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雨に濡れた『月下堂』の重い木の扉を、界人さんが肩で強引に押し開ける。
店内に滑り込むと、そこにはいつものように
古い和紙の湿った匂いと、長い年月を経て堆積した埃が混じり合った
肺の奥が落ち着くような香りが漂っていた。
けれど、その静寂は今の私たちにとって
嵐の直前に訪れる奇妙な凪のように不気味で
触れれば砕け散る硝子細工のようにひどく脆いものに感じられた。
「……遅かったな。界人、そして雲雀」
帳場の奥、ガス灯も点けずに暗がりに座っていたのは、身寄りのない私を拾い
今日まで育ててくれた唯一の肉親おじいちゃんだった。
いつもなら「お帰り」と目尻を下げて笑ってくれるはずのその顔は
今は深く刻まれた皺の一つ一つに
語ることの許されなかった重い宿命を背負った隠者のような厳しさを湛えている。
「久兵衛…貴様、最初から知っていたな。この娘が、百年前の……帝都を焼き尽くした、あの元凶だということを」
界人さんが激しい喘鳴を漏らしながら問い詰める。
おじいちゃんは表情一つ変えず、ゆっくりと腰を上げた。
「ああ。すべて承知の上で、儂はこの店ごと彼女を『封印』してきた。お前たちの一族が犯した罪も、彼女が抱いた悲しみも、すべてはこの店と共に眠らせるつもりだったのだ」
おじいちゃんが静かに歩み寄り
店の中央で時を刻むのをやめている、あの『開かずの柱時計』を指差した。
「百年前、帝都を地獄に変えようとしたのは、得体の知れないあやかしの類ではない」
「……宿命に絶望し、愛に裏切られた、一人の巫女の心そのものだ。当時の界人の先祖は、彼女を救うために自らの命を刀に変え、その魂を二つに分かつことで滅びを止めた」
「一つは輪廻の輪へ還し、そしてもう一つは……この時計の中、つまり『月下堂』という強固な結界そのものに閉じ込めたのだ」
おじいちゃんの語る真実は、外を叩きつける冷たい雨よりも深く、冷徹に私の心へと浸透していった。
私がただの捨て子として偶然拾われたのではない。
この店の結界が、長い年月を経て「器」として完成した私の肉体を
磁石のように再びこの地へと引き寄せ、呼び寄せたのだ。
私は、最初からこの場所に囚われていた。
「だが、界人よ。お前が彼女を見つけ、触れたことで、分かたれた魂は再び共鳴を始めてしまった」
「今、雲雀の中で目覚めようとしているのは、百年分の『未練』そのものだ。それが完全に覚醒すれば、彼女の自我は炎に呑まれて消え、帝都は再び、あの日のような緋色の業火に包まれるだろう」
「……そんなことは、断じてさせない」
界人さんが、傷ついた身体を無理やり引きずり、盾となるように私の前に立った。
彼の誇り高き軍服は雨と返り血で無惨に汚れ、肩でつく呼吸はひどく乱れている。
追っ手との戦闘で負った霊的な傷は
目に見えない毒のように、彼の強靭な生命力を確実に、刻一刻と削り取っていた。
「俺が……俺が彼女を、今度こそ守り抜くと誓ったんだ。たとえ、俺の血がすべて枯れ果て、魂が塵になろうとも……」
その瞬間、界人さんが激しく咳き込み、その場に膝をついた。
支えを失った彼の指先から零れる青い霊力は
砂時計の砂が落ちるように、輝きを失いながら床へ吸い込まれていく。
このままでは、彼は死んでしまう。
私という「化け物」を守るために
彼は自らの命そのものを燃料にして、無理やり立ち上がり続けているのだ。
(……嫌。そんなの、絶対に嫌)
私の内側、暗い深淵で、再びあの「声」が、耳元で愛を囁くように、残酷に嘲笑った。
『そうよ、諦めなさい。彼を救う方法はただ一つ。貴方の意識を私に差し出し、この世界を、貴方を蔑むすべてを焼き尽くすことだけ……』
(違う。そんなの、愛じゃない。それはただの呪いよ)
私は、震える手で自分の胸元を強く握りしめた。
怖い。
自分という形が消えて、別の何かに塗り替えられてしまうのが、たまらなく恐ろしい。
けれど、目の前でボロボロになり
背中に雨の冷たさを背負いながら、それでも私を庇い続ける彼の大きな背中を見ていると
恐怖よりもずっと強く、温かな「光」が、私の芯で熱を帯びた。
「おじいちゃん……。私を、私自身の内側へ連れて行って」
「雲雀……?何を言う、それは自我を失うかもしれぬ、死よりも恐ろしいことだぞ……」
「わかってる。でも、界人さんを……この人を、あんな悲しい夢の中に一人でいさせたくない。私の命を代償にしてでも、私の中にいる『あやかし』を、私が私の意志で抑え込むしかないと思うの」
私は、膝をつく界人さんの、冷え切った頬にそっと手を添えた。
かつて鏡の中で見た悲劇の少女と同じように。
けれど今度は、彼に自分を殺させて終わらせるためではない。
彼と共に、光の差す場所で生きる未来を、この手で掴み取るために。
「界人さん…私、行ってくる。あなたの初恋も、内側の未練も、全部抱きしめて…終わらせて、新しく始めるために」
「待て、雲雀……!行くな、戻れ…!!」
界人さんの必死な叫びを背中に浴びながら、私は意識の焦点を内側へと、深く深く沈めていった。
精神の深淵。
すべてが静止し、赤い雪が降るその場所には
赤黒い炎に包まれ、血のような涙を流しながら、狂おしく笑う「もう一人の私」が立っていた。
『月下堂』の柱時計が、再びガチリと、重厚な金属音を響かせた。
それは破滅への終わりのカウントダウンか
それとも、新しい運命が産声を上げる瞬間の刻か。