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真夏の太陽が早々に高く昇り、早く起きろ、夏は短いんだぞとけしかけるように輝く朝、朝食の準備をあらかた終えたウーヴェが、ステッキをついてゆっくりとベッドルームに戻ると、珍しくベッドの上でリオンが片腕を突き上げるように伸びをしていた。
「おはよう、リーオ」
起こされる前に起きているなんて今日は雪が降るんじゃないかと笑うウーヴェを眠気が全く宿っていない双眸で一瞬だけ睨んだリオンだったが、目が合うと同時に顔中に朝一番に見ることができる最高の笑みを浮かべて両手を広げて手招きする。
「おはよ、オーヴェ」
広げた腕の間に収まれと笑顔で促されて隣に腰を下ろしたウーヴェは、微苦笑しつつ誘われるままに寝起きのリオンの背中に腕を回すと、同じように背中を抱きしめられる。
「腹減った!」
「チーズオムレツとスクランブルエッグのどっちが良い?」
互いの背中に掌で挨拶をした後、交互に頬にキスをし、これから食べたいのはさあどっちと、ウーヴェも珍しくおどけた口調で問いかけると、リオンが考え込むように天井を見上げるが、アキが何度か作ってくれた、卵をくるくる巻いて焼いたものが食べたいと宣い、ウーヴェが眼鏡の下で軽く目を瞠る。
「何て言ったっけ、あれ。ちょっと甘かった卵料理あっただろ?」
「……ああ、何かあったな、そういえば」
さすがに料理名もレシピも作り方も分からないものを今から作ることが出来ないが、千暁に作り方を聞いておこうと苦笑し、ベッドから立ち上がったウーヴェに釣られるようにリオンも立ち上がり、全身に力を込めた後一気に脱力させて体内に残っていた睡眠の残滓を追い出す。
その動きにウーヴェがステッキを拾ってコツンと床を一つ叩くと、途端にリオンの背筋が更に伸びる。
「オーヴェ、スクランブルエッグ食いてぇ!」
「分かった。10分で用意できるかな」
「大丈夫!ICE並みの早さでシャワーしてくる!」
ウーヴェの頬に再度キスをしたリオンは、だから絶品の朝食を食べさせてくれと満面の笑みで頼み込み、返事を聞くよりも早くにベッドの上を走ってバスルームに突進すると、ご機嫌の証の鼻歌交じりにシャワーブースのドアを開け放つ。
見ることはなくても想像出来るそれにウーヴェがなんとも言えない顔で首を左右に振るが、朝一番に不機嫌になられるよりもああして機嫌の良い顔を見せて貰える方が遙かにマシだと己を納得させてベッドルームから再度キッチンに向かうのだった。
己がリクエストした朝食を、それを作ったウーヴェが驚くほど美味そうに食べ、食後にいつも飲んでいるカフェラテも絶品に仕上げたリオンは、朝食を食べ終えたばかりだが晩飯にシュニッツェルを食いたいとマグカップ片手に呟くが、ウーヴェが返事をするよりも先に何かを思い出したように蒼い目を限界まで見開く。
「あー!」
「な、何だ?」
突然真横で上がった大声にウーヴェが飛び上がり、何だ煩いと条件反射のようにリオンを睨むが、忘れてたとも叫ばれて今日何か大切な用事でもあったのかと問いかける。
「いや、今日じゃないけど、来週ムッティのお供でパーティに参加するんだった」
「母さんのパーティ?」
お供と言うことは会社関係のパーティかと問われて小首を傾げたリオンは、ウーヴェの視線に気付いて顔を覗き込み、再び何かに気付いた顔で今度は微苦笑する。
「それがプライベートでもムッティのお供はイヤじゃねぇよ」
「……そうか」
「そうそう。……女性役員ばかりが集まって定期的にランチを食ってるんだけどな、いつもは会社でケータリングを頼んでるんだよ」
だが、今回は役員の誰かの友人が川沿いの立地の良い場所にフレンチレストランを開業したらしく、そこでランチをすることになったと、少しだけ肩を落としたリオンが呟く言葉にウーヴェが軽く目を見張っていたが、当たり前の顔でマグカップを差し出されてそれを受け取り条件反射的に息を吹きかけて少し冷ました後、思案顔のリオンに返して己のマグカップを手に取る。
「それが何か問題でもあるのか?」
「問題はねぇ。……アリーセも来るんだよなぁ」
「エリーが?」
「アリーセも役員に名前が入ってるからなぁ」
「だったらおかしいことじゃないだろう?」
来週のそのランチ会にアリーセ・エリザベスが来ることに何の疑問も持たないウーヴェだったが、ミカはどうなんだと呟くと、リオンも軽く眉を寄せる。
