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奏多がシンガポールに立って二日目、プロジェクトは無事に契約の運びとなった。
『missioncomplete|《任務完了》』
夕方奏多から届いたメールを見てホッと胸をなでおろした。
本当に良かった。
これで奏多の努力も少しは報われる。
ピコン。
ん?
藍さんからのメールだ。
『お休みだって聞いたけれど、具合悪いの?』
そう言えば先週の飲み会で食欲がないって言っていたから、心配してくれたんだ。
『大丈夫です。今週は副社長もいないので、お休みをもらったんです』
『ならいいけれど、心配しちゃった』
『すみません』
藍さんにも、会社を辞めるって伝えなくてはいけない。
せっかく仲良くしてもらったのに・・・
奏多のスケジュールでは明日と明後日大きな会議が現地であって、その後週末をシンガポールで過ごしてから帰国の予定になっている。
あと二日ほどうまくごまかして、何とか無事に会議を乗り切ってもらおう。
その後は携帯を切って、連絡を絶つつもりでいる。
もう後戻りできないとわかっているのに、未練は消えない。
思い出すのは奏多のことばかりで・・・
クスン。
つい涙が出てしまった。
***
『芽衣、ちゃんと食べているか?』
いつものように心配するメールが今日も届いた。
『大丈夫よ。明日は病院へ行ってみようと思うから心配しないで』
『本当だな?』
『はい』
こっちでの手続きは一通り終わった。
あとは携帯を解約して、退職の書類と保険証を会社に送ればすべて完了。
その前に、明日は病院を受診するつもりでいる。
元気だけが取り柄の私だからかかりつけ医なんてある訳もなく、とりあえず近くの総合病院へ行くことにした。
私の予想ではストレスによる体調不良だと思うから、内科や外科だけじゃなくて精神科もあるところを選んだ。
明日は土曜日できっと混んでいるから時間はかかるだろうけれど、一通り見てもらえるところの方が安心だし。
仕事をやめた私に時間はたっぷりあるしね。
ピコン。
『そういえば、今日休みをとったって?』
えっ。
奏多からのメールで固まった。
『うん。プロジェクトも一段落したし、有休もあったからお休みしたの。何か急用だった?』
『いや、メールしても返事がないから雄平に電話したら休みだって言っていた』
うっ。
課長がしゃべったのかあ。
『具合が悪くて休んだんじゃないんだな?』
『もちろん。元気だよ』
『それならよかった。具合が悪いならすぐにでも帰ろうかと思っていたんだ』
ああ、やっぱり。
『大丈夫だから。せっかくのシンガポールでしょ。ゆっくりしてきて』
『ああ。こっちの友人のパーティーに顔だけ出したら帰るからな』
『うん。待っている』
本当は待っていないのにと思うと、心が痛んで仕方がない。
ごめんね、奏多。
でもあと数日、私には時間が必要だから。
***
翌日。
朝9時に、区立病院の受付にやってきた。
明後日には奏多が帰ってくるから、明日の朝一で実家に帰る。
そのためにはどうしても今日中に受診するしかない。
「初めてですね」
「はい」
「では問診をお願いします」
受付のお姉さんに問診を渡され近くの椅子に座って記入する。
えっと、食欲不振と、吐き気と、倦怠感。あと少し微熱気味。
それから最終月経は・・・あれ、いつだろう?
もともと不順だからあんまり気にしてないけれど、2か月以上きていないかも。
「受診は内科のご希望ですね」
「はい」
「では先に検尿を済ませてから、診察室の前でお待ちください」
「はい」
たまたま今日は土曜日で、患者さんの数も多い。
この調子だと本当に一日仕事になりそうだな。
***
「小倉さん。小倉芽衣さーん」
検尿を済ませて診察室の前で待っていると、看護師さんに呼ばれた。
「は―い」
私は手を上げて合図をする。
駆け寄ってきた看護師さんはニコニコした表情で、
「小倉さん、生理が来てないんですね?」
「ええ。でももともと不順で、二ヶ月くらい飛ぶことも珍しくないんです」
「そうですか。でも一応先に産科に行ってください」
「はあ、わかりました」
私は渋々ファイルを受け取り、産科の受付に向かった。
***
「小倉さん、どうぞ」
それから三十分以上待って、私は診察室に呼ばれた。
「失礼します」
「どうぞ」
目の前の丸椅子をすすめてくれる白衣の男性。
私は椅子に座って男性医師と向き合った。
「おめでとうございます。おめでたです」
「は?」
「妊娠されています」
「え、いや、あの・・・」
私の想像力が乏しすぎたのかもしれない。
いい歳の女性がそういう行為をして、生理が来なくなって、体調不良まで起きればまずは妊娠を疑うべきだったと今なら思う。
でも、私の頭には全くなかった。
「大丈夫ですか?」
よろめいて椅子から落ちそうになった体を、看護師さんに支えられた。
「ええ。てっきっりストレスで食べられなくなったんだと思っていて・・・」
まさか妊娠しているなんて思ってもみなかった。
「悪阻がかなり辛そうですね」
男性医師に言われても、悪阻なんて思ってもみなかったから答えようがない。
「診察も検査も必要ですが、とりあえずベットに休んで点滴をしましょう」
「はい」
私も一度頭を整理したい。
***
妊娠?
