テラーノベル
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こちらの手違いで太宰の異能力無効化が無くなっちゃってます、、、ごめんなさい!not女体化!
ヨコハマの風は、いつだって潮の香りと死の気配を孕んでいる。
私はいつものように、鶴見川の濁った流れを見下ろしていた。今日の水面は心なしか穏やかで、飛び込めば優しく抱きしめてくれるような、そんな錯覚を抱かせる。 「さて、今日こそは苦しまずに、それでいて美しく。理想の終焉を迎えられるかな」 独り言をこぼし、ふわりと身体を前傾させる。重力が私の肩を掴み、視界がゆっくりと地面へ向けて傾いていく——その瞬間だった。
「いい加減にしろ、この包帯無駄遣い装置がッ!」
鼓膜を震わせる怒号と共に、乱暴な衝撃が私の襟首を捉えた。重力に逆らうような不自然な力。比喩ではなく、彼は「重力」そのものを使って私を地面へと引き戻す。
背中からアスファルトに叩きつけられ、肺の空気が押し出された。視界が火花を散らす中で、真っ赤な髪と、それ以上に燃え盛るような青い瞳が私を見下ろしている。
「げほっ、ごほっ……。中也、君は本当に野蛮だね。レディ……ではないけれど、繊細な私の扱いをもう少し学んだらどうだい」 「黙れ手首切り魔。何が繊細だ、お前みたいな頑丈な入水志望者がどこにいる」
中原中也は忌々しそうに吐き捨て、私の首を絞めかねない勢いで襟を正した。 「いいか、太宰。お前がどこでくたばろうが知ったこっちゃねぇが、俺の視界に入る場所で勝手に死ぬんじゃねぇ。掃除する身にもなれ」 「おや、じゃあ視界に入らなければいいのかい? 案外、物分かりがいいね」 「あぁ!? どこまで行っても追っかけて引きずり戻してやるよ、この糞鯖が!」
そんなやり取りが、私たちの日常だった。 朝、首を吊ろうとすれば、窓を蹴破って入ってきた彼に縄を切られる。 昼、薬を飲もうとすれば、空になった瓶を見つけた彼に背中を叩かれ、中身を全部吐き出させられる。 夜、ビルの屋上に立てば、背後から飛んできた帽子が私の視界を塞ぎ、そのまま地面へと縫い留められる。
最初は、本当に心底、迷惑だと思っていた。 私はただ、この退屈で酸化した世界からお暇したいだけなのに。この小柄な重力使いは、まるで私を生の世界に繋ぎ止める鎖のように、しつこく、傲慢に、私の邪魔をしてくる。
けれど、一ヶ月が過ぎ、半年が経ち、一年が巡る頃。 私の心境には、奇妙な変化が訪れていた。
いつものように川に飛び込もうとする直前、私は無意識に背後を探るようになった。 (今日は少し遅いじゃないか。中也、まさか寝坊でもしたのかい?) そんな風に考える自分に、苦笑する。
いつしか、彼に邪魔をされることが、私にとっての「遊び」に変わっていた。 今日はどのタイミングで現れるか。どんな怒鳴り声を上げるか。どれほど必死な顔をして、私の腕を掴むのか。 彼が私を止めるたび、私の肌には彼の手の熱が残る。それは、冷え切った私の生に一瞬だけ灯る、ひどく不快で、それでいてひどく鮮烈な「生」の証明だった。
「中也、今日は五分遅刻だよ。待ちくたびれて風邪を引くところだった」 「死のうとしてる奴が風邪の心配してんじゃねぇよ!」
そう言って怒る彼の顔を見るのが、楽しくて仕方がなかった。 彼が私を止めに来る限り、私はまだ「死ぬ途中」という特等席に座っていられる。彼が必死になればなるほど、私は自分が価値のある獲物になったような、そんな倒錯した喜びに浸ることができた。
中也が私を止める。私はそれを見て笑う。 そんな、終わることのない追いかけっこが、永遠に続くのだと信じて疑わなかった。
——それから、数年の月日が流れた。
ヨコハマの街並みは少しずつ姿を変え、季節はまた、あの湿り気を帯びた初夏へと差し掛かっていた。
