Side深澤
30歳になった朝、俺は――魔法使いになった。
って、言うとちょっと中二病っぽいし、朝っぱらからなに言ってんだって思うよね。でも本当なんだよ。現実で。
あれは、誕生日の朝だった。
いつも通り目覚ましに3回起こされて、布団と格闘しながらなんとか起きて、ぼんやりしたまま台所でコーヒー淹れてたら。
手が触れたんだよ、冷蔵庫の取っ手に。
……いや、厳密には、冷蔵庫の前に立ってた母ちゃんに、ね。
実家住みの30歳独身男。まあ、そこは触れないで欲しい。
「今日誕生日でしょ、辰哉。おめでとう」って、母ちゃんが肩ポンって叩いてきたとき。
――(ああ、もう30なのかぁ。いい人、いないかな……)
え?
聞こえた? 今、声?
母ちゃん、何も言ってないよね? って思って顔見たけど、俺が驚いてることにすら気づかず、冷蔵庫から卵出してる。
しかも、その声……心の声っぽいのよ。
言葉じゃなくて、なんかこう、頭に“感情ごと”流れ込んでくる感じ。
そのときは「寝ぼけてんのか?」って思って、気のせいで片付けようとしたんだけど――
通勤電車で、隣に座ってたOLさんと肘がぶつかって、謝ったとき。
――(あ、なんかこの人……意外と優しそう)
うん、はっきり聞こえた。
それでようやく気づいた。
……これ、魔法だ。
「30歳まで童貞だと魔法使いになれる」って、誰が言い始めたか知らない都市伝説。
学生のころはネタにして笑ってたのに、気づいたらその条件、思いっきりクリアしてた。
いや、ほんとに。俺、ちゃんと人間やってきたよ?
でもさ、恋愛ってタイミングと勢いじゃん? ……そのタイミングが、ずっとなかっただけで。
それに、俺にも“好きな人”は、いたから。
ただ、その人は……遠いようで近くて、手を伸ばせば届く気がして、それでも怖くて、触れられなかった。
まさか、そんな俺が“人の心が読める魔法”を手に入れるなんて。
しかもこれ、触れた相手限定。
握手とか、ぶつかるとか、物理的な“接触”がないと発動しないっていう、不便なのかありがたいのかわかんない仕様。
まあ、触れなきゃいい話だし、会社ではそれなりに避けて過ごせるでしょ。って、思ってた。
……あの人に、触れるまでは。
――――――――――
会社に着いたのは、少し早めの時間だった。
いつもより早く目が覚めてしまったせいだし、なによりこの体の“異変”のせいで、なんとなく落ち着かなくて。
魔法。ほんとにあれがそうなら……今日一日、絶対触れないように気をつけないと。
そう、触れなきゃいいだけなんだよ。物理的に。
それさえ気をつければ、会社では普通に過ごせる。そう言い聞かせながらエレベーターに乗る。
ドアが開いて、見慣れたフロアに一歩足を踏み入れた。
パソコンの立ち上げ音、カチャカチャ鳴るキーボード、始業前のざわざわした空気。いつもの朝だ。
「……おはようございまーす」
何気なく挨拶しながら、席に向かう途中。ふと視線が吸い寄せられた。
廊下の奥から歩いてくる、見慣れた男の姿。
岩本・照。うちの部署の営業チームの先輩。ひとつ年上で、俺とは入社以来ずっと同じ部署。
最初は怖い人だと思ってた。ガタイもいいし、目つきも鋭いし、あんまり喋らないし。
でも実際は全然そんなことなくて。
人の話をちゃんと聞くし、面倒見もいいし、意外と甘いもの好きだったりして、そういうギャップで女子からも地味に人気がある。
俺にとっては……まあ、普通に頼れる先輩。
可もなく不可もなくってわけじゃないけど、特別意識するほどでもないというか。気づけば自然に隣にいる感じ。
――で、その“隣”にいることが、今はちょっと、危ない。
ちょうど角を曲がったとき、岩本が同じタイミングで通路に入ってきた。
「よっす、ふっか。早いじゃん今日」
「あ、どもっす。早起きしちゃって」
そんなやりとりをしながら、すれ違いざまに俺の肩と、岩本の腕が――
かすかに、触れた。
(……また、夢に出てきたな。ふっか。笑ってたな、なんか安心した)
……は?
