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30分後。
着いたのは都心から少し離れた場所。
マンションが何棟か立つ中の一つに車が止まった。
「ここは?」
「私の家よ」
「藍さんの?」
「そう。入院が必要だって言われた芽衣ちゃんを、一人でホテルには置いておけないでしょ」
「でも」
「いいから家に行きましょう。話はそれからね」
ここまで来て逃げ出すわけにもいかず、私は藍さんの家について行くしかない。
郊外にあるマンション。
奏多のマンションとは違って、周辺には緑が多くて少し先には公園が見える。
自転車に乗る子供たちや親子ずれの姿もあって、ここは住宅街なんだなと実感した。
「さあ、行きましょう」
藍さんがまた荷物を持って、私の前を歩いてくれる。
エレベーターに乗りボタンを押したのは最上階の二十階。
すごいなと驚いていると、エレベーターが開いてすぐに玄関があった。
「どうぞ」
えっ?
藍さんが玄関を開けた瞬間、私は固まった。
「藍さん?」
「ごめんね、私実家暮らしなのよ」
そう言って、私の荷物を持った藍さんが部屋の中へと入って行く。
イヤ、ごめんって言われても・・・
しばらく、私は玄関を動けないでいた。
***
「芽衣ちゃん上がって」
部屋から顔を出し藍さんが言ってくれるけれど、やはり動けない。
荷物もみんな藍さんが持って行ってしまったから逃げ出すこともできないけれど、やはり足が動かない。
困ったなあと立ち尽くしていると、
「さあどうぞ」
四十代くらいの女性が現れた。
きっと藍さんのお母さん。
藍さんに口元がそっくりな美人さん。
「突然お邪魔してしまって」
お母さんがどこまで事情を知っているかはわからないけれど、上がりこむのには抵抗がある。
「いいんですよ。主人も出張であと二週間は帰ってきませんからゆっくりしてください」
「・・・ありがとうございます」
ここまで言われると上がるしかなくて、私は藍さんのお家にお邪魔することにした。
***
すでに客間のベットにはお布団の用意がしてあり、私はそこに案内された。
「別に寝ていなくても平気ですから」
と言ってみても、
「うん、でも少し横になりなさい。色々考えを整理したいこともあるでしょう?」
そう言われてしまえば、何も言い返せない。
「すみません、お世話になります」
「いいのよ、ゆっくりしてね。月曜日も母が病院へ送って行くから」
「藍さん・・・」
たった数ヶ月会社で一緒だっただけなのに、こんなに良くしてもらって申し訳ないと思うと自然と涙が溢れた。
普段はそんなに涙もろい方ではないのに、どうしたんだろう。
「夕食には呼ぶから、それまで気持ちを落ち着けなさい。できれば副社長にも連絡を入れる方がいいと思うわ」
「ありがとうございます」
私はお礼だけ言い、藍さんは部屋を出て行った。
***
スケジュール通りなら今日と明日はシンガポールでオフ予定の奏多。
友人のパーティーに顔を出したり、現地で手掛けていた仕事の進行具合を確認するって言っていた。
今頃はきっと友人たちと飲みに出ている頃だろう。
「さあ、そろそろ決心しないと」
本当は明日の朝から電話に出ないつもりでいた。
平石物産から退職関係で連絡があるかもしれないのですぐに携帯の解約はできないけれど、着信は拒否するつもりだった。
でも、今の時点で奏多からの電話に出て「変わりないわ」って嘘をつくことができそうもない。
ブブブ。
そんなことを思っていると奏多からの着信。
ブブブ ブブブ ブブブ ブブブ。
しばらく鳴って電話は切れた。
ピコン。
今度はメール。
『どうした?何かあったのか?とにかく、電話をくれ』
心配そうなメールに心が痛むけれど、未読のまま無視を貫いた。
その後も数分おきにかかってくる電話。
最後はつらくなって、携帯をカバンの中にしまった。
ごめんね奏多。本当にごめん。
でも、今はまだ言えない。
自分の気持ちの整理がつくまでは話すわけにはいかないから。
「芽衣ちゃん、少し早いけれど食事にしましょう」
「はい、ありがとうございます」
藍さんに声をかけられ、私もリビングに向かった。
***
「簡単なものでごめんなさいね」
「いえ、ありがとうございます」
食卓の上に並んだメニューは、うどんと野菜の煮物と鶏肉の梅肉ソース。
全てお母さんの手作りらしく、どれもあっさりしていておいしそう。
きっと、私が悪阻中だって知っていて選んでくださったメニューなんだ。
「「いただきます」」
私と藍さんの声がそろった。
うん、美味しい。
うどんもお野菜も鶏肉も、みんな食べやすくて嘘みたいに入って行く。
「大丈夫?食べられる?」
「はい、とってもお美味しいです」
そうかこういう物を食べればよかったのかと目からウロコ。
最終的には藍さんに「大丈夫?」って心配されるくらいたくさん食べてしまった。
「ごちそうさまでした」
「お粗末さまでした」
綺麗になくなった私のお皿を見て、藍さんのお母さんが笑っている。
でも、本当に美味しかった。だから全部食べられた。
「お風呂沸いているから、順番に入っちゃってね」
「はーい」
「藍さん、ちょっといいですか?」
食べたお皿を片付けようと立ち上がった藍さんに、私は声をかけた。
***
「どうしたの?」
部屋に戻り、私は藍さんと向き合った。
「実は私、会社に退職届を出しました」
「はあ?」
さすがに驚かれた。
「奏多、じゃなくて、副社長に」
「名前でいいわ」
「はあ、では。やはり私では奏多に釣り合わないですし、関係を続けていくのに無理があるかなって思って別れることに決めました」
