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精神の深淵。
そこは、音も風もない、永遠に赤い雪が降り頻る底なしの闇だった。
空という概念はなく、ただただ深紅の結晶が静かに舞い落ち、足元の闇に溶けていく。
私の目の前には、全身から漆黒を帯びた業火を纏い、血の涙を流しながら狂おしく笑う「もう一人の私」が立っていた。
その容貌、その悲痛な叫び。
それは、鏡の中で見たあの悲劇の巫女、百年前の私の「絶望」そのものだった。
『無駄よ。貴女に何ができるというの? 救いを求めて差し伸べた手は、いつだって鉄の刃で無慈悲に切り落とされてきた。この憎しみこそが、血に塗れたこの想いこそが、私たちがここに生きている唯一の証なのよ!』
彼女が拒絶するように手を振るうたび、周囲の闇が爆ぜ
漆黒の炎が咆哮を上げて私を焼き焦がそうと迫る。
皮膚が焼けるような熱気と、魂を削られるような悪寒。
けれど、私は逃げなかった。
一歩踏み出すたびに足元から火花が散り
熱さに身を焼かれながらも、私は真っ直ぐに自分自身の「未練」へと歩み寄る。
「……悲しかったんだね。信じていた人に、守ると言ってくれた世界に、残酷に裏切られたことが。ずっと、痛かったんだね」
『黙れ……! 黙れ黙れ! あんたに何がわかる! 百年の孤独を、冷たい暗闇の中でただ一人、凍え続けた絶望を!あの人の刀が、私の胸を貫いた時のあの衝撃を!』
彼女の叫びが、私の胸を鋭く抉る。
そうだ。彼女は私自身なのだ。
この疼くような痛みも、満たされない渇きも、すべて私の中にあった欠片。
私は、今ようやく彼女の正体を知った。
それは帝都を滅ぼす「大あやかし」などではない。
ただ、誰かに「生きていていい」と抱きしめてほしかった。
独りぼっちで泣いていた、幼い日の私そのものだったのだ。
一方、現実の『月下堂』。
激しい雨の夜を切り裂き、数十人の陰陽師たちが店を重層的に包囲していた。
立ち並ぶ術者たちの中心、冷酷な眼差しを一切崩さない陰陽局の黒幕が、無慈悲な宣告を下す。
「反逆者、界人。そして災厄の器、雲雀。……もはやこれまでだ。この忌まわしき店ごと、跡形もなく灰にせよ」
容赦のない号令と共に、一斉に放たれた無数の霊力弾が『月下堂』を襲う。
赤レンガの壁が砕け散り、代々受け継がれてきた古い書物が火花と共に舞い散る中
界人さんは、意識を失って横たわる私を背後に庇うようにして立った。
折れかけた軍刀を杖代わりにし、血まみれの身体を無理やり奮い立たせる。
彼の身体は、すでに限界をとうに超えていた。
一歩踏み出すたびに、軍靴が踏みしめる石畳が鮮血で赤く染まっていく。
「……言ったはずだ。…ここから先は、……一歩たりとも通さないと……っ!」
界人さんは、震える手で懐から一枚の、血に染まった黒い呪符を取り出した。
それは、術者の命の根源そのものを霊力へと変換し、一時的に神域の力を顕現させる
「禁忌・命根断絶」の術式。
一度発動すれば、たとえ肉体が生き延びたとしても
魂は焼き切れ、二度と陰陽師としての力は戻らない。
「界人、貴様……正気か!? 自らの存在そのものを焼き切るつもりか!」
「……彼女を…雲雀を救えるなら、俺の命など……安いものだ。百年前の雪辱を、今、ここで果たす…っ」
界人さんの全身から、青白い、あまりに眩い霊力が噴き出した。
それは命を削る、文字通りの絶唱。
降り注ぐ弾丸の雨をすべて一閃で弾き返し、彼はただ一人で、帝都最強を誇る精鋭部隊を圧倒する。
その姿は、鬼神か、あるいは堕ちた守護神か。
けれど、その紫苑の瞳からは次第に光が失われつつあった。
代償として、彼の視界も、音も、すべての感覚が一つずつ「命」と共に消えていく。
「あと、一分……。雲雀……。頼む…どうか戻ってきてくれ……お前のいる世界へ……」
再び、精神世界。
私は、漆黒の炎に包まれ、拒絶し続ける彼女を
私自身を、真っ向から、折れそうなほど強く抱きしめた。
『っ……!? 離して!あんたまで焼かれて消えるわよ!』
「いいよ。焼かれても、痛くても。……もう、貴女を一人にはしない。貴女の抱えてきた悲しみも、百年分の未練も、全部私が連れて行く。私が、貴女の居場所になるから」
私の瞳から溢れ出した涙が、彼女の纏う黒い炎を静かに、けれど確かに鎮めていく。
漆黒の火炎は、ゆっくりと、夜明けの空のような温かな緋色に変わっていった。
それはあやかしの力でも、誰かを呪うための炎でもない。
百年前から私たちがずっと持っていた、誰かを温め、想うための純粋な「灯火」だった。
『……っ、馬鹿な器…』
『なのに、こんなに熱い…暖かい……あの人が握ってくれた手みたいに』
彼女の姿が、穏やかな光の粒子となって私の中に溶け込んでいく。
その瞬間、私の背後に、一本の巨大な秒針が現れた。
ガチリ、と重厚な音が響く。
百年間、憎しみで止まっていた時計が、ついに「正しい時」を刻み始めた。
「───界人さん!!」
私は、激しく目を見開いた。
現実の世界。
崩れ落ちる『月下堂』の瓦礫の山。
その中心で、最後の一分を戦い抜き
命の灯火を燃やし尽くそうとしている愛しい彼の背中が、そこにあった。