「……なんで、おまえ、こんなとこに来てんだ。馬鹿か」
来訪者を、しかめっ面で出迎える圭三郎は、
「せい叔父さんから聞いてる。今日なんだろ? 馬鹿たれが! おっまえ、空港行って最後までめそめそしろよ! んなところで油売ってる場合じゃねえだろ、馬鹿たれが!」
静かに晴子は答えた。「……朝、ちゃんと、お別れしたから……」
「どうせおまえのことだから、言いたいことの一割も言えてねんだろ! 行くぞ!」
「……ってどこへ」
「決まってるだろが!」唾を飛ばして圭三郎が叫ぶ。「――何時。何時の便で発つんだあいつは!」
「昼の便……」
「間に合う! 間に合わせるぞ! ――行くぞ!」
あら、晴子ちゃん、いらっしゃーい、と挨拶をする祖母を無視して、圭三郎は、晴子の手を掴んで、走り出した。
『さよなら智ちゃん。元気でね』
やっと目を合わせて微笑んでくれたのに、お決まりの言葉でお別れだとは。
十三年にも及ぶ恋の結末がこれだとは。呆れて声も出ない。運命の女神さまは、自分を見放したようだ。
空港まで、わざわざ、石田と虹子が見送りに来た。
時期が時期なゆえに、ひとは少ない。マスク姿が目立つ。知らないひとたちのなかに、愛するあの子が見つからないものかと、こころのどこかで、つい、期待をしてしまう。
分かっているのだ。罪を犯したおれは、許されることがないのだと。
犯した罪とともに、一生を生きていかなければならない。贖罪にまみれた、いばらの道を、あの子に歩ませてはならないのだ。そのための別離なのだから。
「じゃあ、……行くね。母さん、石田さんも、どうか、お元気で……」
「こっちはこっちで仲良くやっとくから心配しないで。智樹くんも、自分のことを大事にね」
「……分かりました」ジョークを交えた石田の台詞に、智樹は笑う。笑ったときに、頬の強張りを感じた。こころのどこかで誰かが叫んでいる。――晴ちゃんと、離れたくない……! 晴ちゃんが小学校に通いだした頃に、智樹が、先に保育園に登園することになり、智樹は泣いたものだ。あれがもう、随分昔のことに感じられる。
「それじゃあ、石田さん。母のことをよろしく。――母さんも、元気で」
「食事は一日三食きちんと食べるのよ。……着いたら電話ちょうだい」
「分かった。じゃあね」
「行ってらっしゃい……智樹」
手荷物検査場は、さほど混雑してはいないが、何事も早いほうがいいとの判断で、早め早めに行動をしている。最寄りの検査場に向かいかけた智樹の背に――
「智ちゃん!」
最愛のひとの声が降り注いだ。
南武線と京急線を乗り継ぎ、羽田空港に到着する。
脇目もふらず、ひた走る。晴子が苦しそうにしているが、そんなものは無視だ。
「速く走れるか――晴子」
「無、理……、もう限界――」
「ったく」
圭三郎は、舌打ちをすると、晴子を米俵のように、担ぎ上げた。
「っひゃあああ……っ!」
「耳元で叫ぶな」
改札を抜け、エスカレーターに向かい、ダッシュをし、段を一気に駆け上がる。周囲の目線が集まるが、そんなものは、この際、無視だ。
他人にどう思われるかよりも、自分がどう信じるかの問題なのだ。――智樹。
おれは、おまえを、許さない。
ひとりきりでなにもかもを抱え込んで。愛する晴子という存在がありながらも、孤独と自由を選ぶ、おまえのことを、許さない。
だから、せめてもの餞別を、くれてやる。
おまえが、最も喜ぶものを。何故ならば――
年少にも関わらず、このおれに堂々と張り合えた存在は、西河智樹。おまえ以外に、ないからだ。
地毛が明るいおまえの姿はすぐに見つかった。晴子を下ろし、
(――行け)
全速力で、おまえは、走り出した。愛する者のほうへと。奪われるにも関わらず、不思議とおれの胸のなかは幸福に満ちていた。おまえたちの幸せな別れを演出することが出来て、嬉しいというのが、本音だった。