「ランチ会にも一緒に出るって」
「ミカが会社のランチ会に出る? 珍しいな」
アリーセ・エリザベスの夫であるミカは世界を舞台に戦ってきたラリードライバーで、レースがある国や地方へ年中転戦しており、アリーセ・エリザベスも夫とともに世界を飛び回っていたはずだが、夫婦揃って来ることは流石にクリスマスなどのホリデーシーズンぐらいしかなかった。
その夫妻がランチを食べにやって来るだけではなく、今まで積極的に関わってこなかった妻の家業の関係のパーティに夫婦揃って出席するのかと、一瞬覚えた違和感を口にすると、リオンも同じような表情でウーヴェへと視線を向ける。
「そう思うよな?」
「ああ。何かあったのかな?」
ラリードライバーとして世界中を転戦するミカだったが、レース前後のセレモニー的なパーティや優勝記念のパーティ以外はあまりそういった華々しいことは好まず、纏まった休暇が取れれば母国であるフィンランドに帰国し、森の家と呼んでいる別荘で夫婦水入らずの時間を過ごすことを好んでいた。
そのミカがパーティに出るなど珍しいと口にするウーヴェにリオンも同じ顔で頷き、何かあったのかと呟かれてうんと頷く。
「……あの二人のことだ、離婚だのなんだのではないと思う」
「それは天地がひっくり返ってもありえねぇよな」
「ああ」
学生時代は氷の女王と称されていたアリーセ・エリザベスが、世界中を転戦する夫に付き従っている光景は同級生や彼女を表面的にしか知らない人たちの間では意外だと驚かれたりからかわれたりしていたが、彼女の本質を誰よりも良く知るウーヴェや、ウーヴェと一緒にいることで知ったリオンなどからすれば、いつまで経っても仲の良い夫婦だよなぁと感心する程だった。
「……ミカの引退に関係することかな」
「……そうかも、しれないな」
ラリードライバーとして世界ランクの上位に常に居続けるミカだったが、加齢による肉体的精神的な衰えを経験でカバーできなくなってきたのかとリオンが呟き、ウーヴェも悲しいことだがそうかも知れないとため息交じりに呟くと、気分を切り替えるように頭を一つ振ってカフェラテを飲み干す。
「そろそろ支度をしないと遅刻するぞ、リーオ」
「あ、やべ」
来週のランチ会の話をしていて今日遅刻すれば親父のゲンコツを食らうと慌てて立ち上がるリオンに微苦笑したウーヴェは、エリーから連絡があれば教えてくれと、キッチンを出ていく背中に投げかけ、食べ終えた食器を食洗機に放り込んでいく。
リオンに連絡をくれと言ったものの、もしかすると姉から直接連絡が入るかも知れないと思い直し、こちらにも連絡があれば教える事を伝える為と出勤の準備をするためにウーヴェもキッチンを出るのだった。
その日は晴れ渡る青空に自然と笑顔になるような心地よい日で、車から降り立ったリオンは、パイロットサングラスをジャケットの胸ポケットに入れながら助手席のドアを開け、所謂女優帽と呼ばれる鍔の広い帽子を被ったイングリッドが出て来るのをのんびりと待つ。
「……あら、中々良い場所にあるわね」
イングリッドが駐車場から見える景色に眼を細め、川沿いで静かだし雰囲気もいいと笑ってリオンを見上げると、リオンもぐるりと周囲を見回してまんざらでもない顔で頷く。
「ウーヴェと来ようと思っているのでしょう?」
「さすが相談役、よく分かってる」
「ふふ。私もレオと今度来ようと思ったところよ」
愛する人と一度来てみたい店構えねと笑ってリオンの腕に腕を回したイングリッドだったが、一瞬だけ遠慮する様な気配を感じてそれをさせない様に腕に力を入れる。
「……若い愛人とか誤解されてマスコミに騒がれないかな、俺」
「あら、それも楽しいわね」
「楽しくないって、ムッティ」
日中、親しげに腕を組んでいる所を知らない人が見れば誤解すると微苦笑するリオンにイングリッドが茶目っ気たっぷりに眼を細め、若い愛人も素敵ねと口元に白くてたおやかな手を充てる。
「今日のランチ、アリーセもミカも参加できなくて残念だったなぁ」
「そうね」
本来ならばアリーセ・エリザベスとその夫のミカもランチに参加する予定だったが、数日前にベルリンで一仕事を終えた後、移動による疲労から体調不良に見舞われたらしく、両親の家にやってくるだけが精一杯だったのだ。
