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目の前に広げられた膨大な資料。
全て都庁建て替えプロジェクトに関するものだ。
「やはり個人的な恨みでしょうか?」
雪丸の声に、遥の手が止まった。
「さあな、まだわからん」
不機嫌そうな社長の声。
この場にいる誰一人として遥が談合をしたとは思っていない。
馬鹿が付くくらいにまじめで正直者の遥がずるいことなんてするはずがない。
しかし、一旦出た疑惑は簡単には消えない。
「心あたりはないのか?」
ここまでするのは遥を恨んでいるからだと、社長は考えているらしい。
「ありませんね」
そりゃあ貪欲に仕事をとってきたが、恨みを買うほど悪どいことをした覚えはない。
「逆恨みってことはないのか?」
「それこそ、わかりませんよ」
逆恨みなんて理不尽に一方的に向けられる悪意、予想も回避もできない。
「最近、トラブルはなかったのか?」
それでも社長は原因を探そうとしている。
「トラブルって・・・」
「おそらく、平石グループ内部に詳しくて次長のことも知っている人間でしょう」
内部の人間ねぇ。
社内事情に詳しくて、遥を陥れたいと思うほど恨んでいる人間。
入社して一年もたたない遥には想像もできない。
「やはり部外者にしては社内事情に詳しすぎますから、会社を恨んでのことでしょうか?」
ネットに上げられた文書を睨み続ける雪丸。
雪丸の意見もわからなくはないが、平石グループは職場環境も待遇もかなり恵まれていると思っている。
会社を恨んでって言うのも考えにくいが・・・
「とにかくもう少し調べてみよう。しばらく遥は表に出るな」
「・・・わかりました」
社長の言葉に不満がないと言えばうそになる。理不尽だとも思う。
しかし、今は従うしかないだろう。
***
「着替え、ここに置きます」
「ああ」
しばらくはが報道陣がうるさいだろうと近くのホテルをとってもらったが、それでもなかなか外に出ることができない遥のために、会社の中にある社長用の仮眠室を開けてもらいひとまず荷物を置いた。
「数日すれば全容も見えてくることでしょう。それまではここに居てください」
「わかった」
ここは社長が忙しい時に仮眠をとったり、いざというときに泊まっている部屋。
重役フロアの奥深くにあって、普段は存在も知られることのない場所だ。
10畳ほどの部屋にデスクとソファー、奥にはシャワールームと小さなベット。
必要最低限のものしかない殺風景な部屋。
「食べ物は冷蔵庫にありますが、必要なものがあればいつでも呼んでください」
「ああ、ありがとう」
雪丸も、しばらくは会社に泊まり込む気だろう。
秘書の鏡のような男だから、今回の件では少なからず責任を感じているはずだ。
雪丸のためにも、平石建設を長い間守り育ててきた社長のためにも、父さんが守る平石財閥のためにもどんなことをしてもこの局面を乗り越えないといけない。
***
「これが、次長が入社してからの主な業務内容とスケジュールです」
「うん」
春に入社したばかりだからそんなに多くはない。
「それと、こちらは社外役員として関わった案件です。数年前のものからありますが、私が秘書になる前のものなので、スケジュールの詳細まではわかりません」
「ああ」
こっちは結構数があるな。
全てを見るとなると、下手したら朝までかかりそうだ。
「くれぐれも無理をせずに、ちゃんと睡眠をとってください」
心配そうに念を押す雪丸。
フッ。
「こんな時に無理をせずにいつするんだ」
たとえ倒れてでも、犯人を突き止める。
「無茶をするならおばさんを呼びますよ」
「はあ?」
母さんを呼ぶって、どれだけ子ども扱いだよ。
「それとも、小川を見張りに付けましょうか?」
「お前・・・」
ニタニタと笑っている雪丸に怒りがわいた。
「冗談を言う状況ではないはずだが?」
「上に立つ者がそんなに余裕のない顔をしたんでは、下の者はついてきません」
うっ。
嫌なことを言う奴だ。
しかし、雪丸の言うことは正論かもしれない。
「わかった。気を付けるから、お前も無理をするな」
今雪丸に倒れられたら万事休すだ。
***
雪丸が部屋を出て行き、一人になった室内。
早速パソコンを広げてネット検索をしてみる。
『平石建設』『談合』『平石遥』この3つはすでに上位検索ワードに上がってきている。
もちろんいい話は一つもなくて、誹謗中傷や尾ひれの付いた噂話ばかり。
ハッ。
呆れるくらいの悪口がいくつも並んでいる。
子供の頃から人に噂されることには慣れているつもりだ。
どこに行っても『平石財閥の坊ちゃん』と言われるし、良くも悪くも注目を浴びてきた。
「しかしなあ・・・」
目の前の画面に映し出される記事に、さすがに肩を落とす。
『金に物を言わせて取締役に収まった能無し坊々』
『平石財閥を盾に力で相手をねじ伏せ仕事をとっている』
『平石遥に逆らうことは、平石財閥を敵に回すこと。だから談合が生まれた』
本当に好きなことを言ってくれる。
しかし、知らない人間はこんな噓を信じるんだよな。
こんな記事を読むと、すべてを投げ出して逃げ出したくなる。
平石財閥から離れて普通に生きることができれば、どれだけ楽だろう。
でも、それはできない事。遥は平石を担うために生まれてきたんだから。
「重たいな」
決して誰にも言うことのない言葉をつぶやいてみる。
ピコン。
雪丸からのメール。
