どれだけ時間が経ったんだろう。
耳元を通り過ぎる何やら大きな音で、僕の意識はだんだんつながってきた。頭の中の霧がゆっくりと晴れていくように、
徐々に、そして確実に意識が戻ってきた。
次の瞬間、僕は自分が今置かれている絶望的な状況を理解した。体中の痛みで息をするのも辛い。恐怖が僕の体を硬直させ
ている。
ーザ、ザ、ザ、ザ。タタタタ、タタタ
この音が、横たわっている僕の近くを歩く人間の足音だと気付くのに、時間はかからなかった。
ゾッとする感覚が背筋に走っっている。
―こんなことになるなんて……。
僕、走っていたんだ。つい、さっきまで。雨上がりの湿った土を蹴り、全身に風を感じながら、朝露に光る緑の中、颯爽と
駆け抜けてたんだ。
ー急がなくっちゃ、ほかの猫に先を越されるぞ。今日はどんなご馳走にありつけるだろう
このところ、くる日もくる日も雨ばかりで、エサ探しにも行けない毎日が続いていた。空腹もとうに限界を過ぎている。
僕は早朝の心地よい陽の光を、尻尾の先まで感じながら、スーパーの裏にあるゴミ箱目指して一直線、わき目もふらずに走
り続けていた。久し振りのご馳走にワクワクしながら……。
ほんの一瞬の出来事だった。突然けたたましい轟音が、怒涛のごとく押し寄せてきた。逃げる間なんかなかった。
いや、逃げるなんて、そんなこと考える間もなかった。
あっと思った次の瞬間、とてつもなく大きな 力が僕を踏み倒し、真っ黒い煙を吐きながら、僕の体の上を通り過ぎていっ
た。足が、足が燃えるように痛い。体中が痛みの炎でじりじりと焼かれている。
体中をかけめぐる恐怖と闘いながら、固く目を閉じたまま、僕はとりあえず息をしていた。その息を静かに感じながら、な
んとか自分の終わりに対処しなければ、と思い始めていた。そう、自分の終わりに。
人間たちはどうだか知らないが、僕たちノラ猫界には、守るべき決まり事がいくつかある。そのうちの ひとつが最期のと
きのこと。誰の目にも触れない場所で、静かに土に返る。これがノラとして生き抜いた猫の立派な幕引きだ、と何度もノラ猫
集会で教わってきた。
でも今そんなこと、もうどうだっていいんだ。怖いんだ僕。誰か助けて。怖いよ。
こんなこと、今さら言ってみても仕方ないよね。だけどあの時、もう少し注意していたら……。
あれは、あともう少しでスーパーに着く辺りだった。
道路の向こうに何やら甘酸っぱい香りを感じて、僕の足はスピードを弱めた。
ー何だろう。
足を止めて目を凝らした。道路の向こう側のうっそうとした茂みの中で、三色のまだら模様がフワフワ動いている。
白、黒、茶がバランス良く交じり合った毛皮と、先が九十度曲がったあの尻尾は間違いなく、
「お嬢さんだ!」
僕の心臓が、ドキッと音をたてた。美しいお嬢さんは僕のマドンナ、理想の女性なんだ。完璧な片思いだけどね。
僕がお嬢さんを初めて見たのは、近くの公園で満月の夜に開かれる、ノラ猫集会の会場だった。お嬢さんは受付に座ってい
た。お嬢さんを一目見たとたん、僕の頭のてっぺんから尻尾の先までが、一瞬にして真っ赤になってしまった。
「やめとけよ」という声が、隣から聞こえてきた。
「あれは、ボスの彼女だぜ。だから、みんなお嬢さんって呼んでる」
お嬢さん……それは、ノラ猫集団で、ボスに選ばれた女性だけが許される呼称だ。
「そ、そうか」
真っ赤になった僕の体は、サッと元の色に戻った。こうやって、僕の初恋は一瞬にして失恋に終わってしまった。
ノラ猫の世界は結構厳しいんだ。ボスの命令は絶対だし、ボスの彼女を好きになるなんてそんな大それたこと、許されない
タブーなんだ。
それでも僕、いつか偶然お嬢さんに出会ったら、
「今日は良いお天気ですねぇ」程度の何の変哲もない挨拶を、さりげなく交わしたいと思っていた。思っていたというより、
そんな時が来るのを心から願っていた。ああ、やっとその時が来た。道路を渡ればそこにお嬢さんが待っている。
僕は脇腹のあたりを二、三度舐めて気持ちを落ち着かせた後、最高の笑顔を作り、「今日は良いお天気ですねぇ」と何度か
練習してから、ゆっくりとお嬢さんの方に向かった。一歩一歩、胸のときめきを抑えながら。
「道を横切るときは、しっかり左右を確認して、大急ぎで突っ走ること 」ノラ猫集会で何度も教わってたことだ。
僕だって、いつもはそうしてたさ。人間の車はある意味、人間より怖いからね。あれにやられたら、取り返しのつかないこ
とになる。
だけど僕、あの時お嬢さんのことしか頭になかったんだ。横から迫って来る怪物には、全然気が付いてなかったんだ。
あっと思った時は、遅かった。次の瞬間、僕の体はアスファルトの上に押しつぶされていた。足が、足が燃えるように痛
い。体中が痛みの炎でじりじりと焼かれている。
それでもやっとのことで頭を少し動かし、恐る恐る薄目を開けてみた。お嬢さんが向こうにぼんやり霞んでいた。悲しそう
な顔で、じっとこちらを見ていた。
この場合、どうすることもできないことくらい分かっていた。薄れていく意識の中、声にならない声で、お嬢さんに呼びか
けた。
お嬢さんの頬に、涙が伝ったような気がした。
ーザ、ザ。タタタタ、タタタ
さっきから体中が小刻みに震えている。こうしている間にも、ひっきりなしに排気ガスを含んだ轟音が、僕の体ぎりぎりに
すり抜けていく。
―このまま夜になってしまったら……。
小刻みな震えがだんだん大きくなってきた。突然痙攣が起きたように、恐怖が僕の体を激しく揺さぶり始めた。
―落ち着け、落ち着け。
そう自分に言い聞かせながら、大きく息を吸い込み、その息をゆっくり吐きながら、体中の、それでも微かに残っている勇気
をかき集めた。
―前足は大丈夫だ。少しずつでも這っていけば何とかなる。負けるな!
恐怖で硬直している自分の体に向かって叫んだ。それから前足の爪が肉球に突き刺さらんばかりの力でこぶしを握り、アスフ
ァルトに貼りついている、鉛のように重い体を持ち上げようとした。
―ああ、やっぱり無理だ。
とてつもなく大きな絶望感だけが、僕の体を駆け抜けていく。
今はもう、なすすべもなく、僕は自分の最期を待つしかない。
人間の歩く音、車の走り去る音が、僕の体の真横を大急ぎですり抜けていく。
時々人間の靴音が恐る恐る近づいて来ては、何かおぞましい物でも見てしまったかのように、足早に走り去っていく。その
度に、僕の心臓は縮み上がる。そのうち、まぶたの隙間から悲しい涙が静かに流れ始めた。その後を追うように、あふれ出た
涙は頬を伝い、冷たいアスファルトの隙間の中に吸い込まれていった。
―このまま涙に溶けていきたい。
朦朧とする意識の中、僕はまだ生きていたいと呟いた。
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!