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88 ◇言語道断
話はそれぞれの寮の前に到着してからも終わらなかった。
そのため、途中からは各々の部屋の中間地点で立ち止まり、話し続けていたのだが……。
そのうちディープな会話になってしまい、ふたりの間に沈黙が降りたのを合図に、各々
自分たちの部屋へと帰って行った。
◇ ◇ ◇ ◇
あ~嘘みたい。
昨日から今日に掛けて、こんなに濃い日常が自分にあっただろうか。
離縁された時も辛かったけれど、今回のはまた別の辛さが募る。
幸せへの階段が急に現れて、アタフタしつつも少しずつ喜びに浸っていたところ、
駆け上るはずの階段が粉々に砕け散り、なくなってしまったのだから。
知らなければよかった。
温子さんが哲司さんの奥さんだったなんて。
哲司さんの離婚の理由が、よりによって浮気だったなんて……こと。
それも温子さんの実の妹だったなんて。
嘘でしょ? 嘘よ。
哲司さんがそんな非道なことのできる人だったなんて。
部屋に入るとさまざまな感情に襲われ、雅代は工場から持ち帰った
タオルを口に当て、声を押し殺して畳に伏せ泣いた。
―――――――――――――
知らなかった哲司の離婚理由を知り大きくショックを受ける雅代。
昨年実家に帰ってきた折に哲司と食事をしたりお茶をしたりと楽しい時間を
過していた時には、自分が哲司の妻だったらどんなに幸せだったことだろう
そう思ったこともあったのに、結哲司が浮気をしていたことを知ると、とてもじゃないが
怖くて……怖気づいて……結婚など絶対できないし、互いのためにしてはいけないのだと
強く思ってしまうのだった。
一度は哲司の告白をうれしいと思った雅代だったが、真実を知り
気持ちが大きく変わってしまう。
温子の人柄を知ってしまったがゆえに、よけい哲司に対する信頼は粉々に砕け散ってしまったのだった。
職業婦人でスラッとしたスタイル……加えてあんなに知的でやさしくその上
綺麗で素敵な女性が妻でも浮気をするのだから、到底自分がこの先の長い人生を、
哲司に余所見させずに暮らしていけるとは思えず……自分じゃあとても哲司の妻は務まるまいと
思ってしまう。
そしてこともあろうに、妻の実の妹を捕まえて浮気のできた哲司なのだ。
妻の妹とねんごろになるなどと、言語道断である。
倫理観のなさに絶望的になる。
更には自分を反省もせずに、周囲といっしょになって温子を家から追い出した
非常な行動。
いくら、再会してからやさしくしてくれたからといって……
小さな頃からの知り合いだからといって……
人生を預けるには不安要素が多過ぎた。
プロポーズを受けるのも地獄、断るのも辛くて地獄。
本当に自分は心から好いている男性とは結婚できない星の巡り合わせで
生かされているとしか思えず、雅代は自分の運命を呪いたくなるのだった。
――――― シナリオ風 ―――――
◇雅代の動揺
〇製糸工場/寮 共用通路
夜風が吹き抜ける
雅代、ふらつきながら立ち尽くす。
絹は軽く手を振って去っていく。
雅代(心の声)「哲司さんが……裏切った? あの温子さんを……?
信じたかったのに……どうして……」
放心状態の雅代。
遠くで聞こえる虫の声、窓外を泳ぐ夜風の音―――――。
〇製糸工場/寮/雅代の部屋 ・夜
雅代(心の声)
「――あぁ、嘘みたい。
昨日から今日にかけて、こんなに濃い日常が私にあっただろうか」
雅代、タオルで顔を押さえ嗚咽を堪えながら部屋に入る。
泣いていては同室の節子に怪しまれるかもしれず、涙をこらえる。
だが、節子は入浴のためか部屋を留守にしている。
雅代(心の声)
「離縁された時の辛さとは違う。
昇っていくはずの階段が、いきなり粉々に砕けたみたい。
知らなければよかった。温子さんが、哲司さんの奥さんだっただなんて」
カフェでの哲司の様子、別れ際の様子などが思い出される。
雅代(心の声)
「浮気……しかも奥さんの妹と。
私には考えられない。どうしてそんな非道なことができるのか――」
雅代、声を嗄らして笑うように首を振る。
手にしていたタオルを口に当て、崩れるように畳に伏せる。
雅代(N)「何も知らなかった頃は、自分が哲司の妻だったらどんなに幸せだっ
たことだろうなどと思ったこともあったけれど……だけど事実を
知ってしまったからにはとてもじゃないけれど無理だった。
あんなに素敵な女性が妻でも余所に目が向く人なの
だ。ずっと自分だけを見てもらえるなんて到底思えない。
しかも、妻の妹とねんごろになるなどと、言語道断である。
倫理観のなさも絶望的だし、妻が家を追い出されても追いかける
どころか庇いもしないなんて……信じられない哲司の非道な行動
に、人生を預けるには不安要素が多過ぎた」
あまりの星の巡り合わせの悪さに、雅代は自分の運命を呪いたくな
るのだった。