妻を誰よりも何よりも大事に思っているミカがそんな時に傍を離れるはずがなく、今朝も妻の側にいたいからランチを急遽キャンセルするとイングリッドに伝え、その言葉通りアリーセ・エリザベスの横にいて彼女を支えていたのだ。
オープンするのはこれからだからまだまだ来る機会があるだろうと笑い、駐車場から続く蔓薔薇のアーチとテラコッタで作ったアプローチを通り抜け、待ち構えていたスタッフが丁重に頭を下げる姿にイングリッドも満面の笑みで頷き、帽子を預けて別のスタッフに奥の特別室へと案内される。
イングリッドと談笑しながらもリオンの目は周囲の様子をしっかりと窺っていて、クロークを通り過ぎたフロアのテーブルの数、プレオープンの為に客席に人の姿はなく、スタッフらが特別室の準備の為、少しだけ緊張した面持ちでそれぞれの仕事をしていた。
その様子をリオンはじっと見つめる事なく脳味噌に叩き込み、スタッフの動きから厨房の位置を大体把握したりと、一見するだけでは絶対にわからない様子で記憶していくが、それは前職でヒンケルというある意味稀有な存在の下で今ではパワハラだと訴えられかねない鍛えられ方をした賜物で、その癖は抜けないなぁと呑気に胸中で呟く。
「どうしたの?」
周囲に意識を向けていることにイングリッドが気付いたのか、組んでいた腕を軽く引っ張られて我に返り、店の様子を伺っていたと彼女の耳に囁きかけると、何か気になることがあるのかと小さく問われてくすんだ金髪で出来た尻尾を左右に振る。
「クセみたいなもの」
「そう。――皆様、お揃いね」
特別室である事を示すプレートが控え目に光るドアを開けて案内され、一礼するスタッフに笑顔で頷いたイングリッドは、部屋の中をぐるりと見回し、丸テーブルが二つ用意されていて、奥にあるテーブルには他の女性役員がすでに座ってイングリッドが来るのを談笑しつつ待っていた。
もう一つのテーブルには役員の秘書達が座っていて、イングリッドがスタッフに案内されて用意された席に座るのを見届けたリオンが、秘書たちが座っているテーブルの空いている席に腰を下ろす。
部屋の中で上座と下座に分かれてしまった事に一瞬ひやりとしたものを感じたリオンは、秘書達が雑多な感情を込めて己を見る視線を黙殺しつつ、これもまた癖のようなもので、万が一の時の避難経路を確かめるように川に面した壁一面が天井まである高さの掃き出し窓であることを確認し、イングリッドを連れて逃げる際、最悪その窓を蹴り破って川に飛び込めば何とかなると、最悪の事態をシミュレートし終えた頃、複数のスタッフらが料理を運んで来る。
「素敵なお店。いつもは会社で食べているけれど、時々こうして外で食べるのも悪くないわね」
「そうですね」
イングリッドの言葉に笑顔で応えたのはこの店の関係者でもある役員で、イングリッドに店を褒められた事でこの店の良い宣伝にもなると顔を綻ばせていた。
その彼女の言葉に、ああ、多分この店にウーヴェと一緒に来る事は無いだろうなぁと内心で呟きつつもリオンの視線は室内を探っていて、開店したばかりの為か今日の為かは不明だが、立派な花や観葉植物が掃き出し窓の前に等間隔に並べられていて、店の雰囲気を落ち着きながらも華やかなものにしてくれていた。
仕事の会食ではあるが仕事からは少し離れている不思議な雰囲気の中、先日観に行ったオペラがよかっただのピアノリサイタルがよかっただのと、リオンにとってはドイツ語の筈なのに理解できない言葉が上品な大きさで室内に花を咲かせ始める。
リオンにとっては目の前に並ぶフレンチ料理も最近ようやく馴染んできたぐらいで、食べ方やナイフとフォークの使い方一つで誰かに何かを言われないかと冷や汗ものだったが、ふとこんなに緊張しながら食事をしたことなど数えるほどしかないと思い、こういった場面は何度か経験している筈なのに何故だと自問するが答えは明白で、その時々に必ずウーヴェやレオポルドが傍にいたのだ。
ウーヴェはリオンがテーブルマナーを知らなくてもそれを馬鹿にすることもなく、知らないのなら今から覚えればいいと教えてくれ、レオポルドも知らないのかと呆れながらも決して知らないことを小馬鹿にするような態度は取らず、態度は尊大で厳しいがリオンにとってその時必要な事を言葉ではなく態度で教えてくれていたのだ。
