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……ピーピーピ……
携帯の目覚ましの音が聞こえ、慌てて手を伸ばすとアラームを止めた。
そっと隣の桐生さんを見ると、相変わらず死んだ様に眠っている。昨夜はよく見えなくて気付かなかったが、朝の日の光の中でよく見ると、その綺麗な顔の目元には大きなクマが出来ている。
ここ数ヶ月夜遅くまで仕事をしているからだとは思うが、さすがにここまで彼が疲れているのを見ると、彼の健康状態や精神状態がかなり心配になってくる。
私は彼を起こさない様にそっと起き上がると、足音を忍ばせてバスルームへと向かった。鏡を見る前から覚悟していたものの、私の首や胸元には何かの病気かと思うほど鬱血痕が散りばめられている。
確か黒のハイネックのセーターがあったなと思い、今日はそれにロングスカートを着て会社に行こうと考えながらシャワーを浴びる。そしてその後身支度を整えると桐生さんに朝ごはんを用意する事にした。
今朝は二日酔いかもしれないがとにかく何か栄養のあるものをと思い、二日酔いでも食べやすいお味噌汁や梅干しおにぎり、トマトを使ったおかず、それにフルーツもいくつか切ってラップをかけた。
会社へ行く準備が整いもう一度寝室を覗くと、桐生さんは相変わらず熟睡している。そっと足音を忍ばせ彼の側に来ると疲れた顔をじっと見つめた。
自分のことばかりで彼の事を全く考えてなかった事に後悔が押し寄せる。もう少し注意して見ていたらもっと早くに気付いたはずだ。彼が毎日結城さんと過ごしていることよりも、彼のこんな姿を見ることの方が何倍も辛い。私は彼の顔をそっと撫でると会社へ向かった。
オフィスで桐生さん宛の郵便物を処理しながら、彼にどうやって話しを切り出そうかと考えた。
桐生さんが何を隠しているのか、または何を私に伝えたがっているのか分からない。でも今の私達はこのままだと駄目になってしまう。この現状を打開するためには話し合いをするしかないと思う。結局の所、私も桐生さんも恋人とはいえ元は他人だ。何も言わなければお互い何も分からない。お互いが不安になるだけだ。
お昼を少し過ぎた頃、五十嵐さんから頼まれた会議用の書類を作成していると、桐生さんが会社に出勤してきた。相変わらず顔色がよくないものの、それでもよく寝たのか昨夜と比べると少しスッキリした顔をしている。
彼が社長室に入っていくのを見届けると、私は急いで今朝出勤途中に買った二日酔いの薬や栄養剤、スポーツドリンクと一応コーヒーを持って社長室を訪れた。
「桐生さん、具合どうですか?これ一応二日酔いの薬です。それと水分を沢山取ってください」
そう言いながら、彼の前に栄養剤やドリンクなどさまざまなアイテムを置いた。しかし彼はそれらには見向きもしないで、私に手を伸ばした。
「蒼、おいで……」
私はデスクをまわり、彼の側に立つと差し出された手を取った。
「……昨日は手荒くして悪かった。……大丈夫か……?」
彼は二日酔いの少し掠れた低い声でそう言うと、空いてる方の手を伸ばし私の頬をそっと撫でた。
「大丈夫です……」
昨夜何度も愛していると言われながら抱かれた事を思い出し、思わず頬を赤くした。彼は一体どこまで昨日のことを覚えているのだろうか……。
桐生さんは私の手を強く握りしめると、しばし黙ったまま私の手を見つめた。そして意を決した様に顔を上げ私を見た。
「蒼……相談したい……と言うか聞いて欲しい話がある」
「私も桐生さんに話したいことがあります」
力強く同意する様に言うと、彼は震える吐息を漏らし私の手をもう一度強く握りしめた。いつも自信に満ちた彼の瞳は緊張なのか不安げに揺れている。
「わかった……。今夜どうしても外せない接待があるが、それが終わったら必ず早く家に帰る。その時ちゃんと話し合おう」
彼はそう言うとそっと私の手を離した。
その後、桐生さんは半日八神さんと打ち合わせをしたり溜まっていた仕事を片付けて、夕方「行ってくる」と私を見た後、会社を出た。私はそんな彼の後ろ姿をじっと見つめた。私達は本当にこれを無事乗り越える事が出来るのだろうか……。
そんな事を考えていると、久我さんが私のデスクにやって来た。
「七瀬さん、今度八神副社長の接待に使おうと思ってるレストランの下見に行こうと思ってるんだけど、今から一緒に来ない?」
「……えっ、今からですか?」
