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遠くで微かに唸る空調の音が、静寂の中に溶け込んでいた。
喧騒に満ちたライブの余韻が、まるで嘘のように薄れていく。
ホテルの一室にはただ、夜の深さと、月明かりの揺らぎだけがあった。
カーテンの隙間からこぼれた一筋の光が、まるで迷い込んだ羽のようにそっとベッドへ舞い降りる。
その月の光は、ベッドの端で静かに眠る永玖の輪郭を淡く照らしていた。
頬にかかる柔らかな髪。
呼吸に合わせてわずかに上下する胸元。
白いTシャツの襟元から覗く鎖骨には、まだ熱が残っているように見えた。
ライブで流した汗は、シャワーのあとの清潔な香りと混じり、シーツの上に名残を残している。
──綺麗だ。
心のどこかでそう思った瞬間、颯斗は自分の視線を逸らせなくなっていた。
呼吸が浅くなる。
喉の奥が詰まる。
どうしてこんなにも、ただ寝ているだけの姿が愛おしくて仕方ないんだろう。
ベッドの上で、永玖は無防備に眠っていた。
その寝顔は、どこまでも穏やかで、どこまでも遠く感じた。
すぐ隣にいるのに、まるで手の届かない夢のようで──それが、余計に切なかった。
颯斗は、眠れなかった。
何度も目を閉じようとした。
けれど、そのたびに思い出すのは、今日のステージで輝いていた永玖の姿。
歌いながら真っ直ぐ客席を見つめていた瞳。
MC中に照れたように笑った横顔。
舞台袖で、冗談を言って肩を叩いてきた温度。
全部、全部、胸に焼きついていて、眠るどころじゃなかった。
──好きだな、って。
ふとした瞬間に、そんな言葉が胸の奥に浮かんで、苦しくなる。
好きになっちゃ、ダメなのに。
“仲間”って枠の中にちゃんといなきゃ、いけないのに。
でも、どうしようもなく永玖を目で追ってしまう。
声に反応してしまう。
同じ空間にいるだけで、心がざわつく。
胸が痛くなる。
嬉しくなる。
「……やめろよ、俺」
小さく呟いて、髪をくしゃりとかき上げた。
永玖を起こさないように気をつけながら、ゆっくりと彼の横に腰を下ろす。
何かをしてしまいそうな自分が怖くて、でも離れるのも怖かった。
そっと手を伸ばす。
でも、その指先は、彼の肌に触れることなく、空気の中で止まる。
あと少し。
ほんの数センチ。
だけど──その距離が、どうしても埋められなかった。
「……どうして、こんなに近くにいるのに……」
触れたら、きっと壊れてしまう。
この静寂も、この関係も、今の永玖の無防備な寝顔さえも──自分の手で濁してしまいそうで。
心の奥に押し込めていた想いが、じわじわと溢れ出す。
触れたい。
でも、触れられない。
好きだって叫びたい。
でも、それを言った瞬間に、彼はきっと自分の隣にいてくれなくなる。
永玖が、寝返りをうった。
シャツの裾がわずかにずれて、柔らかく光を反射する肌が、そっと闇に浮かび上がる。
その白さに、思わず息を呑んだ。
指先を伸ばしかけて──やめた。
「……ダメだ、まだ」
心の中で何度も繰り返す言葉。
“まだ”──それは希望か、それとも言い訳か。
ふと、永玖の手が枕元に滑り落ちた。
その手を、そっと自分の手で包む。
細くて、柔らかくて、まだ少し冷たいその手に、自分の体温がじわじわと染み込んでいく。
たったそれだけで、胸が熱くなった。
そのときだった。
「……はやと……」
夢の中の声のように、永玖が寝言でそう呟いた。
一瞬、時が止まる。
名前を、呼ばれた。
ただそれだけのことなのに、涙がこみ上げる。
「……ずるいよ」
小さく呟いて、頬をゆるませる。
触れられない。
けれど、こんなふうに名前を呼んでくれるだけで、満たされてしまうなんて──
そんな自分が、悔しいくらいに、永玖のことが好きだった。
もっと触れたい。
もっと知りたい。
もっと近くにいたい。
でも、今はまだ。
「……触れたい。だけど、今は……我慢するよ」
自分に言い聞かせるように囁いた声は、夜の深い闇の中へと静かに消えていった。
部屋の空気は、まるで息を潜めるように静かだった。
月の光がふたりを包み込み、影が寄り添うようにひとつに重なる。
こんなにも近くにいるのに、
まだ、触れられない。
でもそれでも、きっといつか。
この想いが届く日を信じて──
今はただ、そっとその手を握っていた。