そんな二人の側にいる事で自然とテーブルマナーも覚え、今ではこうして己を快く思っていないであろう人達に囲まれた食事であっても馬鹿にされるような失態を犯す事はなくなっていた。
ああ、俺は本当にオーヴェに愛され親父にも可愛がられているとナイフとフォークを使いながら実感し、いつでもどこでも支えてくれているのだとも気付き、顔を上げて人の肩越しにイングリッドと目が合うと彼女も己の母とは違った優しさで見守ってくれている事に気付く。
己の出自は人々から同情を買うほど最低最悪なものだが、今の己を支えてくれる人達は惜しみなく愛情を注いでくれ、どれほど愚かな事をしたとしても一度雷を落とした後はまた優しく抱きしめて受け入れてくれる愛情深い人達だとも気付くと、食べている料理名も分からないそれらに不思議な味付けが施されたような美味しさを感じる。
そうして出された料理を同席した人達に不快感を与える事なく綺麗に食べ終えたリオンは、デザートがオレンジのパイだと教えられてリアのケーキが食べたいと唐突に思い出すが、今日はおそらく食べる事が出来ないと思案した時、スタッフが夏に相応しく爽やかに飾り付けられたホールのパイを二つと、夏の花を可愛らしくまとめた小さな花束を載せたワゴンを押して入って来る。
そのスタッフが己の後ろを通った時理由など分からないがリオンの神経に触れる何かがあり、同じテーブルの秘書たちが訝る視線を無視して立ち上がると怪しまれるのも気にせずにイングリッドの傍へと向かおうとするが、一足早くスタッフがワゴンを彼女の横に置き花束を差し出そうとする。
「……こちらの花束は今日の来店の感謝の気持ちです」
「あら、気の利いたこと。嬉しいわね、ありがとう」
「Nein!」
イングリッドが笑顔で花束を受け取ろうとした時、横合いから伸びてきた手が花束を無造作に掴んだかと思うとその花束が彼女から最も離れた窓際に向けて放物線を描いて飛んでいくが、花の中から花粉か何かかと思ったと後に証言されるような色合いの霧がふわりと広がり、花束の下にいた秘書の髪や顔やスーツに付着する。
その瞬間、耳を押さえたくなるような悲鳴が室内に響き渡り、それを皮切りに女性役員たちが椅子から転げ落ちるようにその場にしゃがみこんで悲鳴をあげる。
「くそっ……!」
花束を手渡そうとしたスタッフが舌打ちをしワゴンを押しのけて部屋から出て行こうとするが、他の役員のように椅子の横にしゃがみこんだイングリッドの頭に脱いだジャケットを被せたリオンは、背中を向けるスタッフを引き留めようと念の為に持ってきていた拳銃をホルスターから抜こうとするものの、今は刑事という身分ではない事を思い出し、テーブルに残っていたナイフを掴むと同時に男の肩辺りを目掛けて投げる。
「ぎゃ……っ!!」
ナイフが奇跡的に男の肩に突き刺さり男が足を止めたのに気付いたリオンが床を蹴って半ば飛んでいるかのように男のそばに駆け寄ると、まだ逃げようとする男の襟首を掴んで渾身の力で床に引き倒す。
「……っ!!」
「誰に頼まれた?」
ナイフが刺さった肩が床にぶつかった痛みに男の口から声にならない悲鳴が上がるが、逆の肩を踏みつけたリオンが無表情に男を見下ろし、背筋が震えるような声で問いかける。
「警察と救急車の手配を頼む」
花粉のような霧を幸い被らなかったが蒼白な顔で事の成り行きを見守っている秘書の一人に今すぐ通報しろと命じたリオンは秘書が慌てて警察に通報するのを横目に、男の襟首を再び掴んで今度は体を引き起こすとその顔を覗き込む。
「誰に命令された?」
「……言うはずが……」
「ないよなぁ。じゃあ仕方ねぇ」
言いたくなるようになってもらおうかとリオンの顔に見たものの背筋が凍りつきそうな笑顔が浮かんだ瞬間、部屋の奥から震えているがそれでも優しさを失わない声がリオンの背中に投げかけられる。
「リオン、もう十分よ」
わたくしは怪我をしていない、だからそれ以上は必要ないわと目の前で起きた出来事をなんとか理解して恐怖に顔を強張らせながらもリオンに必要以上に暴力を震わせないように制止したのは、リオンのジャケットを肩に掛けて震える手で己の腕を抱きしめているイングリッドだった。
「……ムッティ」
「わたくしは大丈夫。だからそれ以上は必要ないわ」
「でもさ、あの花束、催涙ガスだったからまだ良かったけど、爆弾だったら……」
