テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
オムツミルク
1,198
76
ももかるぴす
150
ホテルの廊下は静かで、よく冷えていた。
ライブのあとは決まってこうだ。
拍手も歓声も、照明や向けられるペンライトの光の洪水も、耳や目に焼き付いていて、会場に置いてきたはずの熱だけがまだ体の芯に残っている。
それなのに廊下は、しん、という音が聞こえそうなくらい静かで、急に現実に引き戻されてそのギャップにいつまで経っても慣れない。
スタッフからカードキーを受け取って、記された部屋の前まで来ると、穏やかな、聞き慣れた声がふわりと耳を撫でる。
「はやちゃん」
呼ばれて顔を上げると、数歩先の左隣の部屋のドアの前に柔太朗がいた。
「部屋、隣だね」
「……おお」
持て余していた熱がやわらいでいくのを感じながら、自然と口の端が持ち上がる。
「ごめんな」
「ん?何が?」
「俺だけ明日朝早いからさ、アラームうるさいかも」
「全然へーき。何時なの?朝イチで戻って撮影直行だっけ」
「そう。6時前かな…もし起きなさそうだったらさ、悪いんだけど起こして」
「起こしませんよー」
「えー」
「はやちゃん、寝坊しないじゃん」
優しい唇の形をして、柔太朗はぽつりと言う。
「いつもありがとうね」
柔太朗はいつもそう、ほしい言葉を、しんどいタイミングでそっと差し出してくれる。
その笑い方はテレビで見るよりずっと静かで、けれど近くで見ると不思議なくらい安心する。
「おやすみ、柔太朗」
「ん、おやすみ。明日頑張ってね」
カードキーを差し込みながらふと、視線を再度左に遣る。
もう柔太朗はいなかった。
ドアだけが、微かな音を立てて閉まるところだった。
――最近、よく名前を呼ばれる。
いや、昔から呼ばれてはいた。
最初は苗字だった。
「佐野さん」
敬語で、きっちり距離を測るような呼び方。あれがどうにもくすぐったくて、
「敬語やめて」
と言ったのは自分だった。同じメンバーのグループとしては、さん付けではあまりに遠くて、嫌だった。
呼び捨ては無理ですと、へにゃりと眉尻を下げて困った顔をしていたことも覚えている。
それから少しずつ、「勇斗くん」になって、敬語も解けていった、ある日。
「……はやちゃん」
恐る恐る呼ばれた。
それが妙にうれしかったことは、誰にも言っていない。
言えるわけがない。
グループの最年長が、四つも年下のメンバーに呼び方を変えられただけで一日中機嫌がいいなんて、まるで子どもみたいだ。
ホテルの、やけに固いベッドにごろりと寝転がって、そんなことをぼんやり思い出していたら、スマホが震えた。
メンバーだけのグループチャットに、舜太からメッセージが入っていた。
『軽く打ち上げしよ!俺の部屋集合!』
コメント
1件
読み終えました。ホテルの廊下の静けさと、ライブの熱のギャップ、すごく情緒があって好きです。「はやちゃん」って呼ばせた勇斗さんの気持ち、ちょっと切なくて…名前の変化って距離感そのものだなって思いました。柔太朗さんの「いつもありがとうね」、優しすぎて胸がぎゅっとなりました🌙