テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
おまる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
冷たい雨が、容赦なく肩を濡らす。
正面玄関を避け、裏口から足早に夜道へ飛び出した私は、自分の判断をすぐに後悔した。
街灯が瞬き、人影のない路地裏。
水溜まりを叩く自分の靴音だけが、異様に大きく響く。
(あと、十分……あと少しで、家に着く……)
背後に気配を感じたのは、家まであと数百メートルの公園横だった。
ぬちゃり、と重い足音が近づいてくる。
振り返る勇気も出ず、私は逃げるように足を進めた。
「───逃げられると思ってんの?凛」
低く、湿り気を帯びた声。
その瞬間、私の身体は蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
暗がりから現れたのは、かつて私のすべてを破壊したDV男、宏太だった。
「……宏太。あんたが、なんでここに…っ、!や、やっぱりあれも全部あんたのせいなんでしょ…!」
「ははっ、冷たいねぇ。あんな掲示板一つで、必死に築いたキャリアもガタガタだろ? お前には、俺しかいないんだよ」
宏太の手元で、何かが鈍く光った。
────ナイフ。
細い雨足に濡れた刃先が、街灯の光を反射して怪しく光る。
「……っ!」
足が竦んで動かない。
恐怖で呼吸が浅くなる中、宏太は笑みを貼りつけて「また俺のサンドバッグにしてやってもいいんだけど?」と囁いた。
「……冗談じゃないわ!あ、あんたなんかすぐ…通報してやるんだから…っ」
咄嗟に周囲を見回した。
近くには誰もいない。助けを呼べない。
けれどこのまま黙って刺されるわけにはいかない。
しかし、叫ぼうとした喉は恐怖で引き攣り、声にならない。
「いいからさっさと戻ってこいって言ってんだっ!!!」
宏太がナイフを振り上げ、私へと一歩踏み出した、そのとき
「——そこまでだ」
背後から、疾風のような速さで何かが飛び込んできた。
宏太の腕を掴み、鮮やかな手捌きでその巨体を地面に叩き伏せる。
「あぎゃっ……!?」
呻き声を上げる宏太を、鋭い関節技で押さえつけたのは
雨に濡れ、怒りで瞳を燃え立たせた高瀬君だった。
「高瀬、君……?ど、して……」
「……正面で待ってたけど、あんたが裏から出るのはお見通しだったんですよ。家の近くまで、ずっとついてきて正解だった」
高瀬君の声は、いつもの甘い「ワンコ」のものではなかった。
冷徹で、獲物を逃さない狩人のような、低いトーン。
彼は宏太が落としたナイフを遠くへ蹴り飛ばすと
片手で警察へ通報しながら、もう片方の手で私の震える肩を抱き寄せた。
「……もう、大丈夫ですよ、凛さん。立てそう、ですか…?」
その呼び声を聞いた瞬間、私の膝から、すべての力が抜け落ちた。
コンクリートの冷たさを感じる前に
高瀬君の逞しい腕が私の身体を掬い上げる。
「……あ、あ、…がと……。たす…っ、かっ、た……っ」
言葉がまともに紡げない。
あんなに強がって、彼を遠ざけてきたのに。
私は子供のように、彼の濡れたシャツに顔を埋めて
生まれて初めて「他人」の前で泣いた。
「……だから言ったじゃないすか…危ないって」
雨の中、私を抱きかかえる高瀬君の体温だけが、唯一の現実だった。
警察のサイレンが遠くから聞こえる中
私の「鉄の仮面」は、音を立てて崩れ落ちていった。