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ベルニージュの母の温かな天幕を出て、涼しくも焦げ臭い秋の野原に踏み入る。アクティアたちが交渉に出かけるのは昼過ぎだと聞き、ユカリたちは兵士たちの食事に加わることにした。
あからさまに不審の目で見られていたが、アクティアが少し立ち寄り、二人は自分の客人だと伝えると兵士たちは歓迎する態度へと素早く豹変した。冬を越した寂しい丘に春風が囁きかけ、瞬く間に花咲かせたかのようだ。
とはいえ兵士たちは別に連なって食事をしている訳ではない。各々が用意した携帯食料や酒保商人から買い取ったものを、幾つか熾された焚火ごとにそれぞれで食べているだけだ。少なくともそこに組織は見えてこない。
テネロードは大河間に広がる巨大な王国だ。そのいくつかの領邦から寄せ集められた兵士たちや傭兵たちは特段仲が良いわけでも、気高い絆で結ばれているわけでもない。代わりにアクティアの存在は希薄な彼らの繋がりを結びつける紐帯になっていた。
ユカリたちも酒保商人たちの天幕へ行き、出来るだけ安い食料を買い込み、食器やその他の料理道具を賃借りする。
ベルニージュは面倒臭がったので、ユカリが代わりに料理を作る。代金も貰う。
干し魚と芋を羹に、玉葱と乾酪と大蒜を混ぜ込んだ具を麺麭に。貧乏食の代名詞のような料理だが、ベルニージュは気に入ってくれたようだったので、ユカリは満足した。
「料理を作るのが好きなの?」とベルニージュが麺麭を齧りながら尋ねる。
「働くのが好きなんです」ユカリは焚火に手をかざして答える。
まるで世界を破滅させる呪いの言葉を吐かれたかのような表情を、ベルニージュはユカリに見せつける。
「もしかして、ワタシの勘違いでないなら、働くことが楽しいってこと?」
「上手くやれたなら何だって楽しいですよね?」
「それは、そうなのかもしれない、けどさ」
ベルニージュは初めて見る言語の解読を迫られたかのように難しい顔をしている。
「働いた者勝ちですよ」
「そうかなあ。いや、もちろんワタシだって料理はできるよ?」
ベルニージュは腑に落ちない様子で手についた麺麭屑を焚火に払う。焚火はわずかな食料も我先にと手を伸ばし、残さず食べ尽くして灰にする。
ユカリは焼き尽くされたハウシグ市の周囲を眺めながら言う。「それにしても、こんな風に畑を焼いてしまって、交渉なんて出来るんですか?」
相手の頬を叩いてから握手を求めるようなものではないだろうか、とユカリは想像し、可笑しくて頬が緩む。
ベルニージュの方は白く細い足を投げ出してぱちぱちと爆ぜる焚火に当たる。
「交渉なんて、意味があってもなくても意味ありげにしておけばいいんだよ。ハウシグのような大きな街なら備蓄も十分にありそうだけどね。冬が迫っているわけだし」
「何の畑だったんでしょうね」とユカリは独り言みたいに呟く。
「嬢ちゃんたち! 一体どこから来なすったんだい?」と突然、離れたところにいた兵士の一人がユカリに尋ねた。
ユカリはそちらを振り向いて答える。「リトルバルムです。モーニアの川上の」
また別の方向から、鎖帷子の兵士が呼びかける。「一体こんなところまで何しに来たんだ?」
「えーっと」とユカリは少し言葉に詰まる。「ハウシグ市の聖ジュミファウス図書館に少し用がありまして」
「冷やかしだよ、ユカリ。相手にしなくて良いから」とベルニージュが吐き捨てるように言った。
「ハウシグの図書館だって? するってえとあんたらはパーシャ姫にお会いなさるのかね」老いた兵士がきく。
