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深い闇の底で見たそれは夢でも幻想でもない。ユカリにはそれが分かった。
少女はよく泣き、すぐに泣き止む。心の中の友達がすぐに駆け付けて少女を慰める。まだ火傷する前の手を引いて、微笑みかける。それが少女に与えられた心の中の友達の役目だった。それが少女の役目だった。
ユカリは星々の神秘的な子守歌を聞いてぐっすりと眠っていたが、寂しがりの夢が後ろ髪を引くこともなく、少しの躊躇いもなく目覚めることが出来た。しかし何か粘り気のある焦燥感が胸につかえていた。何か間違いをしてしまったような、小さな不安を感じた。
東の空は白み始め、小高い丘の稜線が一際金色に輝いているが、まだ太陽はその顔貌を覗かせていない。夜の残党は世界の縁の向こうへ帰ってゆく際に身を震わせてすすり泣くが、朝に希望を持ち、新たな喜びに満ちた日を営もうという祝福された人々の耳には届かない。
暁に染まりつつある泉のほとりで、何人かの放浪楽団の団員が小さな偶像に朝の祈りを捧げたり、朝餉や出立の支度をしたりしている。
ユカリにとって今、困る出来事などそう多くはない。ほとんど何も持っていないユカリにとって警戒すべきことなどわずかしかない。夜に寝る時は、魔導書を文字通り肌身離さず懐に入れている。今も確かにそこにあった。
ただし、嵩張る上に失う心配のない魔法少女の魔導書『わたしのまほうのほん』だけは合切袋に入れていた。おそるおそる合切袋の中を覗くと不安は的中してしまった。まさにその『わたしのまほうのほん』が無くなっている。
ユカリは小さなため息をつく。あの魔導書だけは他の魔導書と違い、ユカリ自身と距離が離れると長年連れ添った忠実な猟犬のように戻ってくる。失う心配などない。しかし放浪楽団の中の誰かか、あるいはハルマイトが盗んだのかもしれないと思うと悲しい気持ちが胸を刺し、疑う気持ちが身を焦がした。
ユカリは朝食もいただいた。昨夜のように賑やかな食事ではないが、大きな蕪の入ったスープが冷えた体を温めてくれた。
ユカリは人間に遭遇した妖精のように素早く、身支度を整える。昨夜は星々を眺め、星座を追いながらいろいろとごちゃごちゃと考えていた。
ハルマイトの魔導書は、彼らの取引の後に救済機構から奪い取ることにしようと決めた。知り合って一日も経っていない青年と、まだ見たこともない救済機構の取引相手を天秤にかけて判断したことになる。それならまだましで、実際のところはほとんど直感的な決断だ。恨みだってある、と考えかけてそれ以上考えないことにする。偽善的だなと自分をせせら笑った。
日の出までに全員が準備を整えている。
「では皆さんお元気で」とユカリは放浪楽団の皆に別れを言った。
「おや、ユカリさんは北へ向かっているのでは?」と楽団の長アムニウスが首を傾げる。「我々もしばらくは川に沿って進むのでお道連れできると思いますが」
「いえ、言い忘れていましたがここで待ち合わせしているのです」と、ユカリは嘘をつく。出来る限り平然とした態度と口調で。「今日明日には彼らもここに到着すると思います」
たった半日の旅の道連れとはいえ、彼らに嘘をつくことにユカリは心苦しく感じられた。
ユカリは丁寧に別れの挨拶をし、去っていく彼らの後姿を見送る。
やがて地上の秘密のことごとくを明らかにする太陽が東の空に姿を現す。黄金の輝きが野原を染め、夜を恐れる生き物たちに幸多き目覚めをもたらした。
その輝きに照らし出されるとユカリは罪悪感を覚えた。盗まれたのは自分なのだからそんなものを感じる必要はない、と自分を慰めることすらユカリにはできなかった。
じっと放浪楽団の後姿を見つめる。どれくらいで魔導書は戻ってくるのだろう、と思案する。義父は村の外よりさらに向こう、と言っていたことを思い出す。ビゼと何度か実験した時もそのような結果になった。
実験はさまざまな不思議な出来事をユカリたちに見せつけた。魔導書を持ってユカリから遠ざかっていたビゼが何かに躓いて転び、気が付くと手の中から失われる。逆に地面に置いた魔導書をビゼとパディアが監視しても、本当に些細な出来事で気をそらした瞬間に失われていた。
ユカリのもとに現れる際も、いつの間にか合切袋に入っていたり、頭の上に乗っていたり、読んでいたりした。ビゼに説明を求められても、なぜ読んでいるのかを答えることは出来なかった。
間もなくして放浪楽団は地平線の向こうに消えた。しかし魔導書は戻って来なかった。ユカリはじっとりと冷や汗をかく。あの魔導書が、『わたしのまほうのほん』が戻って来なかったことなど今までなかった。しかし魔導書のどこにも、必ず魔法少女の元に戻ってくるなどという記述は無かった。つまるところユカリや義父母の経験則でしかない。
今すぐ追いかけるべきかとユカリは考えたが、その前に確かめるべきことがあった。
「グリュエー!」
しばらく待っても返事がない。その後何度か繰り返し話しかけたが、グリュエーは何も喋らなかった。他の物にも語り掛けるが、言葉を返す物はいない。
