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井野匠
さくらぶ
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作務衣男の体内に入った雨は、男を支配しようと手当たり次第に攻撃を仕掛けてくる。
男は、身体の内部を無数の針に突き刺される激痛に耐えていたが、やがて侵入を諦めた雨が一つに纏まって様子を窺い始めた。
気体が固まって結晶化するように、その姿を透明な球体に変えた雨は、小さな伸縮を繰り返している。
男は、その球体に意識を集中させた。
そして、意識を集中させながら溜息を吐き出すように、こう呟いたのだ。
「これほど大量の邪気を吸い込むのは初めてだが、何とか抑え込むことができた。
しかし、人間の邪気とは色々な味がするものだな。
憎しみの味は辛いし、悔やみの味は苦い。
そして、雨音の邪気は悲しみに満ちていて酸っぱい味がする。
さあ雨音の邪気よ、その悲しみの理由を僕に聞かせてくれ」
男の呟きに対して、浴衣の女が何の反応も示さないところを見ると、女は意識を失っているのだろう。
すると、作務衣男の体内で様子を窺っている雨から、若い男の声が聞こえてきた。
「雨音、愛しているよ。ずっと一緒に居ような」
逡巡(しゅうじゅん)する雨音の声が、その愛情に応えたくても応えられない理由を、訥々(とつとつ)と語り始めた。
「でも、私の実家は特殊なの。
私の実家を知れば、敏晴もきっと私から離れていくわ」
敏晴と呼ばれた男の笑い声がする。
「今時、結婚に家柄とか職業は関係ないだろう。
お互いが愛し合っていれば、それで良いと思わないか?」
雨音が、イヤイヤをするように首を振る気配が伝わってくる。
「敏晴は、私の実家を知らないから、そんな呑気なことが言えるのよ。
白川家は、平安時代から何も変わっていない。
時間が止まっているの」
敏晴は思わず吹き出して、「そりゃまた古い話だな」と笑いながら、「いくら京都の出身だからって、平安時代は盛り過ぎだろう」とからかってくる。
「笑い事じゃない!
白川家は代々、朝廷や幕府の要人に雨雲を沸かせ、そこに宿った雨を祓うことで信頼を勝ち取ってきたのよ!
そうでなければ、皇族でもない白川家が代々王号の世襲を許される訳がない!」
雨音の激しい剣幕に気圧されて、笑いを引っ込めた敏晴は戸惑っていた。
「雨雲を沸かすとか、雨を祓うとか、雨音は一体、何の話をしているんだよ」
理解してもらえない苛立ちを募らせた雨音が、「医者が患者を病気にして、その病気を治すことで患者の信頼を勝ち取ってきたってことよ」と分かりやすい説明を加える。
「そ、それって、明らかに犯罪じゃないか。
日本で、そんなことをしたら直ぐに捕まってしまうよ」
子供じみた敏晴の反応に、「千年以上も国家権力と裏で繋がっていたのよ。簡単に捕まる訳ないでしょう」と吐き捨てる。
「バカな…雨音の思い過ごしだよ。
暴力団じゃあるまいし、そんな映画みたいなことある訳ないじゃないか」
敏晴のこの言葉に、雨音は溜息と共に「実家が暴力団の方が、まだマシなのよ…」と呟いた。
しかし、最後の言葉はハウリングするように闇の彼方に消えてしまう。
今度は打って変わって、笑いを含んだ女の声が、内緒話を囁いている。
「アンタの恋人、佐々木敏晴だっけ?
昨日、銀座の街中を女の子と手を繋いで、楽しそうに歩いてたわよ。
広告代理店に勤めているんでしょう。
気を付けなさいよ。
社会人なのに女子大生と付き合う男なんて、大体が女ったらしって相場が決まってるんだから」
すると、別の女が笑いながら、「何よ洋子、雨音の彼氏がイケメンだからって、妬いてるんじゃないの?」
その言葉に憤慨した洋子が、「なに言っているのよ。私は、世間知らずの雨音を心配して言ってるのよ」と怒り出す。
女性達の笑い声が弾けたところで、その笑い声がキーンという金属音に変わると、やがて消えてしまう。
今度は、雨音の泣きじゃくる声が聞こえてくきた。
「もう嫌なの!就職活動で忙しい時期なのに、自分の実家のことで悩んだり、敏晴の女性関係に嫉妬したりするのが…」
焦った敏晴の声が聞こえてきた。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。
雨音以外の女性と、手を繋いで街中を歩いたことなんてないよ。
それは絶対に誤解だ。
俺は、雨音のことを真剣に想っているんだよ。
それは、すぐにでも証明できる」
雨音が首を振りながら、「もういいのよ…」と諦めると敏晴が慌てて、「今からバイクでそっちに向かうから、ちょっと待っててくれ!」と言ったのだが、その日、敏晴は雨音の下宿先に現れなかった。
今度は、携帯電話から疲れ果てた女性の声が聞こえてくる。
「佐々木敏晴の母です。
雨音さんのことは敏晴から聞いています。
だから、雨音さんには絶対にお知らせしなければと思って、連絡させて頂きました。
敏晴は、昨夜遅くに交通事故で亡くなったんです…」
黒板を爪で引っ掻くような、雨音の悲痛な叫び声が辺り一帯に響き渡ると、その叫びは、やがて悲しい慟哭に変わり、いつ果てるともなく続いていた。
その慟哭に、リズミカルな僧侶の読経が重なる。
そして、悲しみに沈んだ敏晴の母親が、雨音に優しく話し掛ける声が聞こえてきた。
「敏晴のポケットから、雨音さんに渡すはずだった婚約指輪が出てきました。
敏晴は、その指輪を渡したくてバイクを走らせたのだと思います。
この事は、雨音さんにとって重荷になるんじゃないかと、ずいぶん悩みましたが、妹の愛奈に、お兄ちゃんが渡したかった指輪を、雨音さんに、渡してあげて欲しいと言われたんです」
雨音は、その言葉に応えることが出来ずに泣き続けていた。
「敏晴は、若い女性が気に入りそうな指輪を一緒に選んで欲しいと、妹の愛奈を連れて銀座の宝飾店に行ったそうです。
その時、敏晴はとても幸せそうだったと愛奈から聞きました。
この指輪は、敏晴にとっても大切な指輪です。
どうか受け取ってください」
喪服姿の母親から渡された指輪の箱には、所々に薄茶色の染みが付いている。
母親は、言い訳をするように「敏晴の血で汚れていたので、シミ取り用の布で拭いたのですが、全部は落ちなくて…」と呟いた。
雨音は、喪服姿で息子の血を拭う母親の切ない気持ちを想って、その箱を両手で受け取った。
そして、その箱に付いたシミを愛おしいそうに指でなぞりながら、また、子供のような泣き声をあげたのだ。
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