俺はその場で立ち止まってしまった。
何今の。今の声、誰の? って、考えるまでもない。
あの“感触”と、直後に聞こえた声。間違いなく、岩本の心の中の――
夢? 俺が? 安心……?
どういう意味? いや、まさか。まさか。
「……まじかよ……」
思わず口に出た呟きは、自分でも気づかないくらい小さな声だったけど、
頭の中は一気に混乱の渦に巻き込まれていた。
だって、岩本が――俺のことを、夢に見たって?
笑ってるのを見て、“安心した”って?
今のが本当に“心の声”だとしたら、岩本・照は俺に――
……いやいや、ちょっと待て。落ち着け、俺。
これはただの偶然かもしれない。思い違いかもしれない。魔法のバグ、みたいなやつかもしれない。
でも。
そう言い聞かせる俺であった。
――――――――朝の接触以来、俺は岩本先輩の周囲半径1メートル以内に極力近づかないように過ごしていた。
なんせ、触れたらまた“聞こえて”しまうかもしれないんだ。
変なこと考えてるとは思ってないよ? むしろ、俺が意識してる方がよっぽど変だ。
でもなあ……やっぱ“夢に出てきた”とか“安心した”とか聞いちゃうと、どうしても妙にそわそわするじゃん?
「ふっか、これ、昨日の資料の訂正バージョンな。お前んとこにもデータ回してる」
昼前、コピー機の前でばったり会った岩本先輩が、さらっと資料を手渡してくる。
「わかりましたー。ありがとっす」
何気なく受け取って、さっさとその場を立ち去ろうとした――その時。
「あ、てかさ、昨日の会議、課長めっちゃくちゃ長くなかった?」
「マジそれっすよね。話すの好きなのは分かるけど、俺昼メシ完全に逃しましたもん」
「ふはっ、だからお前、午後ずっとグミ食ってたのか」
「いや、あれは戦うサラリーマンの命綱なんで」
「ジャスミンティーで流し込んでたの、俺見てたからな」
「監視されてる……怖っ……」
そんな、よくある他愛ない会話。別に特別なことなんかない。
こういう掛け合いは、たぶん誰より自然にできる自信がある。
だからこそ、気を抜いてしまったんだ。
岩本先輩が、俺の肩をぽんと叩いた。その、ごく当たり前の、いつものスキンシップ。
その一瞬――頭に、また“それ”が飛び込んできた。
(ふっか、やっぱりこうしてるのが一番落ち着くな)
……ん?
……んんん?
「え、ちょ、えっ……?」
声にならない声が漏れた俺を見て、先輩がきょとんとした顔でこっちを見る。
「ん? なに? どうかした?」
「いや、なんでも……ないっす」
心臓が変なリズムでドラム叩き始めた。これ絶対叩きすぎ。
“こうしてるのが落ち着く”って、どういう意味ですか!?
同僚として? 後輩として? それとも、え、なに、もっと……アレな意味で!?
いやいやいやいやいや、考えすぎ。うん、落ち着け俺。これは誤作動。脳内魔法エラー。
たまたま、岩本先輩が“人と一緒にいると落ち着く”的な意味で言っただけかもしれないじゃん? そうじゃん?
でも……どう考えても、これって俺限定っぽいんだよな……。
「お前さ、今日ちょっと挙動おかしくね?」
「え、そうっすか? そんなことないっすけど?」
「おどおどしてるっていうか、なんか……猫みたいだな今日」
「猫?」
「ビビってんのか? 俺なんかした?」
「いやいやいや、なーんにもしてないっすよ!!」
ビビってるっていうか……そう、ビビってるんだよ!! 俺が!!
自分でもわけわかんないけど、こうして普通に話してるだけなのに、どっか頭の隅で“次はどんな声が聞こえるんだ”ってビクビクしてる。
魔法ってさ、もっとこう、ファンタジーで、便利で、ワクワクするもんじゃなかったのかよ!
よりによって、心の声なんて。
しかも、それが――先輩の、って。
頼むからもう、これ以上、何も聞こえないでくれ……!
「……ほんと、気づいてねぇんだな、ふっか」
……って、今の完全に、声に出してないよな? 出してない。
俺が聞こえただけ。やっぱり……また心の声だ。
ちょっと待って? え、何に気づいてないって?
俺、なんか忘れてる? なんか地雷踏んだ? 爆弾処理ミスった? 何!?
