第六章 4
四
「くそっ。速い」
ピントを合わせることに四苦八苦している聖司に、鷹の突撃が迫る。林の中に入れば攻撃が緩むと思ったのだが考えが甘かった。狭い木の間を、ものともせずに縫うように飛行してくる。
「危ない」
間一髪で、梨々菜が聖司の身体をかっさらって、砂利の上に倒れ込んだ。聖司の腕に痛みが走る。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だ。すまない」
覆い被さっている梨々菜に礼を言うと、上空で牽制している敵を見据えた。
二人は浄玻璃の鏡に向かっている敵、二体を追跡していたが、またもや鷹が襲ってきて足止めを食っていた。急いで倒して、もう一体が鏡に着く前に追い付かないといけない。
「いたた。弱点の解析も、まだだし。何とかしてピントを合わせないと」
「治」
梨々菜が、聖司の切り傷を治療するために手を添えた。
「それにしても、何で人間じゃなくて鷹に取り憑いているんだ?」
「罪人は何回でも、取り憑く対象を代えることが出来ますから、鏡に向かっている者の後方援護のために、あれを選んだのでしょう」
「なるほど、って感心してる場合じゃないな。鳥の弱点、鳥の弱点」
鳥と言えば、夜は目が利かないはずなのに、「輝」で明るくしていなくても普通に飛んでいる。どうして良いか分からなくて弱音を吐きそうになったとき、ゴーグルに反応があった。やっと弱点の解析結果が出たようだ。
「鷹の好物であるネズミを見つけると飛び付くか。梨々菜、そこら辺にいるネズミを捕まえられるか。あそこに置いてくれ」
「はい。捕・追式・固」
梨々菜はネズミを捕まえて引きずり出すと、聖司が指示した辺りに固めた。聖司に向かってきた鷹が方向転換をして飛び付く。
「いまだ」
ネズミにピントを合わせておいたので、すぐにシャッターを切った。
「ギッ、ギッ」
と二回鳴くと、気を失ったのかグッタリとして動かなくなった。煙状になった霊が、カメラに吸い込まる。
「終わってみれば、呆気ないな」
千代の奮闘とは対照的な決着に聖司は、ちょっと拍子抜けした。
「そうですね。でも、まだ終わってはないですよ」
「そうだった。どっちだ?」
「あっちです。あの山に鏡が隠されています。行きましょう」
梨々菜の示す方角には小高い山があり、頂上付近は黒い雲で覆われていた。
「さっきまで、雲なんかなかったよな」
嫌な予感を感じつつ梨々菜の先導で移動すると、途中に吊り橋があった。吊り橋の下には川が流れていて、激しい水流の音がした。かなり流れは速いようだ。
「高いところは大丈夫ですか?」
「大丈夫だ」
今晩は穏やかで、強い風も吹いていない。だから揺れて恐いということはなかった。しかし、ギシギシとロープの軋む音を耳にすると、自然と慎重になった。
「そういえば、聖美は高所恐怖症だったな」
「そうなんですか」
「確か、観覧車がダメだって聞いたことがある」
「観覧車?遊園地というところにある乗り物ですね」
「よく知ってるな」
「地上に降りる前に読んだ本に、載っていました」
聖司は、どんな本なんだと苦笑した。吊り橋を渡りきると一端、足を止めて、梨々菜が敵の正確な位置を割り出した。
「あっちです。落ちないように、気を付けてください」
一歩間違えれば転落しそうな、川に沿って続いている小道を走る。高いところが苦手ではないと言っても、これは結構な恐怖感があった。川は見えなく水流だけが聞こえるということが、いっそう不安を募らせる。
「なあ梨々菜。浄玻璃の鏡って、無くなるとやばいのか?」
「そうですね。浄玻璃の鏡というのは、人間が生前に犯した罪を映す鏡で、閻魔様が天国行きか地獄行きかの判決を下す時に使う鏡なのです。地球上では毎日、たくさんの人が亡くなっていますから迅速に、そして正確に判定するための重要な道具です」
「じゃあ今は、判決待ちの霊がたくさんいるってことか?」