「――智ちゃん!」
見れば、晴子が、すぐ傍まで来ていた。彼女はすぐに、智樹に抱きつき、
「馬鹿。馬鹿ぁっ……。どうして自分を犠牲にするのよ! ひとりで抱え込むのよぉう!」
「分かった……分かったから晴ちゃん。ちょっと離して……」
華奢な割にはバストにボリュームのあるほうで、魅惑の感触を押しつけられ、智樹は当惑してしまう。
「……晴ちゃん」
「わたし。言わないでおこうかと思ったの。でも、後悔するだろうって思って……。わたし」
呼吸を整えると晴子は、
「世界で一番、愛しているの……。智ちゃんのことを!」
言葉などもう、要らなかった。
マスク越しに、想いを、重ね合わせる。
直接味わえないのは、残念だったが。
「ここは、……次に会うときのために、取っておくよ」
唇を離すと、マスク越しに晴子の唇をなぞり、智樹は笑いかける。
「晴ちゃん……ぼくも」愛おしいそのひとの頭の輪郭を撫でる。「ぼくも、同じ気持ちなんだ。……愛している。
だからこそ、ぼくは、この道を選ぶんだ。
……ねえ、晴ちゃん。
もし、この先、他に、もっと好きになれるひとが現れたら、迷いなく、自分のこころに従って欲しい……。それが、ぼくの、願いだ。
きみのことを愛しているのは、ぼくだけではない。ぼく以外にも、きっと見つかるはずさ……」
言って智樹は、エスカレーターの傍で待つ、圭三郎に目を向けるのだが、
「どうしてそんな悲しいことを言うの……」愛おしいそのひとは、涙をこらえきれないのか。愛情を表出する、その姿に、胸を打たれる。「わたし、正直、……圭に初めて会ったそのとき、一目ぼれみたいな感覚味わったけど……でも、いまは、全然だよ……。
いまは、智ちゃんのことしか、見えない。
好きなの。世界中の誰を敵に回したって、わたし――智ちゃんが大好きなの!」
「晴ちゃん……」
「変わらないよ……わたし」涙を振り切り、愛おしいそのひとは、言い切る。「わたし、この先たぶん、いろんな経験をすると思う。もっともっと音楽を好きになって、知らないことも勉強して。知らない高校生活を満喫すると思う。……でも。
わたしのなかに生きる、あなたのことは、変わらない。
いま、ここで、誓わせて……。
あなたのことを、生涯愛しぬくと――」
「……晴ちゃん」
智樹が、ポケットから、あるものを取り出す。それは――
もっと小さかったあの頃、多摩川の川辺で四つ葉のクローバーを探していた。
探しても探しても見つからない。もどかしさに苛立ちを募らせていた。
「……てああ! もう! どうして見っからないのよぅ!」
髪をわしゃわしゃかき回す晴子が、
「こんなにいーっぱいクローバーがあるのに。どうしてどうして! 智ちゃん、いいから見つけてきてよぅ!」
道理を知らぬ年頃の晴子が、無茶を言う。
「無茶言うなよ」と年に似合わぬ冷静さで智樹が答え、「そもそも、……こんなだだっ広いなかで四つ葉のクローバーを探し当てるなんて、奇跡みたいな確率だよ。無理だぜ」
ところが、いま、智樹の手のひらのなかに収まっているのは――
「本物じゃなくて、ごめん」シルバーの四つ葉のクローバーのネックレスを見せる智樹が、「でも、……おれのなかで、晴ちゃんの想いは、本物だから……」
そっと持ち上げ、晴子の首の後ろに手を回し、ネックレスをつけてやる。
晴子の胸元で、智樹の正統なる愛を証明するかのように、ネックレスが光っていた。
「――智ちゃん!」
こみ上げるものを抑えるつもりなどなかった。
大きく、大きく、泣いた。――けれど。
この別れは、悲しい性質のものでは、ないのだから。新しい愛が始まった――その奇跡が色づく瞬間を、目の当たりにしているのだ。
だから、晴子は、笑顔を向けた。マスクを外し、
「じゃあね……智ちゃん。待ってる……」
言って踵を浮かせ、彼の頬に口づけた。