花束の中に仕掛けられていたのが催涙ガスであるとリオンはいち早く見抜いたが、もしそれが爆弾などであれば今頃この狭い部屋の中は血の海になっており、その海にイングリッドが沈んでいたかもしれないのだ。
己の予想に体を震わせたリオンは、男の膝裏を軽く蹴り飛ばしてその場に膝をつかせると、ナイフが刺さっていない肩を今度は背中から蹴り飛ばして床に這い蹲らせる。
「や、めてくれ……っ!」
「スタッフを早く呼びなさい!」
これ以上リオンの手の届くところに犯人がいればそうとは見えない激情が犯人を必要以上に傷つけてしまう、そしてそれはリオンにとっては良くない事だと気付いたイングリッドがただオロオロしているだけで何の役にも立っていない秘書達に珍しく大きな声で命じ、慌てて部屋を飛び出していく様に厳しい表情を浮かべる。
「リオン、わたくしがもう良いとお願いしましたよ」
その意味は分かっていますねとその厳しい表情のままリオンを見つめたイングリッドは返事がないことに嫌な予感を抱くが、それが具現化する前に蒼白になったスタッフが秘書とともに戻ってきたことと遠くに聞こえ始めたサイレンの音にも気付いて不安そうに震える役員達を一人一人見回し、ひとまずは大丈夫だから椅子に座りましょうと微苦笑を浮かべつつ率先して椅子に腰を下ろすのだった。
そのイングリッドの声がリオンにも届いているはずだったが、恐怖に涙を流す犯人の背中を踏みつけたまま微動だにしないのだった。
プレオープンしたフレンチレストランで催涙ガスが撒かれ負傷者が出ているとの一報をコニーが受けたのは、平和な一日だなぁ、今日は本当に平和だと同僚達と談笑しつつ書類整理をしている時だった。
その一報で平和が掻き消えたと皆が同時に溜息をつくがそれで気分を切り替えたのか、事件現場のレストランに出動する準備をし始める。
コニーの動きに自然とヴェルナーやマクシミリアンなども己のやるべきことを行い、最近では慣れてきて即戦力になりつつあるガビーも誰と行動しても平気なように身構えていた。
そんな彼らの元に続報が飛び込んでくるが、ある意味凶報であり吉報でもある報告がもたらされたのは、ヒンケルが出動の準備を整えて部屋から出てきた時だった。
「レストランにいるのは、バルツァーの女性役員ばかり!?その中に会長夫人もいる!?」
通報により駆けつけた制服警官からの連絡にヴェルナーが緊張から上擦った声を上げてしまうが、被害の詳細を聞き皆が顔を寄せる。
「コニー、どうした?」
「被害者がどうもバルツァーの関係者のようです」
「……まさか、会長か?」
バルツァーという社名はこの街で暮らしていれば至る所で目にするものだったが、ここにいる刑事達にとってはそれ以上に親しみを感じる名前でもあった。
その会社の役員と聞けばまず出てくるのが、南ドイツの鉄鋼王と渾名される事もあるレオポルド・バルツァー会長の顔で、ついでその長子であり社長であるギュンター・ノルベルトの端正な顔だった。
だが、ヒンケルが聞かされた名前がイングリッド夫人だった為、出動準備をしていた心身を止めて目を見張ってしまう。
「会長夫人が現場にいるのか!?」
「どうもそのようです」
現場はまだ正式にオープンしていないレストランの個室で、催涙ガスが撒かれたようだとコニーが現状把握している事実を伝えると、ヒンケルの横でガビーが小首を傾げる。
「どうした?」
「救急隊員が先に到着したのでしょうか」
「?」
ガビーが何を言いたいのかが理解できず、どういう事だと視線で促したヒンケルに、二人の様子にコニーやマクシミリアンも意識を向ける。
「いえ。催涙ガスだとどうして分かったんですか?」
誰かが催涙ガスを撒いたと叫んだのかと、それが気になったと律儀な態度で上司に報告するガビーにヒンケルも目を見張ってしまうが、部下の疑問への解答はヴェルナーが電話口で挙げた驚愕の声によってもたらされる。
「リオンが現場にいる!?」
「!?」
そのひと言がもたらしたのは決して目には見えないがそれでも確実に感じることのできる安堵感で、同僚達の雰囲気が一瞬にして変化したのを感じ取ったガビーは、リオンという名前を聞くだけでどうしてここまで雰囲気が変わってしまうのかという疑問を浮かべるが、それを口に出して聞くことはしなかった。
刑事を辞めて数年が経過しているはずの男が現場にいる、ただそれだけで安堵感を与えられるのはどんな男だという、以前から感じていた好奇心が胸の中でムクムクと湧き上がるのを止めることはできなかった。