『明日の朝は朝食を用意して起こしにきますから、ゆっくり寝てください』
『わかった』
簡潔に返事をして、携帯の電源を切った。
今日はもう誰とも話したくはない。それでも、逃げ出しはしない。
遥が眠れない夜を過ごすように、雪丸も社長も同じくらい長い夜を過ごしていることを知っているから。だから、頑張るしかないんだ。
***
トントン。
翌朝、朝方まで仕事をして仮眠をとっていた遥はドアをノックする音で目を覚ました。
「はい」
目をこすりながら、ボサボサ頭のままドアを開ける。
「おはよう」
「ああ、おはよう」
きっと雪丸が来たんだろうと思ったら、萌夏だった。
「おにぎりと、お味噌汁を持ってきたんだけれど」
大き目のバックに入ったタッパと、水筒を広げてみせる。
「食べられそう?」
「ああ」
実家ではパン食の父さんと和食のじいさんのために、両方の食事が出てくる。
遥は朝が得意ではなくて、パンとスープとフルーツをつまむくらいしか食べなかったが、萌夏と一緒に暮らすようになってから和食を食べるようになった。
「おにぎり何がいい?梅と昆布と牛肉のしぐれ煮、あとは・・・」
「鮭がいいな」
「了解」
手際よくお味噌汁をよそい小皿におにぎりを乗せて、小さなタッパから漬物も出てきた。
「どうぞ召し上がれ」
「いただきます」
手を合わせてから、おにぎりをパクリ。
「うん、美味い」
「よかった」
嬉しそうな萌夏。
漬物も、みそ汁も安定の味だ。
ああ、遥の胃袋は完全に萌夏につかまれてしまったらしい。
「萌夏、ありがとう。これで今日も頑張れる」
「え?」
普段なら言わないような言葉に、萌夏の方が動揺している。
自分では自覚していないが、やはり少し弱っているのかもしれない。
「ごめん、らしくないな」
気合を入れる意味で、パンと自分の両頬を叩いた。
「遥・・・」
今にも涙があふれそうな萌夏。
やめろ、そんな顔をするな。
萌夏にそんな顔をされたら・・・
***
不意に、目の前の景色が揺れた。
慌てて顔をそらし視線を外そうとした遥に、
えっ。
萌夏が背後から抱きついた。
何が起きたのかわからなくて、遥は固まった。
次に、背中から伝わる温もりに萌夏の存在を認識した。
やめろ、そんなことされたら・・・
必死に腕を振り解こうとするが、不思議なことに萌夏は動かない。
「頼む、やめてくれ」
少しだけ涙声になっていた。
「いやよ、やめない」
耳元から聞こえる声はいつも通りの萌夏。
ふとした瞬間に香るのは遥と同じシャンプーと柔軟剤の匂い。
そして、萌夏から伝わる暖かさが心地良かった。
でも、この心地よさに流されてしまったらダメだ。
「萌夏、やめてくれ。俺は萌夏が思うような立派な人間じゃない。泣き虫で、弱虫で、意気地なしで、そんな自分を隠そうと必死に殻を作ってきた情けない男だ。だから、これ以上惨めにさせないでくれ」
こうやって人前で自分をさらけ出すのはいつぶりだろう。
子供の頃から家族の前だけでしか泣かなかった。
雪丸にも、礼にも、泣き顔なんて見せたことないのに。
「大丈夫、遥は大丈夫。何があっても遥は遥だから」
「萌夏」
声が震えた。
完全に油断してしまった。
いつもなら絶対にありえないのに、遥の頬に涙が一筋流れた。
「クソっ」
萌夏の前で涙を流したことが悔しくて、つい汚い言葉が出る。
「遥?」
背中から前に回ってきた萌夏がうつむいてしまった遥の両頬をそっと包み込む。
そして、ゆっくりと近づく萌夏の顔がほんの少しだけ角度を傾けて、
チュッ。
小さなリップ音。
一瞬触れただけの儚いキスだった。
***
「ごめん」
まだ鼻と鼻が触れそうなほどの至近距離で、萌夏が謝る。
「何が?」
「それは・・・」
この状況で謝るのは萌夏ではないと思う。
責められるとするならむしろ、男の方だろう。
遥はだらりと虚脱していた腕を萌夏の後頭部に回した。
「萌夏」
ただ名前だけを呼んでから、唇を重ねる。
それは、優しくもロマンティックでもないキス。
貪るように萌夏を貪食し、こじ開けた唇から中に侵入する。
「ん、ぅんん」
時折萌夏が苦しそうに声を漏らすが、遥はかまわず攻め続けた。
最初は持って行き場のない怒りの感情を吐き出しているように感じていた。
しかし何度も何度も唇を重ねるうちに、萌夏の鼓動とシンクロするような感覚におそわれた。
何も言わなくても、2人の心は重なり合っていると感じられた。
***
「ごめん」
今度は遥が謝った。
いつの間にかソファーに座り込んだ萌夏と立ち尽くす遥。
どのくらいの時間がたったのかわからないくらい、2人とも茫然自失でいた。
「私こそ、ごめんなさい」
顔を赤くした萌夏。
側にいても気兼ねがなくて、何でも言いあえて、素の自分でいられる相手。
特別な存在だとは思っていたが・・・
「今の遥は少し弱っていて、気持ちが暴走しただけだから。ちゃんとわかっているからね」
気にしなくていいのよと、萌夏が笑って見せる。
「バカ、なんでお前が謝るんだよ。大体、いくら弱っていても嫌いな女に、き、キスなんてするかっ」
怒ったように言って、恥ずかしそうに下を向いた萌夏をギュッと抱きしめた。
誰かを独り占めしたいと思ったことはなかった。
どんなことをしてでも何かを手に入れたいと思ったこともなかったと思う。
物にも人にも執着しないように生きてきた。
でも、
「誰にもやらない」
小さな声でつぶやいた。
「大丈夫だよ」
そっと遥に手を回す萌夏。
本当に、こいつは煽るのがうますぎる。