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「桐生さんもこれで安心ですね。息子さん二人が後を継がれるので」
「長男の海斗には国内を、ここにいる次男の颯人には来年より海外を任せるつもりです」
誰かとても貫禄のある声の持ち主が話しているのが微かに聞こえてくる。
「ここにいる結城が今後颯人をサポートしていく予定です。彼女は大晴グループ結城名誉会長のお孫さんでとても優秀な女性です」
私は一気に体の芯まで凍りつくのを感じた。なんという偶然だろう。桐生さんの接待がこのレストランであったなんて……。
まるでドラマのようだと思うものの、何と言ってもこの近辺で大きな接待ができるレストランという限られた場所にいる。これは偶然というよりも確率の問題なのかもしれない。
「あの結城名誉会長の……!」
男性から驚いたような声が聞こえ、その後バックグラウンドに流れている音楽に話し声がかき消されるものの、何か話したり笑ったりする声が聞こえてくる。
「……ではいずれお兄さんがお父さんの跡を継がれるんですね。確かもう一人のお兄さんは今アナウンサーとして活躍されてますよね。いつもテレビで拝見していますよ」
「ありがとうございます」
結城さんの鈴の音のような美しい笑い声が聞こえる。その後また色々と男性の話す声が聞こえ、それと共に時折桐生さんの声も聞こえる。私はとにかく落ち着こうと震える手で水の入ったグラスに手を伸ばした。
「……そうなんです。彼女もとても素晴らしい女性でして、今後颯人の公私ともに力になってもらおうと思っています」
先ほどの貫禄ある声の持ち主がそう言うのが聞こえた。それを聞いた私は思わず手にしていたグラスを滑らせてしまい、床に派手な音を立てて割れてしまった。
「ごめんなさい!」
慌てて席を立つと、片付けようと咄嗟に屈んで割れたガラスの破片に手を伸ばした。
「七瀬さん、触ったらダメだ!今お店の人に片付けてもらうから」
久我さんは立ち上がると慌てて私の腕を掴んだ。
「ごめんなさい……本当にごめんなさい……」
レストランの客がジロジロと見る中、私は久我さんとガラスの破片を片付けに来たお店の人に何度も謝った。
「大丈夫……大丈夫だから……」
久我さんはそう言いながら私の肩を抱き寄せた。
「蒼……?」
声が聞こえて私と久我さんは後ろを振り返った。そこには驚いた顔をした桐生さんがいる。久我さんが私の肩を抱いているのを見て一瞬顔を強張らせたものの、突然青ざめながら慌てて駆け寄ってきた。
「手から血が出てる……」
「え……?」
そう言われて自分の手を見るとポタポタと血が床に滴り落ちている。びっくりして思わず手を庇うように握りしめた。
「……久我……お前は一体何やってるんだ!」
桐生さんは低い声で唸る様に言うと、ドンっと久我さんを突き飛ばし私を抱き寄せた。そして私達が座っていたテーブルからナプキンを奪い取ると私の怪我をしている手に巻きつけた。
桐生さんは今まで見た事がないほど怒っていて、今にも久我さんに飛びかかりそうな勢いだ。私は焦って桐生さんを止めた。
「待って!違うんです!私が不注意でグラスを落としてしまって……。久我さんは触るなって止めてくれたんですけど私が勝手に拾おうとしたんです!」
桐生さんと久我さんはお互い睨み合っていて場は修羅場と化していく。
「見せてみろ」
桐生さんは久我さんから目を離すと、充てがっていたナプキンをそっと取りのぞき私の指を見た。
「大丈夫……そんなに深くは切ってないと思う……」
自分の指を見るものの、頭の中がぐちゃぐちゃで痛みすら感じない。
「大丈夫か?」