「リオンがいたのなら催涙ガスかどうかは判断できるな」
「そーですね。ただ、会長夫人も一緒なので……」
別の意味で心配ですと、元同僚の気性をよく知るコニーの呟きにマクシミリアンも仰々しく頷くが、その後小さく十字を切ったのをガビーはしっかりと見ていて、いまの祈りは誰に対するものかと問いかけたくなる。
「とにかく現場に行くぞ!」
「Ja!」
ヒンケルの一言に皆が声を上げて出て行くもの、ここに残って連絡係になる者と自然と分かれ、ガビーもヒンケルについて部屋から出て行くのだった。
負傷者を乗せた救急車が事件を聞きつけて集まってきた野次馬の波の中を遠ざかっていくのを本当ならば最高の景色の窓際から見守っていたイングリッドは、人ひとり分の距離を置いて傍に立っているリオンをちらりと見やり、目を合わさないように避けられた事に気付いて小さく溜息をこぼす。
事件現場になった特別室で先ほどまでイングリッドも幾度か顔を見たことのある刑事に事情を聞かれ、蒼白な顔で今すぐ保護してくれ、でなければこいつに殺されると駆け付けた刑事に縋り付いた犯人を無言で睨みつけていたリオンに労いの言葉を掛けようと手を伸ばしたイングリッドだったが、その手をそっと躱されて目を見張ると、リオンがなんとも言い表し難い顔で俯きただ一言ごめんと謝ったのだ。
何の謝罪かも分からずまた謝られる必要などない為その謝罪は何のものだと問い返したが、リオンの口からは理由が流れ出すことはなく、そしてその結果今のように人ひとり分の距離を取りながらも傍にいてくれるのだ。
一体何がリオンにそのような態度を取らせるのか疑問だったが、文字通り泣きそうな顔で会社から駆け付けてくれたヴィルマが先程の取り乱しようが恥ずかしいと僅かに頬を染めつつもイングリッドの前に膝をついて視線を合わせ、もう間も無く会長や社長が到着しますと教えてくれた為、彼女の顔にも自然と安堵の色が浮かぶ。
「そう。二人が来てくれるのね……リオン、聞こえていて?」
「……Ja.」
イングリッドの呼びかけに短く返すリオンの様子がおかしいと流石にヴィルマも気付いたのかどうしたのかと問いかけるようにイングリッドを見上げ、見られた方も途方に暮れた顔で首を左右に振るだけだった。
「リオンが花束を取り上げてくれたおかげでわたくしは怪我もしていないのだけれど……」
犯人が警察に連行されてからずっとあの調子なのだとリオンに聞こえないように声を潜めた二人だったが、元同僚達が駆け付けた時にはいつもと変わらない明るい、ふざけている様にも取れる態度で事件について手短に報告していたのに、彼らが引き上げた後からの様子の変化にもしかして刑事が懐かしくなったのかと二人が同時に顔を見合わせる。
「リオン、久しぶりに警部達と会って刑事だった頃が懐かしくなったの?」
ヴィルマが立ち上がりながらリオンに微苦笑交じりに問いかけると、考えてもいなかったことを問われたように驚いた顔で見つめ返されてヴィルマが逆に驚いてしまう。
「いや? そんな事考えたこともねぇ」
刑事だった頃はもうとっくに己の中では過去のことだし特に懐かしさも感じないと返されて胸をなで下ろすが、イングリッドが口を開こうとするとあからさまに顔を逸らしてしまう。
「……さっきからどうしたの?」
今の態度も一体どうしたのとヴィルマがリオンの態度を流石に咎めた時、慌ただしい足音とざわめきが室内にまで届き三人でそちらに顔を向けると、不安と安堵とを綯い交ぜにした顔色でレオポルドとギュンター・ノルベルトがイングリッドとリオンの名を呼びながら入ってくる。
「リッド! リオン!」
「レオ……!」
肩にはリオンが被せたジャケットを羽織ったままレオポルドの前に駆け寄ったイングリッドは、最も安心できる夫の腕の中で初めて素直に感情を出す。
「……ああ、もう大丈夫だ、リッド。もう大丈夫だ」
腕の中から聞こえる不安を宥めるように何度も大丈夫だと繰り返すレオポルドにイングリッドも不安を吐き出して落ち着いたのか夫の背中を強く抱きしめた後、頬にキスをされて夫の腰に腕を回す。
「リオンの様子が変なの」
「負傷したのか?」
妻の心配そうな声に夫が部下であり家族でもあるリオンを見ると、レオポルドですらも見たことがない表情でこちらを見返して来た為、さすがにおかしいと感じ取ったレオポルドが追いかけて来たヘクターに顔を振り向けて一言二言何かを告げ、イングリッドをギュンター・ノルベルトに預けてリオンの前に向かう。