時計を見ると、就業時間が丁度終わったところで、秘書室には私と久我さんしかいない。五十嵐さんと八神さんは出先からまだ帰っておらず、今日は金曜日なのでおそらくそのまま直帰だろう。
「私、今日はちょっと用事があって……」
桐生さんとの事があり、早く家に帰って彼を待ちたい私は、久我さんの誘いを断ろうとした。
「七瀬さんの帰宅路線沿いにあるんだ。今度の接待は女性も何人かいるから女性の意見も聞きたいし……。お願いできないかな?」
そう言って久我さんは頭を下げた。
── ああ、もうどうしよう……。
正直な話、今は桐生さんの事で頭がいっぱいで八神さんの接待の場所など考える余裕さえない。しかし悲しい事に私はいつも「NO」と強く言う事ができない。特にそれが仕事に関連していれば尚更だ。
「……わかりました……。レストランをただ見に行くだけですよね……?」
私は一応念を押した。
「そう。レストランの下見だけ」
彼はいかにも無害そうにニコリと微笑んだ。
「あの、今日はバイクじゃないですよね……?」
「今日は電車」
私は大きな溜息をぐっと飲み込んだ。
「わかりました。では今すぐ行きましょう」
私は荷物をまとめると、久我さんと一緒に会社を出た。彼は終始ご機嫌で、ニコニコと雑談をしながら時折鼻歌を歌っている。以前久我さんが私をバイクに乗せた時も鼻歌を歌っていたのを思い出し、彼を訝しげに見た。
……本当に大丈夫だろうか……?
不安を抱えながらも、久我さんと一緒に目的のフレンチレストランに着く。私は中に入るとざっと店内を見回した。
店内はとてもモダンでおしゃれなデザインになっていて、大きなガラス張りの窓からは外の景色が一望できる。今は夜なので店内は少し落ち着いた薄暗さはあるものの、夜景が綺麗に見えていて、日中はおそらく日の光が差し込んで明るいに違いない。
「とてもいい雰囲気でいいと思います。個室で行う接待よりも、女性と一緒ならこういうオープンなおしゃれな感じの場所がいいと思います」
そう適当に言ってさっさと帰ろうとすると、お店のスタッフがやってきた。
「2名様ですか?ご予約はされていますか?」
「はい。七時に予約している久我です」
── ……はい……?
私は目を見開いて久我さんを見た。
「私、レストランを“ただ”見るだけですよね、って聞きましたよね?」
「そんな食べてみないと接待に相応しいかわからないだろ?」
「でも私早く帰らないと──…」
「わかってる。でも少しでもいいから食べて帰れ。そんな不健康そうな顔して最近ちゃんと食べて寝てるのか?」
久我さんは私の顔を覗き込んだ。
「ずっと落ち込んでて見てるのも辛かったよ。とにかく前菜だけでもいいから食べて」
久我さんは私の頭をまるで子供の様によしよしと撫でた。そして私に店員の後に続く様にとジェスチャーをした。私は大きくため息をつきながら、案内されるテーブルへと歩いた。
「一体最近どうしたんだ?なんか悩みでもあるのか?」
久我さんは向かいに座りながら、私を気遣うように見た。その質問には黙ったままで、とりあえず話題を変えようとした。
「久我さんは秘書の仕事好きですか?そのうち秘書検定一級を取ろうとか考えてますか?」
昨夜結城さんから気を紛らわす為に、ズンバにするか秘書検定を勉強するか考えていた事を急に思い出した。
「そうだな……。秘書は好きと言うか今は会社がどの様に経営されているのか勉強してる感じかな。こうして秘書として重役の下で働いた経験を生かして、いつか自分の会社を経営したいんだ」
そう恥ずかしそうに|含羞む《はにか》久我さんを、少し驚いたように見た。まさか彼がそんな事を考えているとは思いもしなかった。
「でも会社を経営するってすごく大変な事ですよね……」
私は今朝の疲れ切った桐生さんを思い浮かべた。
「確かにそうかもしれないけど、人生何事もチャレンジだろ。やってみなきゃわからない」
そう言って楽しそうに笑う久我さんを何となく桐生さんに似ているなと思ってしまう。
私達のテーブルからパーティションで区切られ見えない位置にあるテーブルに、ビジネスマンらしき人が何人か連れ立って座る気配がした。
私はとりあえず久我さんとの会話を少し中断し、メニューを見る事にする。
パーティションの向こう側では数名の男性が談笑していて、時折女性の笑い声も聞こえる。何となくその女性の声に聞き覚えがあり注意しながら聞いていると、空耳か「桐生さん」と言う声も聞こえる。
思わずメニューから顔を上げると、パーティションの向こう側に全神経を集中させた。