「……いや、だからね? ほんと俺、なんもしてないっすからね?」
意味不明な言い訳みたいな声が口から出る。
自分でも意味がわからないけど、言わずにはいられなかった。
岩本先輩は、「あ?」って感じで眉をひそめた。
「え、なに? 急にどうした」
「いや、ちょっと今日……寝不足で……」
「お前、それ昨日も言ってなかった?」
「そうっすね、連続寝不足記録更新中です」
「あー、なるほど。じゃあ午後の会議は意識飛ばすなよ。起きてろよ?」
「がんばりまーす……」
会話は普段通り。でも、俺の中はもう大荒れだった。
あの人、絶対気づいてる。自分の気持ちに。
っていうか、俺が“気づいてない”ってことに気づいてるってことは、つまり、向こうは――
……いやいやいや。無理無理無理。考えるのやめよ。深澤・辰哉、電源オフ。
「じゃ、午後、よろしくな」
そう言って、岩本先輩はひらひらと手を上げて立ち去った。
その背中を見送りながら、俺はゆっくり深呼吸した。
「おい俺、落ち着け……これただの魔法、ただのバグ、そう、生活ノイズ……!」
そう言い聞かせながら、コピー機の上に置いたままの資料に視線を落とす。
その瞬間――
(ふっか、また顔真っ赤だな。可愛いな)
「ひいっ!?」
思わず変な声が出た。
「え、コピー機しゃべった!?」
いや違う違う違う、もうやめてくれ、俺のメンタルが持たない。
なんでよりによって、よりにもよって岩本先輩の心の声なんだよ……!!
「お願いです……岩本先輩、俺に触れないでください……いや、触れさせないでください……!!」
もはや魔法云々じゃなくて、俺の心のほうがバグりそう。
―――――――――――
その日、俺は完全にやらかしていた。
クライアントとのやり取りで、提出期限を一日勘違いしていて、提出物が間に合わなかった。
しかも、その案件はうちの課にとってかなり大事な案件で――上司の顔が、ガチで引きつってた。
「深澤。お前、ちゃんと確認したのか?」
「……はい……すみません」
「“すみません”で済んだら、取引先怒らせないんだよ。営業の信用ってのはな……!」
怒鳴り声がオフィスに響いて、俺はひたすら謝るしかなかった。
周りの同僚たちが気まずそうに目をそらすのもわかったし、自分でも情けなくなるくらい落ち込んだ。
上司が去った後、俺はデスクに戻って項垂れた。
頭ではリカバリー案を考えようとしても、胃のあたりがしくしく痛んで、まるでうまく動かない。
「……はあ……俺、なにやってんだ……」
いつもみたいに軽口も叩けない。ムードメーカーとか言われてるけど、今はそんな元気一ミリもない。
そんな時だった。
「……ふっか」
顔を上げると、そこに岩本先輩が立っていた。
いつも通りの静かな目で、俺のことを見ていた。
「……先輩」
「ちょっと、来い」
「……え?」
返事を待たずに歩き出す背中に、気づけば俺は素直についていってた。
連れていかれたのは、オフィスの隅っこの空き会議室。扉が閉まると、外の音がふっと遠ざかる。
岩本先輩は、ドアにもたれて俺を見た。
「……ああいう時は、あんま引きずらない方がいい」
「……いや、でも俺がやらかしたのは事実ですし……てか、ちょっとへこむくらい許してくれても……」
「そりゃへこんでいいけど、へこみすぎんな」
「……うう……」
そう言って先輩が俺の肩を、ぽん、と軽く叩いた。
触れられた瞬間――また、聞こえてきた。
(ほんとは誰より真面目なの、ちゃんと知ってるから)
……ああ、やめてくれよ……。
そんなの、聞かされたら、泣きそうになるじゃんか。
「先輩……なんでそんな、優しいんすか……」
「ん? 俺、普通だけど?」
「いや、普通じゃないっすよ。やばいっすよ。こんなん……惚れますよ」
「おい、それ俺のセリフな」
「え?」
「いや、なんも言ってないけど?」
うわ、言ってないのかよ。
俺、今度こそ本気で顔から火が出そうだった。
「……あー、なんかすみません! とにかく、ありがとうございました!! 俺もう大丈夫なんで!! じゃ!!」
会議室を逃げるように飛び出して、廊下の壁に頭をゴン、とぶつける。
……今の、やっぱり聞こえたよな。言ってないってことは……また“心の声”。
いやいやいやいやいや、もう……!!
