テラーノベル
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『喫茶うさぎ』が定休日の日は、メイド喫茶のシフトに入った。朝の穏やかなコーヒーの香りを胸に残したまま、メイド服に袖を通す瞬間は、いつも少しだけ息が詰まる。深煎り焙煎の苦みと甘みが舌に染みついた口で、インスタントの焦げた匂いがするカップを手に持つ。
最初は馴染めなかった。
このギャップが、まるで2つの自分が同時に存在してるみたいで、胸の奥がざわざわした。でも、店内の赤いハートやピンクのくまがぶら下がる天井の下で、私を待ってくれているご主人様の笑顔を見ていると、もう少し頑張ろうと思えた。
「お帰りなさいませ、ご主人様♡」
いつもの営業スマイルを貼り付けて、トレーを抱えてテーブルへ向かう。リボンがふわっと揺れて、キャンディみたいな香りが自分を包む。
今日は常連のご主人様が、いつもの窓際の席で手を振ってくれた。
「弥生ちゃん、今日も来てくれたんだね」
って、優しい声で言う。その笑顔が、『喫茶うさぎ』でかずちゃんが淹れてくれたコーヒーみたいに、静かで温かい。
「かしこまりました、ご主人様♡今日は特別に、弥生のきゅんきゅんパワーをたっぷり入れちゃいますね♪」
オムライスにケチャップでハートを描いて、指でハートの形を作って胸の前で左右に揺らす。
「きゅんきゅん♡」
周りのテーブルからも、同じポーズの声が重なって、店内が一瞬、甘いピンクの泡に包まれる。
同僚のあかりちゃんが、厨房の隅でこっそり近づいてきて、
「弥生ちゃん、最近なんか顔が明るくなったよね~♡あの彼氏さんと別れたって本当?」
って、目をキラキラさせて聞いてくる。私は小さく頷いて、
「うん。今は一人で、ちゃんと自分の道を歩いてるよ」
って答える。あかりちゃんは「やったー!」って小さなガッツポーズをして、「じゃあ、今日のチップ全部貯めて、新しいカフェの資金にしよ!」って、励ましてくれる。
シフトの終わり頃、最後のご主人様が帰った後、私はカウンターで片付けをしながら、ふと思う。この制服も、くまちゃんのカップも、もうすぐ卒業だ。深煎りの苦みとインスタントのギャップは、まだ少し違和感があるけど、それさえも私の人生の一部。2つの香りが混ざった味が、今は少しだけ、愛おしく感じる。
店を出ると、夜の商店街の風が頰を撫でる。小さな笑みが自然に浮かぶ。
明日はまた、『喫茶うさぎ』の朝。かずちゃんに教わった淹れ方で、自分のコーヒーを淹れる。宇佐美さんが、「今日の味、どうだった?」って聞いてくれる。そして、少しずつ本物の味を自分の手で出せるようになる。
私はスーツケースの代わりに、小さなバッグを肩にかけて歩く。「きゅんきゅん♡」のポーズを、もう一度、心の中でやってみる。今度は、誰にも強制されずに、ただ、自分にだけ向けて。もう少し。このギャップを乗り越えて、全部、自分の味に変えていく。
モラちゃんからの連絡は、別れてからちょうど一週間後の夜に、突然来た。
『喫茶うさぎ』の2階で、修行の疲れを癒すようにベッドに横になってたとき、スマホが、ブブッと震えた。画面を見ると、見慣れた名前。
大杉幹雄。
ブロックしてなかったことに、今さら気づく。通知はLINEじゃなくて、SMSだった。古いやり取りのスレッドが、久しぶりに上に上がってきた。
「おい、弥生。話がある。今どこにいる?」
シンプルで、いつもの「おい」から始まる文。胸の奥が、一瞬きゅっと締め付けられる。でも、もう痛くない。ただ、懐かしくて、少しだけ哀れに思える。私はスマホを握ったまま、窓の外の商店街の灯りを見つめる。夕方の薄暗い路地を、常連のおじいさんがゆっくり歩いてる。かずちゃんが淹れてくれた最後のコーヒーの残り香が、まだ部屋に残ってる。
返事をするか、迷う。無視すれば済む。
でも、これで本当に終わりにしたい。私はゆっくり息を吐いて、指を動かす。
「今は、自分の場所にいるよ。話すことなんて、もうないと思う」
送信した瞬間、既読がつく。すぐに返事が来た。
「ふざけんな。お前一人じゃ何も出来ねえって、わかってんだろ?戻ってこいよ」
言葉が、いつもの毒を帯びてる。でも、今日は違う。怒りより、焦りが混じってる。私はもう一度、深呼吸して、返信を打つ。
「連絡しないで。私、ちゃんと一人で生きていくから」
送信して、すぐにブロックする。スマホの画面が暗くなって、部屋が静かになる。数分後、また別の番号から着信があった。知らない番号。モラちゃんが、別のスマホからかけてきたんだろう。私は無言で拒否して、電源を切る。
翌朝、かずちゃんにそのことを話すと、彼は黙ってコーヒーを淹れてくれた。カップを渡しながら、
「連絡が来るのは、最初だけだよ。時間が経てば、向こうも諦める。それまで、君は自分の味を磨きな」
宇佐美さんが、カウンターの向こうから頷く。
「必要なら、僕が間に入るよ。でも、弥生さんなら、自分で切れるはずだ」
私はカップに口をつけて、苦みと甘みの混ざった味を味わう。モラちゃんからの連絡は、これで最後になるかもしれない。それとも、また来るかもしれない。修行の合間に、時々スマホをチェックするけど、新しいメッセージは来ない。
代わりに、常連のおじいさんが、「今日のコーヒー、優しい味だねぇ」って言ってくれる。その一言が、昨夜の連絡の重さを、静かに溶かしてくれる。モラちゃんからの連絡は、鎖の最後の引きずりだった。でも、私はもうその鎖を自分で切った。
切ったつもりだった。
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