「どうした、リオン」
「……親父……あ、ボ、ス……」
レオポルドの声につい親父と呼びかけて今は仕事中だと思い出した顔でボスと言いなおすリオンの混乱ぶりにレオポルドが驚くものの、必要以上にそれを顔に出さずにどうしたともう一度問いかけるが、明確な言葉は伝えられずリオン自身がかなり混乱していることに気付く。
「……お前も大変だったな。リッドをよく守ってくれた、礼を言う」
お前が一緒にいてくれて本当に良かったとリオンの腕を大きな掌で撫でて感謝の言葉を伝えたレオポルドだったが、でも汚してしまったと自分が取り返しのつかない悪事を働いたような顔で呟かれてしまい、何のことだと眉を寄せてしまう。
「……親父、ごめん、ムッティを……汚しちまった」
「何を言っている、リオン。リッドは何も汚れてなどいないぞ」
お前が何を気にしているのかは分からないがそんなことは気にすることじゃないともう一度リオンの腕を撫でたレオポルドは、振り返って妻の顔に浮かぶ困惑と肩を竦める息子に溜息をつき、俯いて視線を合わせようとしないリオンにも溜息をついてしまうのだった。
ヘクターからの切羽詰まった電話をウーヴェが受けたのは、調子が良くなったからミカの運転でドライブに行って来たとジェラートを手土産にアリーセ・エリザベスとミカがやって来た時だった。
だから突然やってくるな、連絡を入れてくれと何度目かの姉の来訪に溜息をついていたウーヴェだったが、姉夫婦の来訪が嬉しくないわけはなく、その後は笑顔に切り替えてアリーセ・エリザベスとミカの頬に久しぶりのキスをし、一緒にジェラートを食べようとリアも誘ったのだが、ヘクターの電話で平和な時間が一瞬にして緊張したものに変化してしまう。
「え? ……母さんが事件に巻き込まれた?」
『はい。リオンがそばにいたのでイングリッド様は負傷されていません』
「ああ、良かった。父さんやノルは?」
『今お二人とも現場になったレストランにいらっしゃいますが……』
ヘクターとの会話をウーヴェが続けるのを見守っていた三人だったが、言葉の端々から何か大変な事があったと気付きリアがジェラートを冷凍庫に入れる為に席を外し、アリーセ・エリザベスがミカの腕に不安そうに身を寄せる。
「……リオンの様子がおかしい?」
『はい。……会長がウーヴェ様を呼べ、と』
ヘクターの電話の主旨をようやく理解したウーヴェが一つ頷き、待合室のカウチソファから立ち上がると同時に不安そうに見上げてくるアリーセ・エリザベスに手短に事情を説明する。
弟から事情を聞いた姉は無駄に追求などせずに同じように立ち上がると、今から一緒にレストランに向かうから住所を教えなさいとヘクターに聞こえるように声をあげる。
「ヘクター、エリーとミカも一緒に店に行く。リオンには待っていてくれと伝えてくれ」
どんな様子かは顔を見ないと分からないがとにかく今すぐ行くから伝えてくれと繰り返して通話を終えたウーヴェは、キッチンスペースから顔を出すリアに手短に事情を説明し、後を頼むと伝えると診察時に着用しているブレザーをカウチソファに脱ぎ捨て、ステッキを頼りにレストランに出向く準備をするのだった。
そして三人で駆けつけたレストランでは顔見知りの制服警官が二、三名残ってスタッフと何やら話しているだけだった為、家族だと告げて店内に入り、外の喧騒とは掛け離れた静けさの中に沈んでいる特別室に入る。
「リオン!」
ステッキを頼りに真っ先に名を呼んだのはリオンで、その声に居た堪れない様子で見守っていたヴィルマとヘクターの顔が安堵に緩み、両親と兄も安堵の溜息をこぼす。
「……オーヴェ……」
「ああ……母さんを守ってくれたんだな、ありがとう」
「あ、うん……仕事、だし」
ウーヴェの前でも俯き加減でぼそぼそと話すリオンなど誰も見た事がなく、とにかく尋常ではない様子に皆が顔を見合わせるが、ウーヴェがそんな家族に背中を向けたまま二人にしてくれと告げた為、末っ子の言葉に誰も逆らう事なく静かに部屋を出て行く。
先ほどとはまた違った静寂が室内を支配する中でドアが閉まっていることも確かめたウーヴェは、先ほどまでイングリッドが座っていた椅子に座ってリオンの手を取ろうとするが、すっと交わされてメガネの下で目を見張る。
