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夕方の昇降口は、ほとんど人気がなかった。下駄箱のあたりに陽が差し込んで、埃が浮かんでいた。
蓮司が壁にもたれかかって、先に待っていた。
「──ねえ、ちょっとだけいい?」
いつもの調子だった。軽くて、穏やかで、妙に無害に見える。
遥はほんの一瞬だけ足を止めて、すぐにまた歩き出しかける。
「……ちょっとだけ。ほんとに」
そう繰り返されて、歩みが止まる。
蓮司は微笑んで、声を落とした。
「おまえさ……あのままじゃ、日下部、わりと本気でヤバいよ?」
遥の指先がわずかに反応した。何も言わない。
蓮司は、笑ったまま言葉を続ける。
「だから、取引しない?」
「──おまえが、ちゃんと言うこと聞いてくれるなら。俺、あいつのことにはもう手出さないよ」
時間が止まったようだった。
足元の影が伸びる。遠くで自転車のブレーキ音がした。
「……本気で?」
遥の声は小さかった。
喉を通るとき、何かが引っかかっているような、ひりつく声だった。
蓮司は首を傾げる。
「うん、本気。俺、意外とそういうとこフェアだから」
「ちゃんと役割果たしてくれるなら、それなりに扱うし──他の人には手ぇ出さない」
「……それって」
「別に難しいことじゃないよ」
蓮司はそう言って、少し笑った。
何かを試すような目で、遥を見つめたまま。
「おまえ、もともと得意だろ? 誰かのために、黙って我慢すんの」
遥は、下を向いたままだった。
だけど、その肩がごくわずかに動いたのを、蓮司は見逃さなかった。
「今夜。あそこ。……来れるよね?」
しばらく、返事はなかった。
けれど蓮司はそれ以上何も言わず、にこりと笑って立ち去った。
遥はその場に立ち尽くしていた。
しばらくして、やっと小さくうなずいた。
誰も見ていない、陽の落ちかけた昇降口で。
(……俺が行けば、日下部は守れる)
(誰かが巻き込まれるくらいなら、俺ひとりで済ませればいい)
(それしかできない)
(それしか、してこなかった)
遥の様子が、また少し変わった気がした。
いや、正確には“戻った”のかもしれない。
何も言わない。何も表に出さない。
でも、それが逆に不自然だった。
(また黙って……ひとりで、何かを)
気づきかけている。でも言葉にできない。
問いただす資格が、自分にあるのかも分からない。
(──なんで、俺の前ではそうするんだよ)
歯がゆさだけが、胸の奥に残る。
遥は、今日も普通の顔をしていた。
ただ、目だけが少しだけ、濁って見えた。