コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
だが幸治に釘を刺されたように、家庭教師としての芳乃と恋愛関係になれば、せっかく彼女が築いた信用を崩しかねない。
本気で恋をしているなら、自分の欲を優先するより芳乃の人生を第一に考えるべきだ。
だから俺は無事にT大に合格したあと、〝生徒〟を卒業して彼女に告白しようと決めていた。
『でも、どれぐらいで叶えられるか、不安もあるな。なるべく早く叶えたいんだけど』
『悠人くんなら大丈夫! 自慢の生徒だもん』
芳乃に言われると、何でもできるような気持ちになるから、自分でも現金なものだと思う。
『ん、絶対叶えてみせる。上手くいかなかったら……、慰めてくれる?』
『牛丼ぐらいなら奢るよ?』
明るく言われ、俺はつられて笑う。
『ねぇ、先生って本当に彼氏いないの?』
ずっと気になっている事を聞くと、芳乃は『もー』と呆れたように笑う。
『こう見えて、大学生って忙しいんだよ? 私は就きたい職が決まってるから、そのための勉強や資金集めに必死なの』
『就きたい職って?』
俺は俄然興味を持って聞く。
俺はいずれ神楽坂グループを継ぐけれど、芳乃がどんな職種に就くかによって、人生設計が変わってくる。
彼女なら大企業や、外資系企業、商社に入ってもおかしくない。
『宿泊業界』
けれどまさかの家業が出て、驚いた俺は身を強ばらせた。
運命だ! と思って喜ぶ前に、自分が神楽坂グループの一人息子である事が、彼女にバレたのかと思って焦ったのだ。
俺はぎこちなく笑いながら、さらに尋ねる。
『意外だな。芳乃さんなら、商社や金融に就きそうなのに』
『そう? ホテル業に就くのは、ずっと掲げていた目標だったんだ』
彼女はそう言ってから、大切な思い出を教えてくれた。
『子供の頃、家族で箱根にある〝海の詩〟っていう温泉ホテルに行ったの。凄く綺麗な所で、スタッフさんもとても親切で、サービスも最高でご飯も美味しくて、〝こういう所で働きたいな〟って思ったの。それがきっかけ』
今度こそ心臓が止まるかと思った。
〝海の詩〟は、仁科グループが経営しているホテルだ。
俺は〝仁科〟と名乗ったけれど、芳乃はまさかうちがその〝仁科〟だとは思っていないだろう。
苗字だって割とありふれているほうだし、彼女は家庭教師としての一線を守り、決してその家の内情を探る事はしなかった。
だから芳乃は、俺が仁科グループの会長の孫だと知らないはずだ。
静かに動揺している俺の前で、芳乃は饒舌に語る。
『フロントのお姉さんが英語ペラペラで、凄いなぁって思ったの。それに客にとって、ホテルや温泉に泊まる時は非日常でしょ? その特別な日を用意するって、凄く素敵な事だと思わない?」
『そう……、だね』
俺はぎこちなく頷くが、彼女は気付いていない。
『……そういえば、神楽坂グループっていま大変だよね。推しなのに』
芳乃がうちの会社の名前を口にした瞬間、俺はまたギクリとする。
彼女はそれに気付かず、お茶を飲みつつ続ける。
『顧客情報の漏洩って、意図的なミスじゃないと思うけど、こんな騒ぎになって気の毒だな……。そりゃあ、企業として顧客情報はしっかり管理すべきだけど、どこにでもミスやエラーはあるもので、誰かが失敗するたびにバッシングするのって、凄く不健全に思える』
もしかしたら、彼女にも会社を悪く言われるのかも……と身構えたが、芳乃は俺が思っていた以上に冷静に状況を判断していた。
――やっぱり、俺にはこの|女性《ひと》しかいない。
ずっと周囲から叩かれる事に怯えていた俺は、芳乃の言葉に救われた気持ちになり、泣きそうなほどの安堵を得た。
『……失敗した企業は、叩かれるべきと思ってないの?』
あえてそう尋ねると、芳乃は意外そうに目を丸くした。
『どうして? 悪意があってした訳じゃないんだよ? 企業としてきちんと謝って対処したなら、あとは外野が文句を言う必要はなくない? 被害者なら怒る権利はあるけど、ネットで誹謗中傷してる人たちって、神楽坂グループのホテルに泊まった事もないんじゃない? そういう人たちは、自分のストレス発散のために〝失敗〟した人、企業を叩きたいだけ。知ってる? 正義感で〝悪〟を叩いていると、ドーパミンが出て凄く気持ち良くなるの。そんな人たちが建設的な意見を言える訳がないし、会社は無視するか、テンプレートのお詫びをするしかないと思う』
彼女の言葉を聞いて、俺の胸の中で渦巻いていた罪悪観が軽くなった気がした。
芳乃は物事をとてもフラットに見られる人で、感情的にならず冷静な人だ。
そんな面に憧れるし、尊敬するし、心底好きだと思った。