「リーオ?」
「……犯人、殴った、から……」
手が汚れているしお前の嫌いな暴力を振るってしまったと顔を背けつつ呟かれて異変の全ての元凶を察したウーヴェは、ああと呟いた後、もう一度リオンの名をウーヴェだけの呼び方で呼ぶ。
「……My dearest, リーオ」
「……っ!」
その声には流石に逆らうことも逸らすことも出来ないのかリオンがウーヴェへと向き直り、俯いたままだったために見上げてくるターコイズ色の双眸と視線を重ねてしまう。
「母さんを守ってくれたんだろう?」
「……あいつを殴った手で……」
ムッティに触れることは途轍もなく罪深いことをするように感じて近づく事も出来なかったと漸く本心をこぼしたリオンに何も言わずに頷いたウーヴェは、今度は逃げられる事なくその手を取り、薄くアザが出来ている手の甲を何度も撫でる。
「本当に、良く働く手だな」
何もどこも汚れてなどいない、人を守って振り上げた拳は確かに暴力かも知れないがその理由を知っているから非難したり貶したりしないと、陰りを帯びているロイヤルブルーの双眸を見上げた後、驚きに見開かれる目の前でアザにキスをする。
「オーヴェ……っ!」
「お前が感情のまま暴力を振るうような人ではないと分かっている。お前が人を殴る時は必ず理由がある。今回も護りたい一心で殴ったんだろう?」
暴力反対と常々言っているが理由もなく頑なに反対する訳じゃないと、もう知っているだろうがと肩を竦めたウーヴェは、呆然と見下ろしてくる顔にキスをする為に尻を浮かせて目的を達成する。
「っ!」
「ダンケ、リーオ。お前がいたから母さんは怪我をしなかった」
本当にありがとう、そしてその仕事の中でお前自身も負傷しなくて良かった。
感謝の思いと人を守る事ができる強い男が最愛の人だという自慢は言葉では表せないなとも笑ったウーヴェは両腕を愛する男に向けて広げると、いつかの朝とは逆にリオンが上体を屈めて飛び込んでくる。
勢い余って倒れそうになるのを何とか堪えて背中を抱きしめ、本当にお前は強い男だと手放しで褒めると腕の中で一度だけ小さく鼻を啜るような音が聞こえる。
「……リーオ、俺の太陽」
どうかその手が汚れているなどと悲しいことを言わずに顔をあげてくれ、そしていつもの笑顔を見せてくれとくすんだ金髪を抱きしめながら囁くと、満足したような小さな吐息が零れ落ち、うんという声も一緒に転がり落ちてくる。
そして程なくして挙げられた顔を見たウーヴェは一瞬息を飲んでしまうが、その顔に何度惚れてしまうんだろうなと絶対にリオンには聞かせたくない言葉を呟いてしまう。
「オーヴェ? どうした?」
「な、なんでもないっ!」
「あー! 何でもねぇことないのに何でもないって言った!」
約束通りキス一つと叫ばれてしまい真っ赤な顔でうるさいと言い放ったウーヴェだったが、逆に手首を掴まれて顔を近付けられてしまい今度はウーヴェが顔を逸らしてしまう。
「何で逃げるんだよー!」
「う、うるさいっ!」
「もー。恥ずかしがり屋さんなんだからー」
結婚して何年、それどころか付き合いだして何年が経つ、昨夜あれだけキスしたのに何で今更チェリーボーイみたいなんだと叫ばれ、誰がチェリーだとウーヴェが言い返そうとリオンと正対すると、予想していたものとは違う己に向けた愛情だけを双眸に浮かべて見つめられていて、呼吸をすることも忘れてしまいそうになる。
「……ダンケ、オーヴェ」
お前が俺の行動を肯定してくれる、それが本当に嬉しいと囁かれて素直に頷いたウーヴェは、微かに震える唇が重なり自然と目を閉じてリオンの頭を抱き寄せる。
「……ん」
気持ちが落ち着くようなキスを交わし満足そうに離れた後、額と額を重ねてどちらからともなくくすくすと笑い出す。
「もう気が済んだか、リーオ?」
「うん……ムッティや親父に心配かけたなぁ」
「そうだな……後で謝ればいい」
互いの背中を励ますようにポンと一つ叩いた後ウーヴェが椅子から立ち上がってリオンが自然と腕を出した為、ステッキの代わりにその腕をしっかりと掴む。
「さあ、みんな心配しているから安心させよう」
エリーもミカも驚いていたぞと笑うウーヴェにリオンが鼻の頭を指先で引っ掻きながら上目遣いになるが、うん、心配かけたことは悪かったと素直に謝罪の気持ちを表明し、部屋の外で心配そうに待っている家族を安心させようと笑うのだった。