これまでにツトムが知る能力は5つ。
・時間を戻せる自らの能力。
・能力者を探し当てる美濃輪雄二の能力。
・手首から生クリームを吐きだす神谷ひさしの能力。
・物体を両手のあいだで往来させる大垣の父、修の能力。
・そしてツトムの頭に思念のような言葉を送り込んできたのは、おそらくピザキッチン担当の五十嵐真由の能力だろう。
ツトムが目の当たりにしたこれらは、能力という名で一括りにされているが、それぞれに関連性は見受けられない。
まるで個々の大陸で独自の進化を遂げた生物のようであり、おそらくは百瀬あかねの能力も、そうした独自性をもっているだろう。
「あかねのビッタ、ぜひ体験させてほしい」
ツトムは即答し、凛とした姿勢でかまえた。
「ああ、ツトムくんのために、じつはさっきビッタを押しつけておいたんだよ」
「押しつけたって、どういうこと?」
百瀬は唇の端を釣りあげた。
「さっきツトムくんに抱きしめられたときにねっ」
「まさか、俺の胸をドンドンと叩いたのがそれか。妙に不自然な行動だとは思ったけど」
「当たり!」
百瀬が太鼓を叩くように、宙を3度叩いた。
「もしあかねの能力を体験したくなかったら、どうしてたんだ……。あっ、いや、まさかビッタって、キャンセルが利くの?」
「かけたビッタの取り消し? そんなのムリだよ。そんなのがあるなら、それはそれでまたべつのビッタになっちゃうじゃん」
「俺が拒否しないと踏んでたわけか」
「まあね。でなきゃ、このハチャメチャなオーナーについてこないでしょ」
「それはそうだけど。あかねに胸を3回叩かた俺は、これからどうなってしまうんだ?」
「ぜひ体験したいって言ったよね。体験ってのは、聞くものじゃなく体で直接味わうものだよ」
百瀬の言葉は正しかった。
手首から生クリームを吐きだす神谷ひさしの能力も、頭に響く思念のような声も、じかに体感したからこそ、疑いのない事実としてツトムは受け入れられたのだった。
「わかったよ。気になってたまらないけど、ぐっとこらえてそのときがくるのを待つよ」
「さて、今日はもうお開きにするぞ」
大垣は残った酒を飲み干し、伝票をもってレジカウンターへと去ってしまった。
「ツトムくん。まだまだ聞きたいことは山ほどあるだろうけど、また今度だね」
「正直言うと、消化不良がひどくて今夜は眠れそうにない」
「はじめてビッタに会ったんだから、丸3日かけても質問は尽きないよ。
これからひとつひとつ知って、しっかりと自分以外にもビッタがいるんだってことを実感していく時間にすればいいよ。それだけで心は救われるよ。わたしがそうだったように」
「まだ入居を決めたわけじゃない」
「シェアハウスに入って野球つづければいいじゃん」
「それについては、ゆっくりと考えてみるよ」
「そうだね。シェアハウスはハチャメチャなオーナーさまのおかげで、いつでもあなたを待ってるよ。それにわたしもね」
ツトムと百瀬は外にでては、親指ほどに小さくなった大垣を走って追った。
「おいツトム、代理運転呼んであるからビルのまえで待ってろ。それとシェアハウス入居は好きにしろ。
どうせなら、もう何年かプロで戦ってからがいいんじゃねぇのか」
大垣はそう言い残して、足早に歩道橋を渡ってCJルートのビルへと入っていった。
「オーナー、会社で寝るのかな」
「たぶんこれから残った仕事を片付けるんだよ。あの人、ハチャメチャだけど、鉄人だからね。ビッタじゃない能力者って感じ」
百瀬も会社のビルを見あげた。
大垣とふたりを分かつ環七通りの渋滞は、すっかりと消えていた。
「あかね。最後にもうひとつだけ聞いてもいいかな?」
「うん、どうぞ」
「ラ・コンナートのスーシェフなんだけど、彼の名前を教えてくれないか。もしかするとその人のこと知ってるかもしれないんだ」
ツトムは閉店して闇に飲み込まれたイタリアンレストラン、ラ・コンナートを見た。
「トキオさんのことかな? 堂島時夫(どうじまときお)さんていってね。料理は上手だけど、けっこう怖い人だよ」
「トキ……オ?」
閑散とする夜の環七通りで、ツトムの全身に電解質を含んだ衝撃波が駆け巡った。
「もしかして知ってる人?」
「いや……いいんだ。今日はありがとう」
「また会えたらいいな。南海ツトムくん」
それじゃまたねー、と百瀬は手を振ってシェアハウスへと入っていった。
「……」
ツトムの全身は、秋の冷たい風をはねのけるほど熱くたぎった。
ラ・コンナートのまえからしばらく動けず、ただじっと店を眺めるしかなかった。
急ぎ足の車両たちがエンジン音を響かせながら、ツトムの背後を通り過ぎていく。
ツトムは目を閉じ、白石ひよりの豊満な胸を思いだした。
ほこりっぽい体育倉庫のとび箱に座る白石ひより。
そのとなりには、もうひとりの人物が座っている。
ツトムは目を開けてすばやく頭を振り、シェアハウスと対峙するように仁王立ちした。
「……時夫。おまえ、こんなところにいたのか」
*
3日後、ツトムはプロ野球生活ではじめて体調不良を訴えてチーム練習を欠席した。
まるで下腹部をなにかに食い荒らされたような重い痛みと不快感がつきまとい、ツトムは丸3日間ものあいだ床に伏した。
それは肉体の頑丈さが取り柄であったツトムにとって、自らの神話崩壊に似た精神的ショックを伴うものだった。
その痛みが百瀬あかねの「生理痛」であるのを、この時点でツトムはまだ知らない。