彼の近くで、ちょっと晴子は、笑った。「次は、外さないから……」
「――ん」
歩き出すと、見守る圭三郎に目を向け、「サンキュ。圭三郎……」
「年下のくせに呼び捨てたぁ生意気な」偉そうに、腕組みをする圭三郎が、「おまえ……こっちでの監視役は、任せとけ。後で、晴子経由で、LINE、送れ。それから智樹――」
なぁに、と足を止める智樹に、
「晴子を不幸せにしたらおまえ……タダで済むと思うな!」
絶叫する圭三郎を見て、一同が、笑った。晴子も、すこし距離を置いて見守る石田も、虹子も……智樹の大切なひとたちが。
彼の旅立ちは、喜びに満ち溢れた、まばゆいものとなった。
「じゃあね……みんな。ありがとう」
命の息吹を感じながら、智樹は、自分を待ち受ける新しい世界へと飛び込んだ。
* * *
「やっぱ空港まで出迎えたかったわよねえ」
それから五年後の春を迎えた。
世間を騒がせたコロナウィルスは一旦の収束を迎えたものの、リーマンショック以来となる、経済的打撃を、世界各地に与えた。以降は、インフルエンザのように、定期的に流行している。よってマスクは常に品切れだ。
はたきを持って、智樹の部屋の掃除をする虹子が、「せぇっかく五年ぶりの再会なのに……。あの子、ぜぇんぜん帰ってこないんだもの……。まったく」
「好きな子の前では常に、格好つけたい性別なんだよ……男は」
虹子の肩に手を回し、口づける石田は、
「今頃晴ちゃんも、こういうことしてるかもねえ」
「――やだ、もう……」
背後から抱き締め、味わうこのぬくもりを、生涯手放したくないと石田は感じた。
「そろそろ帰ってきてる頃かしらねえ。……智樹くん」
なんでも、この祖母は、愛する晴子の最愛のひとが、いままで一度も『葉桜』に顔を出していないことを、根に持っているらしい。
「じゃねーの。うん」
腰を屈め、ショーケースのガラスを磨く圭三郎に、朝江が、
「ちょっと圭ちゃんここ! 汚れてる!」
「はいはい分かりましたよー朝江ばーちゃん」
「ばーちゃんじゃない! 朝江さんと呼びなさい!」
「落ち着いたら智樹くんも、ここに顔を出してくれるだろうから、そう、すねないの。朝江さん……」奥から顔を出す、圭三郎の父親の泰隆が、「終わったらみんなでお昼にしようか。みんなも、そろそろお腹が空いた頃だろう?」
圭三郎は時計を見た。まだ、朝の十時半だ。なにを言っているのだろう、この父親は、とは思ったが、言葉には出さずにおいた。圭三郎にだって、誰かの好意に、むちゃくちゃにあまえたい日が、あるのだ。
ひとり、いまかいまかと、愛するひとの到着を待っている。
羽田空港の到着ロビーは、ひとでごった返している。皆、それぞれに想いを抱え、懸命にいまを、生きている。
髪は、伸ばした。整える程度で、ずっと伸ばしておいた。会ったときに、『伸びたね』なんて……あのあまやかな声で言って欲しいから。
ガラスの向こうに、スーツケースを引く、そのひとの姿が現れた。
晴子の、胸は、高鳴る。――なんだか、背も伸びて、少年らしさが消えうせて、すっかり大人の男のひとに生まれ変わっていた。髪はやや短く、精悍さを感じさせる。
自動ドアを抜け、晴子の姿を見つけると、まっすぐにそのひとは近づき、やがて、晴子の正面に立った。
「……久しぶりだね。晴ちゃん」心底嬉しそうに目を細める。――そう、ずっとずっと晴子は、その顔が見たかった。
「おかえりなさい。智ちゃん……」
「ただいま」
晴子の首元で、あの日与えられた愛が、光っていた。
どちらからともなく、抱き締め合った。もう――離れることなどない。ずっと、一緒にいよう……。
誓いあった恋人同士の胸のなかには、誰にも渡したくなどない、唯一無二の感情が、輝いていた。
―本編・完―
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