「いえ、鏡を使って判定をするのは、かなりの重罪を犯した霊だけですので、それほどの数ではないと思います。それに時間は掛かりますが、天界に残っている庇書が犯罪経歴の書類を調べて判定することも出来ますから」
聖司はこういう話を梨々菜から聞く度に、どんなに些細なことでも悪いことは出来ないなと痛感した。
「聖司さん。もうすぐ追い付きますよ」
聖司はフィルムの残りをチェックした。カメラに入っているのは、残り十枚。バックにはフィルムが八本入っている。
―――間に合えよ。
「見えました」
梨々菜の言うとおり暗闇の中に、うっすらと人影が見えた。今度はどうやら、動物ではなくて人間に憑いているようだ。
「なんか、ふらふらしているな」
走ったり歩いたり、止まっては横にふらついたりと、奇妙な動きをしていた。
「たぶん、憑かれている人間が、罪人を追い出そうと抵抗しているのだと思います。手に何か持っていますね。気を付けてください」
「おいおい。気を付けるって言っても。あれは」
手を見ると、今まで相手にしたことがない凶器、拳銃を持っていた。そして、よく見ると、その人間は警官の制服を着ているではないか。
「どうりで。梨々菜、膜は拳銃にも有効なのか?」
「大丈夫です。何とかします」
罪人が二人の足音に気が付き振り返ったと思ったら、有無を言わせず銃口を向けた。
「多重膜」
梨々菜は引き金が引かれる前に反応して、膜を三重に張った。
二回三回と轟音が鳴り響いて弾が発射されたが、膜の一枚に傷をつけただけで跳ね返った。
「輝」
間を空けず、聖司のために辺りを明るくする。
「よしっ」
走りながらピントを合わせることは難しいので一旦、止まってカメラを構えた。しかし、ファインダーを覗いたときには、横にあった林の中に飛び込み姿を隠していた。
「逃がすか」
聖司も、見失わないように林の中に入っていく。
「聖司さん。足下に気を付けてください」
いつの間にか、「輝」を無効にする黒雲が頭上五メートル辺りに広がって暗くなった。
その黒雲が、ゴロゴロと嫌な音を立てる。
「おわっ」
梨々菜の注意も虚しく、見えなくなっていた斜面に足を取られてしまう。たまたま掴んだ枝で転落は免れたが、折れるのは時間の問題だ。
「掴まってください」
聖司を助けようとして、梨々菜が手を伸ばした時、唯一、苦手な物が襲った。
二人とも一瞬、目が眩み雷鳴が轟いた。
「きゃあ」
出していた手を引っ込めると同時に、枝が折れてしまった。聖司が斜面を滑り落ちていく。
「うわ〜」
「聖司さん!」
すぐに気を取り直して追おうとしたが、雷は不自然とも言える間隔で梨々菜を襲った。
この雷は明らかに人為的に発生したもので、梨々菜に立ち直る隙を与えなかった。
「聖司さん。すぐに行きます」
梨々菜は大声で叫んだが、その言葉とは反対に、しゃがみ込んだまま目をつぶり動けなくなってしまった。
転がり落ちていった聖司は、梨々菜の所から十メートルも落ちたところで、やっと止まっていた。
「いてぇ。酷い目にあった。おっと、あぶねぇ」
目を開けるとそこは崖の途中にあり、ほんの畳三枚分くらいの広さしかなかった。起き上がろうと手を付いたところには地面がなく、もう少しでバランスを崩して落ちるところだった。
下を覗くと、さっきの川が流れていた。落ちたら死んでいたかも知れない。
「いたたたた」
落ちなかったという安堵を感じる暇もなく、身体中に激痛が走った。どうやら転げ落ちたときに、あちらこちらをぶつけたらしい。
「こんなに落ちてきたのかよ」
身体をさすりながら斜面を見上げると、梨々菜のいる辺りに稲妻が何本も見えた。
「敵の攻撃か?」
助けに行こうにも、足場の悪いこの斜面を登るのは至難の業だ。まして自分の身長より何倍もある高さを、ジャンプすることなど出来ない。土の斜面から出ている蔓を使って登ろうとしたが、足場が悪すぎて無理だった。
