コメント
0件
気絶王子――。
世間にその不名誉な愛称が定着したのは、5年前の日本シリーズ。
横浜アイアンフェアリーズ対朝日フライングバグスの一戦だった。
プロ一年目から一軍に籍を置くツトムは、代打で3割8分の打率を記録。
代打日本記録を更新していた。
首脳部のツトムに対する信頼が日々大きくなっているのを実感し、ツトムもまたチームに貢献しようと己の才能をすべて注いだ。
しかし9月の試合中に、最初の失神は訪れた。
プロ入り後は徹底して能力の管理を行っていたツトムの失神は、本人の意図しない偶然の産物だった。
相手チームの打ったホームラン性の当たりを追う、ライトとセンターのふたりが激突。
ライト村下の腕があらぬ方向へと折り曲がるのをツトムは目撃した。
ツトムはほぼ反射的に時間を戻していた。
『クイッ、クイッ』
バックスクリーンに掲げられたアナログ時計の針を見つめ、眉間に当てた指を2度折り曲げた。
ツトムの目のまえに、6秒前の世界が再現された。
捕手のサインに首を縦に振った投手が、大きく振りかぶる。
ツトムは投手の手から球が離れるよりさきに、ライト村下のいる方向へと駆けだした。
しかし打者のバットの音が聞こえたとき、自分が重大な過ちをおかしたことに気づいた。
10台以上のテレビカメラが、選手の動きを逐一追っている。
そうしたなかで打者のスイングよりもさきに打球の落下地点に走りだすなど、あってはならなかった。
すぐにもう一度時間を戻すべきだった。
だがここで再び能力を使えば気絶してしまう。
それでもライト村下の凄惨な姿が脳裏から離れらかった。
ツトムは半ばヤケになって、眉間に人差し指を当てた。
『クイッ』
指を弾くと、世界はさらに3秒が巻きもどった。
目のまえに再現されたのは、相手打者がバットを振り抜いた直後だった。
ツトムはライトめがけて脱兎の如く駆けていく。
「村下さん! 動くな!」
ツトムはありったけの大声で、村下に指示をだした。
鬼の形相で叫ぶツトムの姿に、ライトの村下はぴたりと足を止めた。
落下地点に到達したセンターが白球をキャッチ、惨事は免れた。
ピンチを無失点に抑えた選手たちがダグアウトに帰っていくなか、ツトムは能力使用のデメリットによってその場で卒倒した。
「プロ野球の試合中に珍事――」
その日のニュースはツトムの失神を、大々的に報道した。
大の字で横たわるツトムの姿は、携帯動画サイトなどにもアップされ、世界中にさらされることとなった。
ニュースがゴシップネタとして報じられる一方、球団首脳部はツトムの失神を重く受け止めた。
プロ入団以前にも同様の失神記録があることをすでに調べあげていた球団側は、以降ツトムの起用に懐疑的な姿勢をみせはじめる。
万が一にも今後の公式戦でまた気絶するようなことがあれば……。
球団運営や選手の管理体制に至るまで、チーム全体がマスコミの批判の標となるのは明白であった。
築きあげてきた球団の歴史とツトムひとりとでは、天秤にかけるまでもなかった。
球団側は緊急会議を行った。
そして本件がチーム全体におよぼすであろう悪影響を憂慮し、最終決定を下した。
翌日の公式会見にて、南海ツトムは精密検査と経過観察のため一軍登録から抹消したと発表。
以降ツトムの出場機会はぱたりと途絶えた。
しかし事件によって、ツトムの知名度は飛躍的に上がっていた。
プロ一年目の初々しさと、甘いルックス。
そしてなによりも南海ツトムが代打の歴代打率を更新中であることが知れ渡ると、横浜アイアンフェアリーズのファンのみならず、多くのプロ野球ファンから、ツトムの出場を熱望する声があがりはじめた。
次第に高まるファンの熱気。
それに押され、球団側としてはいつまでも不透明な理由でツトムの一軍復帰を止めおくわけにはいかなくなっていく。
公式戦の日程はすでにリーグ戦を終え、残すは日本シリーズだけとなっていた。
そうしてメディアとファンの圧力により、ついにツトムは一軍へと返り咲く。
9月の失神から一ヶ月後のことだった。
プロ野球日本シリーズは、最終の第七戦をむかえていた。
横浜アイアンフェアリーズと朝日フライングバグスは互いに勝敗を重ね、3勝3敗で最終戦に望む。
日本一が決まる九回裏、2対3の1点ビハインド。
二死三塁二塁、一打サヨナラのチャンス。
朝日フライングバグスの投手は、球界を代表する左腕、花塚茂。
対するは日本シリーズに入ってから打撃不振にあえぐ左打者の和田。
球場に詰めかけた誰もが和田に代わる右打ちを渇望し、頭にたったひとりの男を思い描いた。
ツトムを取り巻くすべての景色が、一枚絵のように出揃った。
「ナンカイ……ナンカイ……」
最初に誰が叫びはじめたわけではなかった。
誰かれともなく叫んだわけでもない。
「ナンカイ……ナンカイ……! ナンカイ! ナンカイ!」
まるで球場がひとつの生命になったように、南海ツトムの名がスタジアムの空気を震わせた。
重い地響きが球場を覆い、その音は雲にまで届きそうだった。
「7番和田に代わりまして、代打南海。バッターは南海。背番号33」
場内アナウンスが南海ツトムの名を告げた。
超満員のスタジアムからは、この日最大の歓声とヤジがわき起こった。
万全の準備を整えたツトムは、すべての視線を一身に浴びながら、ゆっくりと打席へとむかう。
マウンドに立つ花塚茂は、まるで香り高いコーヒーでもたしなむような表情で、投げ込みを開始した。
ツトムはようやくこぎつけた。
夢にまで見た大投手、花塚との対戦に。
九回裏、日本一を賭けた今年最後の打席だった。