れた。ただしサンヴィアで見た球状をしていた謎の闇と違い、頭上から滝のように闇が降り注いでおり、扉に近い形状を成している。それに人を呑み込もうと勝手に動いたりせず、地面に縫い付けられていた。
もはや魔法の混沌に用はない。その場にいる全員がグリュエーに目配せする。
【誰より思い切りが良かった。十本の指を同時に振り下ろし、鍵盤に叩きつける。すぐさまグリュエーの細くしなやかな指は鍵盤の上をまるで我が家に帰ってきたかのように勝手知ったる風に踊り出す。
ユカリの解呪の音楽が地から湧き出てきたのとは対照的に、グリュエーの浄化の音色は黒雲よりも高き天から降り注いだ。激しい大雨のような音の連打は、にもかかわらず羽根のように軽やかな旋律となり、鳥のように舞い降りてきたかと思うと大きな腕を広げて嵐の稲光と虎蜂の咆哮を同時に迎える。
しかしその音律は抱擁などではない。温かさや柔らかさとは無縁の、強大な怪物の腕だ。怒れる群衆の如き矛先の確かではない不安定な力だ。怯える家畜の暴走だ。ただただ強力で、善意とも悪意とも違う無垢の力の奔流だ。
まるで呼応するように、獣が毛をそばだてて威嚇するように混乱と恐慌を生み出す残留呪帯の嵐は鳴り渡り、土地神を怪物に変えた『爛れ爪の邪計』に至ってはさらに力を増す。しかし『爛れ爪の邪計』のそれは持てる力を振り絞ったものだ。ゴアメグ領の呪いという呪いが結集し、グリュエーの解呪の魔法に挑むべく凝集したのだった。
いざ、二つの邪悪な呪禍は少女の弾く解呪の魔術に組み付かんとつかみかかる。しかし浄化の狂瀾は挟み撃ちなどまるで意に介さずに押し返し、軽々と捻り上げる。叩きつけられる轟きと振り回される唸りが弾むような響きに手を取られ、導かれ、遥か彼方にまで誘い出される。
嵐がどこかから連れてきた呪いも、土地神を蝕んだゴアメグ領の呪い『爛れ爪の邪計』もたちどころに消え失せる。】
グリュエーは手を下ろし、ソラマリアは剣を下ろし、レモニカは胸を撫で下ろす。
「喉から血を噴きそうだよ」とジニがぼやく。
全員が口々にその大魔法使いに礼を言う。
「ベルニージュはあたしを手伝う余裕くらいあったんじゃないの?」とユカリの義母はユカリの友を責める。
「すみません。深奥の扉に夢中で」
あまり悪びれていないベルニージュの謝罪だが、ジニも本気で怒っているわけではなかった。
「ベルを責めないでください。私に教授してくれてたんですから」とユカリは抗議する。
「そもそもあんたが身に着ける必要のない魔術だと思うけどね」
「そんなことないです。私の心臓を取り戻すのも目的の一つなんですから」
「その通りだね」とジニは降参する。ただし素直に、ではない。「あんたこそ身に着ける必要があった」
ユカリは言い返そうとするがベルニージュに窘められる。「はい、そこまで。ユカリだって今じゃなくてもいずれ使いこなせるようになるよ」
とにもかくにも全員が無事だった。ただ血みどろになった玉虫色の巨大虎だけが呪いの凄惨な痕跡を残して、柱も梁も折れて崩壊する砦の如くその場に斃れる。
「私、分からないんだけど」とユカリは聖なる虎の憐れな有様を見つめ、健在な頃の崇められる威容を想像して呟く。「これまでの共通点を考えると、この土地の人々は聖獣の虎を偶像として、蜂の神を祀っていたことになるよね。なんで?」
「分かんないよ」とベルニージュがお手上げする。「でも、虎と蜂ってどちらも黒と黄の縞模様だよね」
「そんなことで!?」
「そんなもんだよ。そんなことより深奥の扉」と受け流し、ベルニージュは改めて成果を観察する。「うん。保ってるね。飛び込むのはちょっと待ってよ? いくつか実験しないと」
「いくつかって? 早くしないと機構の誰かに見られちゃうんじゃない?」
「用意していたのは百いくつかだけど」
「そんなに待てな……。ベル!」
ユカリの視線を全員が追う。斃れた聖獣メーグレアにまるで糸のような細い白光が天から降り注いでいる。哀れな獣を悼むように光の糸が玉虫色の虎を包み込んでいく。全員が空を見上げ、八つの漠としている緑の太陽も見つめるが、その光の糸の紡がれる源は目に見えない。
誰もが奇跡を目の当たりにしているような気持ちで息をのみ、聖なる虎を見守る。光はまるで何もかもを赦免する祝福のように輝いている。何が起きようとしているのか、誰にも分からない。少なくとも邪な呪いには見えない。ただ、何が起きても良いように全員が臨戦態勢を整える。
メーグレアを包む光の糸は、より正確に表せば織っているようだった。虎のための衣だ。死んでしまった美々しい虎が生々しいばかりの美しい衣を纏う。隆々とした前肢に煌びやかな袖を通し、
「変身? 解呪の魔導書じゃないよね? 再び信仰を得た?」ユカリは誰ともなしに尋ねる。
「だとすれば空に合掌茸が生えていることになりますわね」とレモニカが思うままに答える。
「何にせよ、死んだ虎が変身してもどうにもならないはずだが」と口にしつつもソラマリアの剣の切っ先は微動だにせず、虎を指している。
そして聖なる虎メーグレアは動き出した。ユカリは心のどこかで期待していたような気もした。罪なき美しい獣の理不尽な死が回避されたなら喜ばしいことだ、と。しかしメーグレア虎の瞳は生気を失ったままで、にもかかわらず牙を剥き、その艶やかな玉虫色の肉体を力強く伸縮し、大地を踏みしめ――。
「人が獣に……。話には聞いていましたがこれほど酷いことになっていたとは」とハーミュラーが嘆く。
ハーミュラーの幻がユカリのすぐ目の前に現れ、完全に視界が覆われた。
「ちょっと!? 今!? 邪魔!」
ユカリは思わず腕を突き出すが、指先は何にも触れない。慌てて、横に飛び退くが幻のハーミュラーの陰にいたはずの聖虎の姿が消えていた。
その時、聖獣の代わりに緑の光が見えた。八つではなく二つだ。狭い通りの向こうの暗闇からこっちを見つめている目と目が合った。またもや『這い闇の奇計』だ。
「ユカリ! 上!」
はっと見上げる。メーグレア虎はソラマリアの遥か頭上を飛び越えていた。空から迫り来るその巨大な爪の矛先は明らかにユカリだった。虎の前腕が横薙ぎに魔法少女の小さな体を打擲する。
すんでのところで何とか杖を構え、その鋭い爪を防ぐが巨大な肉球に弾かれた魔法少女の体が深奥の扉へと突き飛ばされた。