桐生さんは心配そうに私を覗き込んだ。すると後ろから結城さんがやって来た。
「ちょっと颯人、何やってるの!?」
彼は結城さんには見向きもせず、私の指を見ながら湧き出る血を必死に止めようとしている。そんな桐生さんに苛立ってか、結城さんは私を押し退けると彼の腕に手を置いた。
「そんなことしてる場合じゃないでしょう?早く戻って!」
桐生さんは久我さんへの怒りをそのまま結城さんにも向けそうな勢いで、私は慌てて言った。
「桐生さん、私は大丈夫だから……」
そんな私達を側で見ていた久我さんはハッと呆れた様に笑うと、桐生さんを真っ直ぐに見据えた。
「七瀬さんの怪我は俺が責任を持って手当しますからどうぞ彼女と一緒に行ってください。……七瀬さん、行こう」
そして私は久我さんに、桐生さんは結城さんにまるで引き裂かれるように引っ張られながらその場を別れた。
レストランを出ると、久我さんは薬局に寄って絆創膏などを買って私の傷の手当をした。
「ご迷惑をおかけして本当にごめんなさい」
久我さんが指に絆創膏を何枚も貼るのを見ながら謝った。
「結構深く切ってるから明日一度医者に診てもらったほうがいい」
彼はため息をつくと私を見た。
「お腹空いただろ。何処か寄って食べよう」
「本当にごめんなさい。久我さんお腹減ってますよね……。でも私、家に帰ります。私には構わないでどうぞ食べに行ってください。今日は本当に申し訳ありませんでした」
とにかく疲れてて今は一刻も早く家に帰りたい。
私は一人駅に向かって歩き出した。そんな私を見た久我さんは、溜息をつくと私の後に続いた。
電車の中でレストランで聞いた話をいろいろと思い返した。
はっきり言って驚きはしなかった。桐生さんが私になかなか言えなかった事……。ここ数ヶ月の行動を見ていてお父さんの事業を継ぐのではないかとずっと思っていた。ただし実際に聞くとショックが大きい。
彼は今の会社を辞めて本格的にお父さんの会社で働く。しかもこれからは私ではなく、結城さんが彼の秘書として毎日彼の側にいて彼の世話をする。彼はますます私の手の届かない所に行ってしまう……。
これは本当にズンバに通うべきだろうか?毎日通って終いにはインストラクターの資格まで取ってしまいそうだ。
あの貫禄のある声の主は桐生さんのお父さんだろう。彼は結城さんがこれから桐生さんの公私ともにサポートすると言っていた。一体どういう意味なのだろうか……。
駅に着くと、ぼんやりとレストランで聞いた会話を思い出しながらトボトボと桐生さんのマンションに向かって歩き出した。するといつの間に追ってきたのか久我さんが私を呼び止めた。
「あいつの家に帰るのか?」
久我さんが何の話をしてるのか一瞬分からず疑問符を浮かべながら彼を振り返った。
「七瀬さんが付き合ってる男って桐生社長だろ。入社初日からずっと知ってたよ。あれだけ牽制されれば誰でも気付くって」
久我さんは乾いた笑いを漏らした。
「ああいう男は苦労するぞ。金持ちで女にモテて、しかも上流階級で俺たちとは生き方も考え方も違う。七瀬さんだって今日見ただろ?ああいう男は結局は名門のお嬢様と結婚するんだ。恐らく家族も同じ上流階級の人間しか認めない。悪い事は言わない。あいつはやめとけ」
久我さんは私の腕を掴むと、私の視線をゆっくりと彼の方に向けた。
「最近ずっと落ち込んでて、悩んでる七瀬さんを黙って見てるのが辛かった。あいつは君を幸せには出来ない」
久我さんは私の目をまっすぐに見た。
「こんな時に言うのは卑怯だとわかってる。でも彼氏がいるって知ってても、無理だと分かっててもずっと好きだった。……あんな奴の家になんか帰るな。……今夜は俺の所においで」
久我さんは真剣に私を見つめながら手を差し出した。