ユカリは状況を整理する。魔導書『わたしのまほうのほん』は手元に戻ってくるほどの距離を離れてはいない、とまずは考えるべきだ。だとすれば、これは誰かの思惑に違いないし、それは放浪楽団の誰かやハルマイトではない。ユカリが魔導書を持っていることと、それが遠く離れれば手元に戻って来ることを知っている誰かだ。そう思った矢先、ユカリは人影を見つけた。それも一人や二人ではない。南の方から十数人が歩いてくる。
それは信じがたいことに、早朝に別れ、北へ去った放浪楽団だった。ユカリが驚いているのと同じくらい、彼らも驚いていることが遠目でもユカリには分かった。疑念に苛まれながら、ユカリと放浪楽団は再会した。ハルマイトももちろん楽団に付き添っている。
集団は少し離れたところで立ち止まり、楽団の長アムニウスと傭兵ハルマイトが進み出た。
「大変申し上げにくいのですが、ユカリさん」とアムニウスが気まずそうに言葉を絞る。
ユカリは祝詞をあげる神官のように厳粛な表情でそれを制止し、答える。「言いたいことは分かります。私がこの状況の原因ではないか、とお疑いになるのもごもっともです。しかし私が原因でないことを、幼き頃より見守り給う狩人の神と義父母に誓って申し上げます。一体何があったんですか?」
「何がも何も」とハルマイトが腕を組んで答える。「何もなかったよ。ただただ真っすぐに歩き続けただけだ。にもかかわらずここへと戻ってきた。あんたが俺たちを追い抜いたわけではないんだよな? 魔法か何かで」
「もちろんです。あの泉を見てください。私はずっとこの泉のほとりにいました。むしろ皆さんが戻ってきたのです。そもそもそんな魔法使えないですし。でも……」
ワーズメーズに蔓延っていた数多の呪いの中にはこのような状況をもたらしうる呪いが沢山あった。
「でも……何だ?」とハルマイトが鋭い目つきとは裏腹に優しい声色で問う。
「こういうことが、道に迷わせることが出来そうな人に心当たりはあります」
ネドマリア、もしくはネドマリアを操る謎の人物。ネドマリアは迷いの呪いに詳しい。ネドマリア自身も迷いの呪いを使いこなせるのだとしても何もおかしくはない。
狙いは魔導書だろうか。しかしワーズメーズで迷わずの魔法の魔導書を奪われた時、他の魔導書も合切袋の中に入れていた。その時、一緒に奪えたはずだ。気が変わったのかもしれないが。ユカリは悩み、決意した。
「巻き込んでしまった以上、隠し事はやめにします。でも、あまり公言すべきことでないのは確かです。だから、お二人に話すので他の楽団員さんに話すかどうかは長であるアムニウスさんが決めてください」
ユカリは合切袋から三つの魔導書を取り出す。動物の王に変身する魔法。守護者を召喚する魔法。人形を操る魔法。それぞれの魔導書だ。
「魔導書か」とハルマイトが口走る。
アムニウスが小さな悲鳴をあげて飛び退いた。
「魔導書ですと? 厄災を招き寄せるというあの魔導書ですか?」
ユカリは険しい表情で頷く。「はい。何者かがこれを狙っている可能性が高いです。というのも現にもう一つあった魔導書が無くなっているんです。この三つは見つけられなかったのではないか、と。憶測ですが」
「救済機構ではありませんか?」アムニウスは声を荒げたい気持ちと、声を静めたい気持ちに挟まれているようだった。「魔導書と言えば彼らだ。我々は奴らに狙われているのでは? 魔導書を持っているだなんて。他に考えられますまい」
「いいえ」ユカリは首を横に振った。「彼らがこのような回りくどいことをするとは思えません。このように私たちを泉に釘付けにすることがあったとしても、すぐに魔導書を奪い取るための次の行動に移すはずです」
ユカリとアムニウスとハルマイトが顔を見合わせる。
「少なくとも」と言ってハルマイトは雑嚢から魔導書を取り出した。「俺のは盗まれてない」
またアムニウスが飛び退き、ユカリは声を荒げそうになるのを抑える。
「誰彼構わず話しては駄目だと言ったじゃないですか」
ハルマイトは不思議そうな顔で答える。「言われたからって従うと思うんじゃねえよ。そもそもあんたはひとのこと言えねえじゃねえか」
「それは誠意を見せるためです。お二人に信じてもらわないと話が進まないだろうから」
「じゃあ俺もそうだよ」とハルマイトは子供みたいに言い返した。「俺は疑り深い性格だからな。疑われにくい人間ってのは曝け出した人間のことだって分かってる。さあ、雑嚢の中を見てくれ。俺が盗んだわけじゃないぞ」
確かにハルマイトの雑嚢の中に魔導書など無かった。むしろ旅人とは思えないほどに物が少なかった。食事以外にも色々と放浪楽団に頼っているらしい。
「分かりました」とアムニウスが少し離れた場所で呟いた。「私たちの持ち物も調べてもらって構いません。ただし魔導書のことはご内密にお願いします。我々の中に特別魔法に詳しいものはおりません。無駄に不安を煽るだけでしょうから」
ユカリもハルマイトも了承した。