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るるくらげ
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#再会
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久しぶりのメイド喫茶への出勤日、私は背中に違和感を感じた。振り向くけれど、誰もいない。野良猫が路地から飛び出して段ボールの山に飛び込んだだけだ。その奥にはゴミ収集車のおじさんたちが、昨夜の夢の残骸を集めている。空き缶がカランと転がる音、湿った紙の匂い、朝の冷たい空気が頰を刺す。
私は深呼吸して、メイド服の裾を直す。もうすぐ、この制服ともお別れだ。
「おはようございます!」
店に入ると、キャピキャピした声が響く。シフトが合わなかった同僚の女の子、みゆちゃんが、目をキラキラさせて抱きついてくる。
「わぁ、弥生ちゃん久しぶり!元気そうだね!なんか、顔が明るくなった!モラハラ彼氏と別れたって本当?あかりちゃんから聞いたよ~♡」
キャンディの匂いがふわりと漂う。ここはもう1つの夢の国。甘くて、ふわふわで、でも、どこか作り物めいた香り。私は笑顔を貼り付けて、
「うん、元気だよ。ありがとう、みゆちゃん」
お客様がいらっしゃる前に、トレーやお皿の準備をして、テーブルを拭く。布にアルコールの匂いが染みついて、拭くたびにピカピカになるテーブル。赤いハートのクッション、ピンクのくまがぶら下がる天井、キラキラの星シールが壁に貼られた店内。
全部が、これまで私を支えてくれたものなのに、今はもう少し遠く感じる。こことはもうすぐお別れだと思うと、テーブルを拭く手に力が籠る。布がテーブルに擦れる音が、なんだか切なくて。
この店で貯めたチップが、もうすぐ『喫茶うさぎ』の資金になる。インスタントの焦げたコーヒーを運びながら、「きゅんきゅん♡」のポーズをしながら、心の中では、かずちゃんの淹れてくれた深煎りの苦みが、静かに広がってる。みゆちゃんが隣で準備を手伝いながら、
「弥生ちゃん、カフェ継ぐって本当?すごいね~!私もいつか行きたいな♡コーヒー淹れてくれる?」
私は頷いて、
「うん、絶対。一番最初のお客様は、みゆちゃんたちにしようね」
声が、少しだけ震えた。嬉しくて、でも、寂しくて。このピンクの夢の国で、みんなに支えられてきた。「おまえ」って呼ばれて息苦しかった日々を、「弥生ちゃん」って呼んでくれたみんなが、ここにいたから、耐えられたんだ。
開店前の店内は静かで、BGMが小さく流れてる。私は最後のテーブルを拭き終えて、深呼吸する。
「お客様お待たせしました♡弥生がお給仕いたしますね♪」
ドアが開いて、最初の常連さんが入ってくる。私は営業スマイルを貼り付けて、でも、心の中では、本物の笑顔を練習してる。もうすぐ、この制服を脱いで、木目のカウンターに立つ。そこで淹れるコーヒーは、きっと、この店で学んだ「きゅんきゅん♡」の優しさも、少し混ざってるはず。
テーブルを拭く手が、最後に優しく止まる。さようなら、夢の国。ありがとう。これで、私の朝は、本物の香りで始まる。
けれど事件が起こった。
3人目のお客様がテーブルに座り、「お待たせしました、ご主人様♡ 弥生がお給仕いたしますね♪」とトレーを抱えて微笑んだ瞬間だった。
ピンク色のドアが、乱暴にバンッと開いた。厨房の女の子たちが「キャッ」と小さな悲鳴を上げ、店内の甘いBGMが一瞬途切れるような静けさになる。私はトレーを握ったまま、体が固まった。
