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他に誰も近くにいないことを確認してユカリは口を開く。「知らない人なんていないと思いますけど。災厄をもたらすとても危険な存在です」
「災厄? そんなに大それたものなのか? 噂に聞いたことはあったが、俺の故郷じゃ誰も詳しくは知らなかったな」
魔導書という存在に対する庶民の実感は、救済機構が布教されているかどうかで大きく変化する。
近隣の町に救済機構の寺院がないか、あるいは寺院があっても説教に来るほど暇ではないならば、権力者が奪い合う価値ある物品という程度の認識になる。
ユカリは声を潜めて尋ねる。「つまりハルマイトさんが取引するのは魔導書なんですね?」
「そういうこと」ハルマイトはあっけらかんと答える。「まさかあんな紙切れにそんな価値があるとは思ってもみなかったがな。事前に約束を取り付けたのは兄貴なんだが、未だに担がれているんじゃないかと不安になってたんだ。暖炉の火種にもならない変な紙なのに。不思議なものではあるが、何の役に立つんだか。だがあんたの反応を見るに相当の逸品らしい」
ユカリはもう一度周りに他に誰もいないことを確認する。「まさか放浪楽団の方々には話してませんよね?」
「魔導書のことか? まあ、特には」
「絶対に言っちゃ駄目ですからね! 話してたらそもそも同行できなかったでしょうし、土地によっては密告されます! もしも今、彼らに話したら泉に沈められかねませんよ!」
ユカリは現実味がなくならない程度に大げさに言う。少なくとも各地を渡り歩く放浪楽団の方が魔導書や救済機構については詳しい。
ハルマイトは愉快そうに笑った。「分かった分かった。気を付けるよ」
「冗談で言ってるんじゃないです!」と言ってユカリは鼻息荒く身を乗り出す。
それでもハルマイトは腑に落ちない様子だった。
「だが兄貴に聞いた限りじゃ、救済機構の連中は珍品を欲しがっているという風だったらしいがな」
「救済機構!? 救済機構と取引したんですか?」
「何だよ。文句あるのか? 俺の兄貴が見つけた魔導書だ。兄貴が取引して、俺もそれに乗った。俺の好きにするからな」
「それは良いんです。好きにしてください。私は、その話を見ず知らずの私にしたことを呆れているんです」
ハルマイトは苦笑して答える。「そんなに公言しちゃまずいのか?」
ユカリは頷く。そして静かに答える。「まずいなんてものじゃないですね。どれほど凶悪な罪を犯してでも、その魔導書を手に入れようって輩がこの世の中には沢山いるんです」そう言ってユカリは反応を待つが、ハルマイトはただ押し黙っているだけだった。「その魔導書が有ったために滅びた国もあれば、その魔導書が無かったために滅びた国もあります。正直に言って、ハルマイトさんがまだ生きているのが不思議なくらいです」
救済機構が暴力に頼らず、取引で魔導書を収集しているとは、ユカリは思いも寄らなかった。しかし穏便に済むならそれに越したことはないだろう。
どちらにしても、最初に手に入れた魔導書である魔法少女に変身することを可能とする『わたしのまほうのほん』に関しては、勝手にユカリの元に戻ってしまうのだから、取引を持ち掛けられても穏便には済ませられなかっただろう。
ユカリは、魔導書を売り払っては取り戻す、という悪い考えを頭の中から振り払う。
ハルマイトの瞳に不安な陰が揺れるのをユカリは見て取った。ようやく言葉が響いたらしい。
「そんな物騒な代物だったのか? この紙切れが」
「ええ。まあ、私も魔導書の全てを知っているわけではありませんし、全ての魔導書が物騒なのかもよく分かりませんが。魔導書に関わる人間は大抵物騒ですね」
自分も含んでしまったことにユカリは気づいて、少し落ち込む。
「もしかして俺やばいのか?」
「どうでしょう。逆に言えば魔導書を所有している人と下手に事を構えるのは得策とは言えませんし」