「聖ちゃ〜ん。どこ〜」
途方に暮れている聖司の耳に、いるはずがない人物の声が聞こえてきた。
「聖美?」
後ろを振り返ると、川を隔てた向こうの山の茂みから聖美が現れた。聖司はゴーグルを外して、何度も目を擦った。
「あっ、聖ちゃん。やっと見つけた」
途中で、聖司達とは違う方向へ続く道へ入ってしまった聖美は、せっかく足が速くなったのに遠回りをしていた。しかも、川を隔てた山の中で迷っていた。
「もう。どこに行ったのかと思って、探し回ったんだから」
「そんなことより、何でそこにいるんだ。聖美、聞いているのか?」
聖美は話しを聞かずに、首を伸ばして暗がりを見下ろした。
「う〜。下まで何メートルあるのかな?落ちたら死ぬかな」
「危ないって」
高所恐怖症だということを知っている聖司は、戻れと手を払う。
「私は犬じゃないよ。高くて、ただでさえ寒気がしているのに。聖ちゃん、上から落ちてきたんでしょ。ドジね」
上に広がっている異常な雲と雷にも動じず、冷静に分析された。
「いや、だから。俺の話を聞けよ」
「上に梨々菜さんがいるんでしょ。いま、そっちに行くから。壁際に、どいて」
自分の所に来ると言うことは、ジャンプをしてくるということだ。しかし、聖美のいる場所から、どう見積もっても十メートルはある。幅跳びの男子世界記録よりも長い距離を飛ぶことなど、出来るはずがない。聖美が閻をかけられていることなど知らない聖司は、慌てて叫んだ。
「おいおい。やめろ」
聖司は、いつか見た悪夢を思い出していた。いま目の前にある隔たりはまさに、悪夢に出てきた暗闇の落とし穴と同じだ。
助走をとるために後ろに下がった聖美は、大丈夫だからと微笑んで、試合の時のように手を上げた。深く深呼吸をして集中すると一端、目をつぶり、カッと見開くと足を踏み出した。
「やめろーーー」
構わず踏み切った聖美の身体は、下まで何十メートルもある宙を歩いているように移動してきた。そして、落ちると決めつけていた聖司の目の前に、両足を滑らせ、砂煙をたてながら着地した。
「お待たせ。ビックリした?」
わなわなと震えていた聖司は、聖美の頬を軽く平手打ちした。
「聖ちゃん?」
そして、頬に手を当てて驚いた聖美の肩を掴んで引き寄せ、力一杯に抱きしめた。
「馬鹿野郎。ビックリするじゃないか。お前に、もしものことがあったら、俺は、俺は」
力強く、しかし優しく包んだ聖司の腕と身体から、小刻みに震えが伝わった。
「ごめんなさい。聖ちゃんの側に、一秒でも早く来たくて」
「俺の方こそ叩いたりして、ごめん。痛かっただろう」
「ううん。痛くなんかないよ。とっても優しかった」
聖司の気持ちに触れた聖美は、得意気に笑みを浮かべた。
「それにしても、よく跳んだな」
改めて崖下を見てから、聖美の足を見た。
「聖ちゃんを追い掛けていた途中で、千代さんに会ったの。そこで、魔法をかけてもらったの」
「魔法って、羅々衣の閻か」
「閻て言うんだ、あれ。それを足にね」
試しに、その場で軽くジャンプしただけで、聖司の頭よりも高く跳び上がった。
「凄いな。それなら、いけるかな」
いけるかなとは勿論、自分を抱えて上までジャンプしてもらうことだった。聖美に説明すると、首を傾げた。
「聖ちゃんを抱えて、ここを登るの?う〜ん。強くなったのは脚だけだから、無理だよ」
「そうか。脚だけか」
「私だけなら行けそうだから、私が登って梨々菜さんを助けてくるよ」
「大丈夫か?」
「それは、行ってみないと分からないよ。行動あるのみ」
聖美の言うとおり、何事も行動しないと始まらない。
「じゃあ、頼む。無理はするなよ」
「うん」
聖美は元気よく頷いた。そして屈伸運動をして膝を付き、クランチスタートの体勢を取った。
「位置について、よーい。ドン」
自分で掛け声を掛けて、勢いよく飛び出した聖美は、土の斜面を一直線に駆け上っていった。