「パーシャ姫? かの大図書館にいらっしゃるんですか?」とユカリは尋ねる。
「何だい、知らねえのかい? パーシャ姫はハウシグの牢獄に幽閉されているって話さ」と禿の兵士が告げる。
頭の中で話が繋がらなくてユカリは混乱する。にやにやと笑っている兵士もいれば真面目な顔で頷いている兵士もいる。冷やかしではなく、からかいなのか、とユカリは首をひねる。
それにしても、別に悪いことをしたわけでもない一国の王女を牢獄に幽閉するだなんて酷い話だ、とユカリは憤る。
ユカリたちは兵士たちの誰にともなく尋ねる。「図書館と牢獄に何の関係があるんですか?」
「ハウシグの図書館は牢獄も兼ねてるって話さ」と干し肉を噛みちぎろうとしている兵士が零す。
「違うよ、ユカリ」とベルニージュが否む。「元々牢獄だった建物が図書館に改装されたんだ。それも牢獄だったのは数百年前の話だからね」
ユカリは首をひねって疑問を呈する。「それじゃあ、パーシャ姫は図書館に幽閉されているってことですか? どちらにしてもおかしな話ですね。なんでわざわざそんな所に?」
「それは、そうだね。何でだろう」とベルニージュは首肯する。「それはともかく、大河の向こうから来た連中の話なんて聞き流しておけばいいよ。大したことは知っちゃいない。尾鰭をつけて海まで泳いでいきそうな噂を適当に話してるだけなんだからさ」
「おっかねえ。あんたたちが牢獄に乗り込んだら、パーシャ姫は檻に閉じこもって錠を下ろしちまうだろうな」と誰かが嘲り、皆が笑う。
ユカリは少しばかり不快感を覚え、語気を強める。
「あなた方の国の幽閉されている王女様を悪しざまに言うのですか?」
笑いの波がわずかばかり凪ぐ。
「そりゃあ、仕方がねえよ。評判が悪いのはあっしらのせいじゃない」と山羊髭の兵士が言う。
「ああ、そうさ。上の王子は至上の川の怪物を打ち倒したが、パーシャ姫は子猫に怯える」と小柄な兵士が話す。
「下の王女はモーニアを宥め、パーシャ姫は小川で溺れた」と眇の兵士が語る。
「下の王子は森を拓き、道を敷き、三つの街と二つの港を栄えさせたが、パーシャ姫は檻の中」と小太りの兵士が笑う。
「誰が言ったか王家の恥と。噂は高く天まで届く」と誰かが歌い始めると、他も追随する。「昇る煙は消えもせず、月を隠せど高笑い。哀れ王女は夜空を見上げ、姿を隠した月求め、大河の向こうに流れゆく。哀れ王女は檻の中。哀れ王女は檻の中」
「グリュエー!」ユカリは眦を吊り上げ、立ち上がって怒鳴る。
「はいはーい」グリュエーが火のついた薪を蹴散らし、ユカリの周りを渦巻く。
兵士たちが驚き、慄き、悲鳴をあげて何人かが転ぶ。呪いの言葉を吐く者もいたが、何を起こすことも出来なかった。
「ユカリ!」ベルニージュがユカリの肩をぐいと引く。「見知らぬ他人のために怒ってもどうにもならないよ」
「でも、誰のお陰で戦争が止まったのか、この人たちは」と兵士たちを睨みつけてユカリは言う。
「堪えて」とベルニージュがユカリの耳元で囁く。「涙を流したら負けだし、彼らを打ちのめしても負け。パーシャ姫の栄誉を守れるわけでもない。何も得られなかった戦いこそが本当の敗北だよ」
ユカリは唇を噛んで気を鎮め、グリュエーをなだめる。
そこへアクティアが、まるで勝手知ったる庭の敷石でも渡るように軽やかな足取りでやってくるなり、「一体何ごとですの?」と言って、可憐な目元で兵士たちを睨みつける。「私の客人であり、友人です。確かにそう言いましたわ。無礼は許されません」
兵士たちは尊い偶像を前にした時と同じように膝を折る。