私は、かつて彼と何度もやり合った、思い出深い廃ビルの屋上に立っていた。 眼下には、宝石をぶちまけたような夜景が広がっている。 「……うん。今日の風は、とても心地いい」
私は手すりに手をかけ、ひらりとその上に飛び乗った。 いつもと同じ。慣れ親しんだ、死への序曲。 一歩踏み出せば、重力に従って落ちていく。その後、数秒の猶予があって、背後から誰かが私の名前を叫び、乱暴に引き戻される。
「さて……」
私は、重心を前へと移した。 身体が宙に浮く。 耳元で風が唸りを上げる。 このタイミングだ。 このタイミングで、あの「重力」が私を捕まえるはずだ。 いつものように、不機嫌そうな声で。 「おい、糞鯖」と、私を呼び止めるはずなんだ。
……けれど。
落下が始まろうとするその瞬間、私の身体はどこからも、誰からも、触れられなかった。
不自然な静寂が耳を刺す。 私は、慌てて手すりを掴み、落下の淵で踏みとどまった。 心臓が、今まで感じたことのないほど速く、無様に打ち鳴らされている。
私はゆっくりと、誰もいない背後を振り返った。 そこには、赤茶けたコンクリートの床が広がっているだけだった。 誰もいない。 怒鳴り声を上げる少年も、黒い帽子を直す男も、私の命を乱暴に繋ぎ止める重力使いも、そこにはいない。
「……あぁ」
私は、呆然と自分の手を見つめた。 その指先は、夏の夜風にさらされて、ひどく冷たくなっている。 いくら待っても、この手が熱を帯びることはない。
「そういえば……」
唇から漏れた声は、風にさらわれて消えていった。
「もう……君はいないんだったね、中也」
数ヶ月前の、あの血生臭い抗争の果て。 彼は私を救うために、その命を使い果たした。 「お前を死なせるのは、俺の仕事だ」なんて、かっこつけたセリフを最後に残して。
彼はもう、私を止めに来ることはない。 私がどこで首を吊ろうが、どの川に沈もうが、どんなに醜く死を望もうが。 私を怒鳴りつけ、アスファルトに叩きつけ、無理やり生の世界へと連れ戻してくれる「鎖」は、もうこの世界のどこにも存在しないのだ。
「……つまらないじゃないか」
私は手すりから降り、その場に力なく座り込んだ。 膝を抱え、包帯に覆われた自分の腕を見つめる。 彼がいない。 それだけのことが、これほどまでに世界を色褪せさせるものだとは知らなかった。
「君がいないなら……死ぬのだって、ただの作業じゃないか」
彼に止められるという「遊び」があったからこそ、私は安心して死を夢見ることができたのだ。 彼が全力で拒絶してくれるからこそ、私はこの汚濁に満ちた生に、わずかな価値を見出していたのだ。
私は、誰もいない屋上で、独り静かに笑った。 その笑みは、かつて彼をからかった時のものとは違い、ひどく歪で、凍りついていた。
「ずるいよ、中也。私を一人にして、自分だけ先に理想の場所へ行くなんて」
夜空を見上げても、返事はない。 ただ、冷たい星の光が、私を突き放すように輝いているだけだ。
私は立ち上がり、埃を払った。 今日は、死ぬのをやめよう。 彼がいない世界で、彼の手の熱も知らずに、たった一人で完結する死なんて。 そんなものは、私に言わせれば、あまりにも「美しくない」。
私はコートのポケットに手を入れ、重い足取りで出口へと向かった。 階段を降りる足音が、無機質な建物に反響する。
「……明日は、どこの川に行こうか」
誰も止めに来ないと分かっていて、それでも私は、明日もまた死の準備をするだろう。 そうして、失敗するたびに、あるいは思い止まるたびに、もう存在しない彼の影を探すのだ。
それが、私に遺された、唯一の「生」の営みだから。
ヨコハマの夜は、どこまでも深い。 私は、彼が守ったこの命を引き摺りながら、また明日という名の、果てしない絶望の中へと歩き出していく。
「おやすみ、中也」
風に溶けたその言葉だけが、暗闇の中で微かに震えていた。
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