ユカリは旅の道中、魔導書のことをいくつかビゼに学んだ。曰く救済機構の焚書活動の主たる目的は魔導書を見つけることではなく、魔導書に対して恐怖や嫌悪感を抱かせることにあるらしい。魔導書の内容にもよるが、魔導書がどういう物か分かっている所有者が素直に焚書に従うとは限らない。抵抗されれば焚書官が大打撃を受けかねない。つまり信徒による密告を促すことこそが焚書の最大の目的と言えるだろう。
我が家はそのために燃やされたのだから効果覿面だ、とユカリは心の中で自嘲した。
「なるほど。とはいえ、取引は絶対だ。これは譲れねえ」
「それほどの大金を約束されたんですか?」
ハルマイトは目を細め、どこか遠くを見つめている。「いや、金じゃねえ。万病に効くという奇跡の霊薬だ。救済機構が所有していて、他では簡単には手に入らないものらしい」
「すみません。立ち入った話でしたね」
ハルマイトはかぶりを振る。「気にするな。俺が立ち入らせたんだ」ユカリの悲し気な目を見てハルマイトは言葉を繋げる。「言っておくが俺の体は何も悪くないぞ。俺の、俺たちの妹なんだ。俺は傭兵を、兄貴は出稼ぎで大工をして、金を稼ぎ、治せる医者を探していた。尾根村ってんだが、これがまあ小さい村なんだ。麓の街まで行かなきゃ医者はいねえし、どちらにしろ妹を治せる医者はいなかった。そんでもって兄貴は出稼ぎ先で救済機構の焚書官と取引したってわけだ。俺たちにとっちゃ安い買い物だぜ。なんせ兄貴がガキの頃に川底で拾ったって話だからな。それ以来ずっと隠し持っていたらしい」
「病ですか。それは……急がなくてはいけませんね。でも確か楽団員さんに聞いたんですけど、一直線にトイナムに向かっているわけじゃないとか」
「そうそう、そうなんだ。聞いた話だが、ここから東の土地で怪物が目撃されたとかでな。噂になっているらしい。遠回りすることになったんだ。約束の期日にはぎりぎりになっちまう。俺も出来れば一人で一直線に向かいたかったが、持ち合わせとの兼ね合いでな。楽団に頼るほかなかった」ハルマイトはにやりと笑みを浮かべてユカリを見る。「それで?」
ユカリは怪訝な表情を浮かべて応える。「それで? とは?」
「俺は何もかも話したんだぜ。お前の方は何でそんなに魔導書に詳しいんだ?」
ユカリは慌てそうになるのを堪え、追っ手から逃げ切った狐のようなすまし顔で答える。「まあ、これでも魔法使いの端くれというか? 常識ですよ。魔法使いの間では」
「おお、そうだったのか」ハルマイトは素直に驚いて見せる。期待の眼差しがユカリに突き刺さる「そういえば薬草もそうだが、小さな子供に化けていたし、それに風を吹かせて盗賊どもを蹴散らしたな。船乗りはそういったまじないに詳しいと聞いたことがある。ユカリは他にどんな魔法を知っているんだ?」
「それはまあ、色々ですよ、色々。干し肉の乾燥を早める魔法とか」
ハルマイトが少しの遠慮もなく大笑いする。
「そんなのうちのお袋も知ってるぜ。もっと無いのかよ。魔法使いらしい凄い魔法は」
「ありますよ。もっと凄いのも」とユカリはむきになって答える。「そうですね。何とでも喋ることが出来る魔法を知ってますね。とっても便利なんですから」
これはハルマイトの関心を引いた。
「へえ、じゃあ、あの泉の魚とも喋れるのか? 鳥とか馬とか」
「もちろんです。それに物とも喋れますよ。鍋とか火とか」
「ほお。じゃあ、俺の履いている靴は何て言ってるんだ?」
ユカリは靴に【語り掛ける】。少しばかり靴との話が盛り上がる。
「おいおい。靴は何て言ってるんだよ」ハルマイトが割り込む。「俺にも教えてくれよ」
「とても大事にされていることを喜んでいますね。定期的にハルマイトさんご自身で靴を磨いているそうで」
ハルマイトが目を見開く。少し疑っていたらしいことはユカリにも分かる。
「おお! まさにその通りだよ。これは兄貴が買ってくれたものでな。俺の宝なんだ。他には何て言ってる?」
「あとは、そうですね。臭いって言ってますね」
ユカリは逃げた。
美味しい料理も楽しい会話もユカリの心をとても温かい何かで埋めた。ユカリは薄い毛布に包まれながら瞬く星を眺め、時々忍び笑いをして深い眠りに落ちた。