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その風は、人が気付かぬうちに心の奥に吹き込む。風は人の内側から小さな力を少しずつ運びながら、静かに息づいている。
風が必要とするのは「その人の現実」だ。
現実を少しずつ受け入れることで、風は心の中で自由に舞う。
だから風を完全に止めようとするには、自分自身の現実を手放すような覚悟が必要になる。心が風に流されすぎると、人は現実の声に従いすぎて、自分らしさを忘れてしまう。
目には見えない風は、誰の心にもそっと存在している。
心に積み重ねてきた「現実」が風に取り込まれると、人は「空っぽ」になる。
つまり、現実という時間に飽きてしまうのだ。
飽きては新しいことに挑戦し、また飽きては次の刺激を求める——
その循環こそが、風に力を与える。
「なんともまあ、健気なことだ」
風を見渡せるビルの屋上で、一人の語り部が腕を組んで街を見下ろしていた。人々の胸の奥でそっと吹く風を感じながら、ただ静かに景色を見つめている。
「どうにかできないでしょうか?」
ある日、若い青年が語り部を訪ねてきた。
風が心に吹き込むのが怖くて、夜も眠れなくなったという。噂を聞いて、ここまでたどり着いたらしい。
青年を見た語り部は、ゆっくりと手を胸に向けた。
「だったら、まず自分の今を受け入れることだ」
青年は少し驚き、胸元を押さえ目を閉じた。語り部は煙草の火を指で弾き、青年に向き直る。
「……」
静寂のあと、青年は小さく問いかける。
「……僕は、この風と向き合えるんでしょうか?」
語り部はくくっと笑った。
「もう十分、ひとつの自分を受け入れたよ。
あんたはきっと、自分の心に吹く風を味方にできる」
「あなたがやってくれるんじゃ……?」
青年の真っ直ぐな視線を受け、語り部は煙草をくゆらせた。
「俺は、あんたの“過去”だ。忘れたいと思えば薄れ、誇りたいと思えば光る。英雄じゃない。ただ、そう呼ばれ続けてきただけの存在さ」
過去はゆっくりと言葉を置いた。
「風と仲良くなるには、自分が歩んできた道を認めること。
そして、歩んできた道からも——認められることだ」
「――そうすれば」
過去は煙草を深く吸い込み、青年を指さした。
「“あんたの先”に、ちゃんと未来がひらけてくる」
夜明け前、東の空に明星が瞬くビルの上での出来事だった。