「副社長はそれでいいって?」
「それは・・・」
沈黙の時間。
藍さんはまっすぐに私を見ていて、視線を外そうとはしない。
私は逃げることもできず瞬きだけを繰り返した。
「副社長に黙って消えるつもりだったの?」
「ええ、まあ」
「勇気あるわね」
呆れたように藍さんが洩らす。
勇気?それはどういう意味だろう。
そりゃあ初めは怒るだろうけれど、時間がたてばわかってくれるはず。
「ですから、私のことは黙っていてください」
お願いしますと頭を下げた。
しばらくは姿を消さないと、奏多のことだから探すだろうし。
私も考えをまとめる時間が欲しい。
だから、藍さんには黙っていてもらわないと困る。
***
「事情は分かったわ。でも、芽衣ちゃんの話には副社長の意志ってものが入っていない」
「奏多の意志?」
「そう。確かに、芽衣ちゃんではなくて会社と絡みのあるお嬢さんと一緒になった方が、副社長にとっては有利だと思うのよ。後ろ盾を持つことになるんだから」
「ええ」
やっぱり、そうだよね。
それは奏多にとって必要なものだもの。
「でも、それは一般論であって、副社長が実際に望むかどうかはわからない」
「そんな」
そんなこと言いだしたら話が進まない。
「芽衣ちゃんだって、副社長の側にいれば生活に困らないってわかっていて、それでも出て行こうとしているじゃない」
「それは」
「それに、赤ちゃんのことはどうするの?」
「・・・」
「芽衣ちゃんが副社長のことを思って消えようとしていることに賛成ではないけれど、理解できる部分もあるわ。好きだからこそ相手のためにって思うんだろうから。でも、それと赤ちゃんは別の話でしょ?」
確かに、そうかもしれない。
奏多のもとを 離れようと思ったのは私の意志。でも、おなかの赤ちゃんは私とは別の人間で、その子の人生まで私が決めてもいいのだろうかと悩んでいる。
***
よく考えてみなさいと言って藍さんは部屋を出て行った。
赤ちゃんかあ・・・
せっかく授かった命だから生みたい。その気持ちに嘘はない。
でも現実問題として私には住む場所も仕事もないわけで、ちゃんと育てられるかと言われると自信はない。
まずは体力を回復させて、実家に帰って、両親を頼るしかないんだろうな。
奏多にも、できれば黙っていたい。
いつかは話さないといけないけれど、体が落ち着いて、生活の基盤ができて、一人で大丈夫って時までは言わないでおこう。
私の妊娠が奏多の負担になることだけは避けたいから。
ブブブ。
ブブブ。
ブブブ。
さっきから携帯が震え続けている。
ずっと気が付かないふりをしていたけれど、さすがに気になりだした。
奏多からなら出るわけにはいかないけれど、他の急用かもしれないし。
鞄の底にしまい込んだ携帯を取り出して、着信を確認。
うわ、スゴっ。
そこにはおびただしい数の着信履歴。
ほぼすべては奏多からのもの。
でも、最後の数件は田代課長からのものだった。
課長から?
退職のことか、仕事のことか、どちらにしても気にはなる。
私は課長に電話することにした。
***
「もしもし小倉です」
「おまえなあ」
ん?
いつも丁寧な言葉で話す課長にしては珍しく砕けた口調。
一瞬人違いをされたんじゃないかと思ってしまった。
「課長、秘書課の小倉ですが・・・」
「わかってる」
あら、ご機嫌が悪い。
どうしたんだろう、珍しいな。
「お電話もらったみたいで、どうかしましたか?」
「はぁー」
電話の向こうから聞こえてきた大きなため息。
どうやら何かあったらしい。
このタイミングだから、奏多の絡みだと思うけれど。
「あいつからの連絡を拒否ってるらしいな」
「あぁ、はい」
「俺の所にかかってきた」
「・・・すみません」
「予定を切り上げて明日の朝一の飛行機で帰ってくるぞ」
やっぱり。
奏多ならそういう行動に出ると思っていた。
「珍しく頭に血が上っているから、気を付けるんだな」
「はい」
本気で怒った御曹司って想像するだけで怖いけれど、自分で蒔いた種だ。
「それとな、」
そこで課長は一旦言葉を切った。
***
「お前が辞表を出したことを話したぞ」
「はい」
どうせバレるのは時間の問題だと思っていた。
いつまでも黙っているわけにはいかないんだから。
「まるで俺が悪いみたいに怒鳴り散らされた」
「それは・・・」
申し訳ない。
「『なんで辞表なんか受け取るんだよ』『芽衣がどこにもいかないようにお前がちゃんと見ておけよ』って、俺を一体何だと思っているんだろうかなあ」
「すみません」
やっぱり課長に迷惑をかけたんだ。
「一番の沸点は、俺が奏多に黙っていたことなんだが、そのことに関しては確信犯だから仕方ない」
「そんなことありません。私が黙っていてくださいってお願いしたから」
「だから、奏多はそれが嫌なんだよ。自分の知らないところでコソコソされたことに怒っているんだ」
コソコソって、あの状況では仕方がなかった。
下手するとプロジェクトの契約に影響が出るかもしれなかったから。
「とにかく、覚悟するんだな。本気の奏多はマジで怖いぞ」
「脅さないでください」
「脅しじゃない。普段無欲で、物欲なんてなさそうに見えるあいつが本気で落としにかかるんだ。その上、金も地位もあって頭もいい。俺なら速攻で逃げ出すね」
「怖いこと言わないでくださいよ」
私もだんだん逃げ出したくなった。
でもなあ、この体ではすぐにどこかへ行くこともできない。
「まあ、あいつを本気にしたのはお前なんだからきちんと責任取るんだな。じゃあな」
いうだけ言って、完全にキャラの変わってしまった課長の電話は切れた。