「いえ、姫様。歌をうたって士気を上げていたのでござんす。品のない歌だもんでお嬢さん方を驚かせっちまったようで」と年嵩の兵士が述べた。
アクティアは少しむっとした表情をし、それでも麗しさに欠けるところはないのだが、兵士たちを鈴の声音で諫める。
「まだ士気を上げる必要などありませんわ。わたくしが和平交渉に向かうのですから」
年嵩の兵士は眩げに目を細める。「なんと、王女様ご自身がでございますか?」
「何かおかしいでしょうか?」
そう言ったアクティアは少し不安げな表情になる。
「いえ、王女様のご慈愛とご決断に恐れ入るばかりにございます」
アクティアはほっとした様子で答える。「であれば戯れもほどほどになさい。今はただ体を休めるべき時です」
「へえ、ごもっともで」
しかし、まるで母親に褒められた子供のように兵士たちは浮かれた様子になっている。
「申し訳ございません。お二人に不快な思いをさせてしまいました」悲し気にベルニージュとユカリを見つめていたアクティアの視線が一点に注がれる。「酒保商人がそのような麺麭を取り扱っていらしたの?」
麺麭を持っていたベルニージュが否定する。
「ああ、いえ。これはユカリが作ったものですよ。お召しになります?」
そう言ってベルニージュが食べかけの麺麭を差し出すので、ユカリは慌てて横からひったくった。
「ベルニージュさん。何してるんですか! こんなものをお姫様に食べさせるなんて! 不敬ですよ! 不敬!」
「こんなものって……。美味しいのに」
「そういう問題じゃないです! 大したものじゃないですし。それに食べかけじゃないですか、これ」
するとアクティアは甘い菓子を前にした子供のように瞳を煌めかせて言う。
「ではユカリさん。わたくしにも麺麭を作ってくださいませ」
「いえ、別に麺麭を作ったわけではなく、ただ具を乗せただけで」
「ぜひ! ぜひ!」
ユカリは熱意に負けて同じものを作る。ただ切って炒めて混ぜるだけの調理だが、アクティアは複雑で精巧な装置を眺めるように目を見張って、ユカリの仕事を初めから終わりまで観察していた。
アクティアの視線以上にアクティアに向けられた兵士の視線がユカリには気になった。
「ハウシグの王女パーシャ様について、殿下は何かご存知ですか?」とユカリも聞きたかったことをベルニージュが尋ねる。
アクティアは笑顔で答えた。「パーシャ様はわたくしが最も尊敬する人物の一人ですわ!」とアクティアが言うと兵士たちの何人かが気まずそうに離れて行った。「幼い頃に何度かお目通りしたのですが、わたくしはいつも侍従のごとく殿下の後ろをついてまわったものです。わたくしはパーシャ様のようにあろうとこの六年を過ごしてきたと言えます」
ユカリは改めて兵士たちを睨みつける。兵士たちの話とアクティアの話は違うが、噂を聞いただけの彼らと交流のあった人物では食い違いもあるだろうと考えることにした。
しかしアクティア姫の憧れる人物はこれで二人目だ。パーシャ姫がベルニージュのお母さんのようだったらどうしよう、とユカリは憂慮した。
ユカリは出来上がった料理をアクティアに振舞う。
麺麭自体にはこれといった感想は出てこなかったが、アクティアは興奮冷めやらぬ様子でユカリに尋ねる。
「ユカリさんはこのような技術をいったいどこで?」
「技術というほどのものではありませんよ。幼い頃から少しずつ義父母に教わったのです」
「まあご謙遜を」
そこへ侍従らしき女性が訪れ、アクティアに耳打ちする。
「さあ、ユカリさん、ベルニージュさん」アクティアは麺麭を平らげて立ち上がる。「煙も水蒸気も収まりました。ハウシグへ向かいましょう」