私が、親になるって・・・
処置室のベットに寝かされ、点滴をつながれ、反対の手からは採血をされた。
動揺している私を感じとってか、看護師さんがかわるがわる顔を出してくれる。
「かなり食べれてなかったみたいですね」
「ええ」
ここ数週間で五キロほど体重が減ってしまった。
自分でも腕や足が細くなっているのは感じていたし、立ち眩みもひどかった。
食べないといけないとはわかっていても無理をすればすぐに吐き気がしてどうすることもできず、ゼリーやジュースでごまかすのが精一杯。
でも、まさか妊娠しているなんて思ってもいなかったから。
「どなたか迎えに来ていただける方はいますか?」
「・・・」
点滴が終わりかけたころ言われて、答えに困った。
東京にこんな時呼べるような友人はいないし、まさか九州の母さんを呼ぶこともできない。
「明日には九州の実家に帰る予定なんです。そちらでゆっくり休みますので」
今日の所は帰してくださいとお願いしたつもりだった。
「九州なんてとんでもありません。本当ならこのまま入院になる状態ですよ。わかっていますか?」
母さんくらいの年の看護師さんに叱られた。
「すみません。でも、入院は困ります」
「では、どなたか迎えに来てもらってください」
うぅーん、困った。
***
「すみません。藍さん」
一時間後、やって来てくれた藍さんに私は謝った。
結局、私は藍さんに電話をした。
せっかくの土曜日に申し訳ないと思いながら、他に方法がなかった。
「びっくりしたわ」
「ですよね」
二時間ほどかかった点滴はすでに終わっていて、抜針をしてもらった。
あとは薬をもらって支払いをすれば帰れるはず。
点滴のせいかずいぶん体も楽になったし、一人で平気なのになと思いながら看護師さんには逆らえない。
「えっと、ご関係を伺ってもいいですか?」
数種類の薬を抱えて現れた看護師さんが藍さんに聞く。
「友人です。勤務先が一緒で」
「そうですか。もうすぐ担当医が参りますので、お待ちください」
「はい」
どうやら藍さんにも病状説明があるらしい。
出来れば内緒にしたかったのに、仕方ないなあ。
「芽衣ちゃん」
まじめな顔をした藍さんに名前を呼ばれた。
「はい」
「私でよかったの?」
「それは・・・」
きっと、奏多を呼ぶべきだって言われているんだろう。
この状況で妊娠となれば相手が奏多だって、藍さんにもわかっているはずだから。
「呼ぶ人を間違っていない?」
そう、かもしれない。
でも、奏多には話せない。
これ以上彼の負担になりたくはないから。
「小倉さん、先生から病状説明がありますので診察室へおいでください」
看護師さんに声をかけられ、私と藍さんは診察室へ向かった。
***
男性医師からの注意事項はとにかく無理をしないこと。
「これ以上食べられないようなら入院になると思ってください」
真剣な顔で言われ、私もやっと状況を飲み込んだ。
「とにかく動かずに、じっとしている方がいいんでしょうか?」
なぜか藍さんが質問し、
「いえ、お母さんがゆったりとした気持ちで過ごせるのが一番です」
医師が答えるけれど、自分がお母さんって呼ばれていることに実感がなく人ごとみたいに聞いていた。
今は妊娠十週。
どちらかというと妊娠に気が付くのが遅くてすでに悪阻も本格的な時期。
どんな選択をするにしても残された時間は多くない。
「とにかく、食べたいものを食べてゆっくり休んでください」
「はい」
私に代わって返事をする藍さん。
「小倉さん、明後日月曜日に診察の予約をいれますが、来れますか?」
「えっと・・・」
本当は明日実家に帰るつもりだった。
奏多が日本に帰る前に東京を離れるつもりでいたのに、無理そうだな。
「十時に予約を入れるので必ず来てください」
はっきりしない私に、医師が告げる。
「はい」
大人しく返事をするしかない。
自分一人のことなら無理もできるけれど、おなかに赤ちゃんがいると言われれば無茶はできない。
小さくてもひとつの命なんだから。
「では、お大事に」
看護師さんから薬を受け取り立ち上がった。
支払いを済ませ病院の入口に向かうと、藍さんが荷物をもってくれる。
「すみません」
「いいのよ。車で来ているから、乗って」
いつの間にか正面玄関の近いところに藍さんの車が止まっていて、私達はそのまま乗り込んだ。
***
「あの、藍さん?」
運転席の藍さんに声をかけてしまった。
向かうのはここ数日泊っているビジネスホテルのはず、だった。
ちゃんと場所は伝えたし、わかったって返事もしてもらったはず。
でも、方向が違う。
「少し寄り道しましょう」
「はあ」
突然呼び出して迷惑をかけてしまっているからには、文句は言えない。
私は藍さんに従うしかない。
「副社長には言わないつもり?」
前を見たまま、私の方を見ることもなく投げかけられた言葉。
藍さんはきっと、私の態度から気づいてしまったんだ。
「今はまだ、黙っていてください」
「それでいいの?」
「ええ」
住む所も仕事もお金のことだって何一つ決まってはいない状況。
考えないといけないことはいっぱいあるのに、これから先のことどころか明日からどうしたらいいのかわからない。
奏多の負担になりたくなくて黙って去ろうとしたのに、とてもじゃないけれど妊娠なんて告げられない。
「まあいいわ、ゆっくり考えなさい」
きっと藍さんにも言いたいことはあるんだろうけれど、それ以上は言わないでくれた。