Side 青
傘についた水滴を振り払い、病院に入る。
昨日は晴れていたというのに春の天気は変わりやすいものだ。
通い慣れた廊下を歩き、部屋の扉をノックする。返事はない。
無言でドアを開けた。
少し薄暗い室内には、ただ時計の秒針の音と心電図の機械的な音だけが響く。無機質を具現化したような空間だ。
その静寂を破ろうと、ベッドの中で眠る彼の名前を呼ぶ。
「きょも」
ただ寝ているだけなのか、鎮静薬で強制的に眠らされているのかはわからない。
その端正な顔は、生気がないほど整いすぎている。
「京本」
北斗みたいに苗字で呼んでみても、変わらない。
寝息すらしないから、ますます不安になってきた。しかし心電図は規則的にグラフを刻み、ピッピッと音を鳴らしている。
「大我」
ここにきて初めて言った、きょもの下の名前。
俺が呼んでいるのに。いつだって、呼べば楽しげな顔で振り向いてくれたのに。
涙が溢れそうになったが、手の甲で拭う。泣いたらきっともっと悲しくなる。
まだ目の前の彼は生きている。
「きょも、ギター借りるよ」
少し弾いてみたくなった。スタンドから取り上げ、丸椅子に座って構える。
エレキギターの経験はあるから、弾き方はわかる。
いくつかコードを鳴らしてみる。
そこで、つい昨日聴いた曲の題名を知らないことを思い出した。まだ考えていなかったのか、きょもが話を止めて眠ってしまったからだ。
と、布団の衣擦れする音がした。顔を上げると、彼がこちらに目を向けていた。
「……樹、何で弾いてるの」
借りるよって言ったんだけど、と思いかけたがなんせきょもは寝ていたのだ。
「ちょっと弾きたくなって。ダメ?」
いいよ、と答えが返ってきた。
「昨日歌ってた曲、また聴かせてよ」
ギターを差し出すが、首を振った。「ちょっと今日はね…」
俺は黙って小さくうなずく。
「じゃあ、タイトルくらい教えて」
ベッドに寝たままで俺を見つめ、動かない。やはり考えていなかったのだろうか。
「……うたかた」
ん、と眉を上げる。「うたかた…?」
「漢字は、泡に飛沫のまつって書くんだったかな。儚く消えやすいものの例えらしい」
「それって――」
きょものこと、と訊こうとして口をつぐむ。それは夢想の中だけに留めておこうと思った。
「樹、ちょっと窓開けてくれない?」
わかった、と立ち上がる。カーテンを開け、窓の鍵を下ろした。
雨は止んでいる。分厚い雲は流れ、薄い白っぽいレースのような雲が覆っている。
空模様は変わっても、変わらず鎮座しているのが中庭の桜。いや、花びらはだんだんと散っているのだろう。
ちょうど風が木をなぜた。
その微風に乗って、桃色の花びらがひとひら、舞い込んできた。
部屋に入ってきてもなお舞い踊り、やがて彼の枕元に落ちた。
「ふふ…すごい奇跡だね。あそこから開いた窓を通って、俺のベッドまで来るなんて」
小さなそれを優しくつまむ。
きょもは頬に涙を流した。静かに、一雫。
そっと歩み寄り、拭う。指先がほんの少し濡れた。
「ありがとう」
続く
コメント
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悲しい 続き待ってます