そこに立っていたのは、モラちゃんだった。
眉を釣り上げ、目が血走って、息が荒い。いつもの不機嫌な顔じゃなくて、怒りと焦りが混じった、ほとんど別人のような表情。ネクタイが少し曲がって、スーツの袖が捲れ上がってる。
私が背中に感じた違和感はモラちゃんだった。私が出勤する日を待ち伏せしていたんだ。ゾッとした。営業先から立ち寄ったのか、時計の針は午後二時。勤務時間中だ。汗と苛立ちの匂いが店内に広がる。視線が、まっすぐに私に刺さる。他のご主人様たちが、ざわついてこちらを見る。みゆちゃんが厨房から顔を出して、「弥生ちゃん……!」と小さな声で呼ぶけど、私は動けない。
「おい、弥生」
低い声で、でも店中に響くくらいはっきり名前を呼んだ。「おまえ」じゃなくて、「弥生」。でも、その呼び方が、今は脅しにしか聞こえない。私はトレーをカウンターに置いて、ゆっくり息を吐く。心臓がドクドク鳴ってるけど、もう逃げない。
ここは、私の最後のシフト。このピンクの夢の国で、最後にちゃんと終わらせる。
「幹雄くん……ここに来るのは、やめて」
声が少し震えたけど、視線は逸らさない。モラちゃんは一歩踏み込んで、テーブルを叩くように手を置く。
「おまえ、俺の連絡無視して、勝手に別れたつもりか?指輪も置いて、アパートも解約して、何だよそれ。ふざけんなよ」
声がだんだん大きくなって、周りのご主人様たちが立ち上がろうとする。みゆちゃんが厨房から飛び出してきて、「ちょっと!お客様に迷惑ですよ!」って、間に入ろうとする。でも、モラちゃんはみゆちゃんを睨んで、「お前ら関係ねえだろ」って吐き捨てる。
私は一歩前に出て、彼の前に立つ。ピンクのリボンが揺れて、キャンディの香りが自分を包む。でも、もう怖くない。
「関係あるよ。ここは、私の職場。みんなが私の味方なんだ」
モラちゃんの目が、少し揺れる。
「味方?はっ、笑わせんな。おまえみたいなのが、一人で生きていけるわけねえだろ。俺がいなきゃ、何も……」
「出来るよ」
私は静かに、でもはっきり言う。
「今は、もう一人じゃない。『喫茶うさぎ』で、ちゃんと自分の店を継ぐ。資金も貯まった。修行も始まってる。コーヒー、淹れられるようになったよ。本物の、深煎りの味を」
モラちゃんの拳が、テーブルを握りしめる。指の関節が白くなる。
「そんな店……継いだって、お前一人じゃ潰れるぞ。俺が……」
「もう、いいよ」
私は最後に、小さく微笑む。営業スマイルじゃなくて、本物の少し疲れたけど穏やかな笑み。
「幹雄くん、ありがとう。一緒にいた時間は辛かったけど、それがあったから今がある。でも、もう終わり。ここに来ないで。もう、連絡もしないで」
「ざけんなよ!」
店内の空気が、静かに張り詰める。常連のご主人様の一人が、「警察呼びますか?」って低い声で言う。モラちゃんは周りを見回して、初めて自分が少数派だって気づいたみたい。拳を緩めて、ゆっくり後ずさる。
「……覚えてろよ」
最後に、それだけ吐き捨ててピンクのドアを乱暴に開けて、出て行った。ドアがカランと鳴って、閉まる音が店内に残る。静寂が、数秒続く。みゆちゃんが、「弥生ちゃん……大丈夫?」って、駆け寄ってくる。私は頷いて、
「うん。もう、大丈夫」
トレーを抱え直して、お客様のテーブルへ戻る。
「お待たせしました、ご主人様♡弥生のきゅんきゅんパワー、たっぷり入れちゃいますね♪」
「弥生ちゃん、大丈夫?」
「はい♡大丈夫です♡」
声は少し震えてたけど、笑顔は崩さない。指でハートを作って、胸の前で揺らす。「きゅんきゅん♡」その時、カウンターに座っていたご主人様が椅子から立ち上がった。