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実際、|杏子《あんず》の携帯番号なんて大葉は知らないし、もしかしたら渡されていた資料――釣書――には書いてあったのかもしれないけれど、中を確認していないのだからそれすら不明だ。 恵介伯父に聞けば、杏子の連絡先なんてすぐに分かるだろうが、そこまでする義理はない。
「変なメッセージをしてきたのは岳斗の方だろ? だからそっちに聞くよ」
何気なくそう付け加えたら、「あの……、大葉」と|羽理《うり》がそっと大葉の太ももに触れてくるから。その小さな手指の感触に大葉はドキドキと胸を跳ねさせた。だが、それと同時――。
「いつの間に倍相課長と、下の名で呼び合うような仲良しさんになられたんですか?」
羽理から、至極ごもっともな質問が投げ掛けられた。
***
昨夜、自分がほんの少し席を外している間に何かがあったらしく、倍相課長が大葉の呼び方を〝屋久蓑部長〟から〝大葉さん〟に改めていて、やたらと大葉に懐いている様子だった。
それがどことなく恋情に見えて、羽理はソワソワしたのだ。
でも大葉の方は『何をバカなことを』と羽理の懸念を一蹴していたし、そんな風に大葉がなびかないならば、例え羽理の予想が当たっていたとしても倍相課長の片想いにしかならない。
現に夕べ、大葉は羽理のことを宝物みたいに大切に大切に扱ってくれたし、それこそ足腰立たなくなるくらい夢中になって愛してく……ゴニョゴニョ……。
(なのにっ! 何でまたちょっと私が目を離してる隙に、大葉の方からも歩み寄っていますかねっ!?)
そう思ってしまった。
だが、つい今し方大葉に見せてもらった倍相課長からのメッセージは、新たな恋を見つけたみたいな文面だったのを思い出して――。
(大丈夫だよね?)
コロコロと忙しなく移り変わる思考回路の波の中で、羽理は一生懸命自分に何の問題もないはずだと言い聞かせたのだけれど、どうしても不安が拭えなかった。
それで結局、超絶ストレートに大葉へ疑問を投げ掛けてみたわけだ。
「あー、実は今日な、会社で倍相岳斗の抱えてきたモン、色々聞かせてもらったんだ。俺のことを信用して肚割ってくれたアイツに、俺もちゃんと応えてやりたいって思ったんだよ。――呼び名の変更は、……まぁその証だ」
理由を聞いたら、何だか余計にモヤモヤしてしまった羽理である。
「それは……ひょっとして倍相課長に愛情が芽生えたってことです、か?」
大葉の太ももへ触れた手指にギュッと力を込めて握りしめたら、「はぁっ!? 何でそうなる!」と素っ頓狂な声を上げられて、羽理はビクッと身体を跳ねさせた。
「んなわけねぇだろ! 俺も岳斗も恋愛対象は女性だぞ? ……ほら、その……まぁ、アレだ。詳しいことは俺の口からは勝手にゃ言えねぇけど、……断じてそんなんじゃねぇから! そこだけは信じろ」
そんな風に言われて、ハンドルを握ったままの大葉から、空いていた左手で彼の太もも上の握りこぶしをそっと包み込まれた羽理は、それでも不安をぬぐい切れなくて身体をギュッと固くする。
「俺があいつに感じてるのは……えっと……あれだ! 単なる友の絆ってやつ! ――なぁ羽理。さっきも言っただろ? 俺が男として愛情を注ぎたいのも、思い切り愛したいのも……心の底から抱きたい、欲しいって思えるのも、お前だけだ」
そのまま持ち上げられた手の甲へチュッと口付けられた羽理は、「いい加減分かれよ」と艶のあるバリトンボイスで懇願されて、身体がブワリと熱を持った。
「大葉……」
身体の芯が疼くような劣情を追い払いたいみたいに吐息へ乗せてつぶやいた愛しい人の名が、トロンと蕩けてしまったのは仕方がないだろう。
***
どうやら羽理の嫉妬の対象は、異性だけに留まらないのだと知って、大葉は不謹慎にも口の端が緩むのを止められなかった。
運転中じゃなかったら、可愛い顔をして不安がる羽理のことを腕の中へ抱き締めて、思う存分自分がどれだけ羽理のことだけを愛しているのか身体で教えてやれたのに!
そう思って吐息を落としてから、大葉は今更ながらふと名案を思い付いた。
(それすんの、別にマンションに着いてからでも遅くないよな?)
岳斗に、送られてきたメッセージの詳細を聞いてから、思う存分――。
そこでちらりと横目でぽわんとした羽理の色っぽい横顔を盗み見したら、期せずして彼女のひざの上に鎮座した愛犬のキュウリと視線がかち合ってしまった。
『パパしゃん、しゃてはイケナイことを考えてましゅね?』
キュウリの潤んだ黒瞳に対向車のヘッドライトが当たって、曇りなきつぶらな瞳がキラリと光る。
その煌めきさえ、『あたちはお父しゃの考えてること、丸っとお見通しでしゅよ!?』と確信を持たれているように思えて、大葉は慌てて視線を前方へ戻した。
そうしておいて心のなか。大葉は『さすがに今夜は無理させるつもりはありまちぇんからね? どうか目をつぶってて下しゃい、ウリちゃん!』と懸命に言い訳をした。
***
「今日は本当に有難うございました。久しぶりに誰かとお夕飯を食べた気がします」
「それはこちらこそだよ。杏子ちゃん、今日は僕のワガママに付き合ってくれて有難う」
岳斗としては、もう少し格式ばった場所で杏子にディナーをご馳走したかった。だが、最初からそんな風に気合を入れたら逃げられてしまいそうな気配を杏子が全身から漂わせていたから。傷心の杏子が、デートだと意識しないで誘いに乗ることが出来るファミリーレストランでの食事を提案したのだ。それは岳斗なりの計算であり、賭けでもあった。
最初のうちこそ、そんな気安い感じの場への誘いでさえ固辞しまくりの杏子だったのだけれど、岳斗がしゅんとした様子で、「実は僕も失恋したばかりなんだ。……一人でいると色々考えちゃうから、お願い……」と眉根を寄せたら、やっとOKしてくれて。
岳斗が思った通り、美住杏子と言う女性は、自分の痛みよりも他者の痛みに寄り添おうとするところがあるらしい。
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