この魔法、ほんとに使い道どこだよ!!
でもその日、ちょっとだけ、ごはんが美味しく感じたのは――
たぶん、あの言葉のせいだった。
時刻は23時を回っていた。
オフィスの明かりは、自分の島とその隣くらいしか点いていない。
本当ならもう帰ってる時間だ。でも今日は、俺がやらかした分の帳尻を、どうしても合わせなきゃならなかった。
やっと資料をまとめて、データを修正し終えた頃には、背中がバキバキに固まっていた。
「うわぁ……腰死ぬ……てか目ぇ霞む……」
情けない独り言がもれる。けど、誰もいないから問題ない。
はずだったのに。
「お疲れ」
――その声に、ビクッと肩が跳ねた。
顔を上げると、そこに岩本先輩がいた。
スーツのジャケットを脱いで、シャツの袖まくって。手には、コンビニのホットコーヒーが二つ。
「……せ、先輩? まだいたんすか?」
「んー? 帰ったけど、なんか気になってな。寄ったついで」
ついで、って言いながら、俺の机の端にコーヒーを置いて、自分は反対側の席に腰を下ろす。
「コーヒー、ブラックでよかったよな?」
「あ、はい……ていうか、マジでありがとうございます……」
カップを両手で包み込むように持つと、熱がじわっと沁みた。
「だいぶ頑張ってるな」
「……へへ、当然っす。俺、やらかしたんで」
「……そういうとこ、ちゃんとしてんだよな、ふっかは」
そしてまた、触れてもないのに、ぐっと胸の奥にくる言葉が聞こえてきた。
(無理してるの、ちょっと顔に出てるけどな。ほんとは誰かに支えてほしいくせに)
やばいやばいやばい。これ、聞こえちゃいけないやつ。
そっと目線を逸らすと、先輩は俺の様子を見て、小さく笑った。
「コーヒー、ぬるくなるぞ」
「あ、はい……! いただきます……」
一口飲む。ちょっと苦くて、でもなんか妙に落ち着く味だった。
「てか、先輩、今日もう帰ってよかったのに……なんで戻ってきたんすか」
「んー……理由、いる?」
「いります」
先輩はコーヒーをひと口啜って、カップ越しににやりと笑った。
「ふっかが泣いてないか、確認しに」
「泣きませんよ!? 泣いてませんし!」
「知ってるよ。でも、ちょっとくらい甘えてもいいんじゃね?」
「甘えるって……俺、そういうキャラじゃないし」
「そうやって強がるの、好きだけどな」
(素直になってくれたら、もっと守りやすいのに)
――また、聞こえた。
そしてまた、胸がぎゅっと苦しくなった。
だけど、今日はその苦しさが、なんかあったかくて。
「……先輩」
「ん?」
「……ありがとうございます」
「なんだよ、急に」
「いや……なんか、救われた気がして」
「ふはっ、俺そんなに仏っぽかった?」
「いや、むしろ悪魔っぽいです」
「そっちかよ」
バカみたいに軽口を叩き合いながら、でも少しだけ心の中がふわっとした。
この魔法、たぶん迷惑で、うざくて、時々泣きたくなるくらいめんどくさい。
でも――
こうして“聞こえてしまう声”が、ちょっとだけ俺を救ってくれるときもある。
「……よし、これで一通り揃った、かな……」
プリンターから出てきた資料を確認して、ようやく肩から力が抜けた。
時計を見ると、もう0時近く。
なんだこの時間……深澤・辰哉、社畜の鑑。
その時、隣から声がした。
「これ、先方用はPDF化しとく?」
「え、あっ、ありがとうございます! すみません、手伝わせちゃって」
「別に。俺がやるって言っただけだし」
岩本先輩はそう言いながら、手慣れた様子でデータをまとめていた。
さすが仕事が早い。ていうか、さっきまで“差し入れ役”だったはずでは……?
「てか先輩、ほんとにいいんすか? 残業代、出ませんよ?」
「お前が出すなら別だけど」
「すみません、俺今月けっこうカツカツで……」
「だろうな」
「ひどっ」
冗談を交わしながら、二人で作業して、ようやく全部終わったのは0時10分過ぎ。
「ふーっ」とソファに倒れ込んで、天井を見つめる。
「お疲れっす……マジで……」
「おう、お疲れ」
「いやぁー……終わった、終わりました……!!」
「お前、テンションおかしいぞ」
「もう限界超えると、テンション上がるタイプなんで」
「そのうち倒れるぞ」
「もう倒れたいっす。あと3回くらい生まれ変わりたい」
「じゃあ生まれ変わったら、もっとスケジュール管理うまくな」
「耳が痛い!!」
そんな感じで、やり取りしながら、ふとスマホを見て――
「……あっ」
「ん?」
「終電……」
「……ないの?」
「……はい。完全に逃しました」
沈黙。
「……ふーん」
それだけ言って、先輩はコーヒーを飲み干した。
「ホテル取る?」
「え? あ、いや、そこまでじゃ……」
「うち来る?」
「へ???」
唐突すぎて、反射的に変な声が出た。
「ほら、前に言ったろ? 終電逃したら、呼べって」
「……いやいやいや、普通に軽く言ってますけど、なんかいろいろアウトじゃないっすか?」
「何が?」
「いやだって、あの……その……」
(こうでもしないと、甘えてくれないだろ)
また聞こえた。
ずるい。もう、ほんとそういうとこずるい。
「……お言葉に甘えても、いいっすかね……?」
「うん、最初からそのつもり」
自然体すぎる岩本先輩の背中を見ながら、俺はバッグを抱えて立ち上がった。
この人、やっぱり優しいな。
タクシーで着いた先は、静かな住宅街にあるマンション。
白くてシンプルな外観に、ちょっと背筋が伸びる。
エントランスを抜けてエレベーターに乗り、岩本先輩の部屋の前まで来た。
「ここ」
「……失礼しまーす……」
先輩が鍵を開けて中に入ると、部屋の中は想像以上にきれいで、落ち着いた匂いがした。
間接照明だけがぼんやり灯ってて、広すぎないリビングが妙に居心地いい。
「わ……え、めちゃくちゃ片付いてますね」
「そっち、適当に座ってて」
ソファを指差されて、おとなしく腰を下ろすと、キッチンの奥で先輩が何か用意してる音がした。
冷蔵庫の開く音。カップに何か注ぐ音。
そのすべてが、深夜の静けさに妙にやさしく響いて、なんだか落ち着かなかった。
「ほら。これでいい?」
差し出されたのは、常温のミネラルウォーターと、小さなチョコ。
「……気がききすぎじゃないっすか、先輩」
「甘いもん、落ち着くだろ」
「優男……」
「ほめてんの?」
「いや、なんかちょっと悔しいです」
「素直になれ」
「うっ……」
(本音、聞けたらいいのにな)
聞こえた心の声に、またドキッとする。
なんでこんなときだけ、優しい声してくるの。
「で、ふっかは寝る派? それとも夜更かしして喋る派?」
「いや、さすがに今日は寝たいっす……ていうか眠気より緊張の方が強いです」
「うち、そんな怖いか?」
「いや、なんか“家”って感じがして……ちゃんとしてる人の部屋って、居心地いいけど落ち着かないっす」
「泊まったら慣れるよ」
「さらっと言わないでください!」
(もっとずっと、いていいのに)
まただ。また聞こえた。
先輩は表情ひとつ変えず、グラスを口に運ぶ。
なんなんだよ、この人。
なんでそんなに自然体で、やさしくて、時々ドキッとさせてくるんだよ。
「ソファは俺が使うから、お前ベッドで」
「いや、それはさすがに俺がソファ使います」
「俺ん家だから、俺が決める。お前寝ろ」
「……じゃあ、せめて……端っこ使ってください。布団分ければ、ベッド広いし」
「は?一緒に寝るってこと?」
「えっ、いや、違っ……いや、違わないか……?」
「お前、ちゃんと自分のセリフに責任持てよ?」
「うう……なんかもう、今夜ずっと先輩に転がされてる気がします……」
「それはいつもじゃない?」
「返す言葉がないです……」
そのあと、風呂を借りて、簡単に着替えを借りて、
先輩の部屋の電気がひとつ、またひとつと消えていく。
隣で布団に入った先輩が、眠そうな声でぼそっと呟く。
「ふっか」
「はい?」
「今日、頑張ったな」
「……え?」
「おやすみ」
(たまには、誰かに甘えてくれ)
――声に出したわけじゃないその言葉に、俺はなんて返せばいいかわかんなかった。
でも、背中合わせのまま、目を閉じる。
この人、ずるい。
……なんでそんな、優しいんだよ。
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