ここはAgreement《アグリーメント》、ウイスキー専門のBAR。
片側一車線の車道を斜め横断してアスファルトの車止めを跨ぐ。この段差は目測を間違えると足を取られて転んでしまう。
「おっと、と」
一本のレトロな街灯がオレンジ色の灯りを落とす。石畳の小径へと足を運ぶとセンサーライトがポツポツと点る。ユーカリの樹が揺れる煉瓦の外壁、マホガニーの重厚な扉には真鍮のドアノブが付いていた。
「いらっしゃいませ」
鈍い音を立てて扉を開けるとレトロ蓄音機が針を飛ばしブツブツと途切れながら緩やかなジャズを奏でていた。
「こんばんは」
間口は狭いが奥行きはある。ダークチェリーのカウンター席が八脚並んでいる。この店は拓真の行きつけのBARで、マスターが同じ拓真《たくま》だと知り意気投合した。
「あぁ、蒼井さん、いらっしゃいませ」
「一杯」
「シングルバレルバーボン」
「うん、それで良い」
マスターの背後には壁一面にウィスキーの瓶が並び、彼はそれらを愛でるように丁寧に布巾で埃を拭き取った。
ダウンライトに浮かび上がるクリスタルグラス、心地良く注がれる琥珀色を拓真はぼんやりと眺めた。
「マスター」
「なんですか、蒼井さん」
「この仕事、楽しい?」
シンクで手を洗いながらマスターは上目遣いで拓真の顔を見た。
「楽しいですよ、この子たちに囲まれて僕は幸せです」
「この子たち、まるで人間みたいだね」
「そりゃそうですよ、どれも違う香り、舌触り、個性溢れる僕の子どもたちです」
「そう」
マスターは木製のフォトフレームに飾られた青い花の写真を手に取った。
「これ、うちの奥さんが蒼井さんの個展で買ってきたポストカードです」
「《《俺の個展》》」
「お気に入りみたいで二階の部屋にも同じものが飾ってあります」
「それは嬉しいね」
「この花はなんですか」
「あーーーー、なんだったかなぁ」
「え、蒼井さんの作品なのに」
「ごめんね」
マスターは携帯電話を取り出すとアプリでその花を探した。
「あぁ、クチナシですって」
「クチナシ、口無し、《《死人に口無し》》か」
「そんな物騒な花じゃないみたいですよ!」
携帯電話の液晶画面を拓真の鼻先に突きつけた。目を細めてその文字を辿る。花言葉が書かれていた。
「また花言葉か」
「また、ですか」
「うちのが好きなんだよ」
「あぁ、奥さま、美人ですよね」
「知ってるの」
「なに言ってるんですか、ワイドショーで持ち切りじゃないですか」
拓真は煽るようにウイスキーを喉に流し込むと「アーリータイムズ、ロックで」とグラスをカウンターバーに置いた。
「クチナシの花言葉は」
「喜びを運ぶ」
「そうなんだ」
「なにか楽しい事があるかもしれませんね!」
「なに、なんでそんなに嬉しそうなの」
「お客さまの幸せが僕の幸せです!」
「相変わらず頭に花が咲いてるね」
「咲いてますか」
カランカランカラン
店の扉が開いた瞬間、マスターのヘラヘラと気の抜けた顔がプロフェッショナルなものへと切り替わった。その変貌ぶりに拓真は驚きと拍手を贈った。
「いやぁ、雨だよ、雨、マスター濡れてるけど良いかな」
「勿論です、タオルお使いになられますか」
「うん、ありがとう」
「何名さまでしょうか」
千鳥格子模様のハンチング帽を被り、白い髭を蓄えた身なりの良い初老の男性が、揃いのジャンパーを羽織った三人の男性を連れて店に入って来た。袖には紺谷組と刺繍されたワッペンが付いていた。
(紺、|紺谷組《こんやくみ》、なんの集まりだ?)
マスターに耳打ちする。
「ねぇ」
「はい」
「組って、まさかその系の《《組》》なの」
するとマスターは「プッ」と吹き出し、クリスタルグラスの琥珀色をマドラーで回しながら首を横に振った。
「|紺谷 信二郎《こんやしんじろう》さん、ご存知ないですか?」
「あっああーーー!」
確かに黒いジャンパーの背中には白抜きで KONYA とプリントされている。
「しっ」
「すまない」
素っ頓狂な声を上げた拓真は気恥ずかしさで目を逸らした。その姿に気が付いた初老の男性はカウンターチェアーから降りると一枚の名刺を取り出した。
「 object《オブジェクト》 紺谷組」
「はい、お騒がせして申し訳ない、紺谷信二郎と申します」
「あ、はい」
拓真が襟足を掻きながら戸惑っているとマスターが笑顔で手を差し出した。
「紺谷さん、こちらのお客さまはフォトグラファーの蒼井拓真さんです」
紺谷は暫く考え込んだが「おお!」と両手で拓真の手を強く握り、満面の笑みを浮かべた。
「あぁ、お噂はかねがね!奇遇だ!」
「奇遇、ですか」
「あなたと私は縁があった!」
「は、はぁ」
「うち《紺谷組》のモデルがCMに出演する事になりまして」
「は、はい」
「探していたんですよ!」
「探していた」
「《《彼女》》の魅力を表現出来るカメラマンを探していたんです!」
「彼女」
「はい!」
そこへ雨粒を連れて一人の女性が現れた。舞い上がる絹糸の髪は鳥の翼、逆光に透ける赤いワンピースから伸びる細い手足。
(ーーうわ)
少年のような薄い肢体、無表情な美しさ。
「お、お客さま、タオルをどうぞ」
「ありがとう」
その声はカナリアの鳴き声のようで耳に心地良かった。
「うちの結城 紅《ゆうきべに》です」
「こんばんは」
「こ、こんばんは」
その衝撃的な出会いに拓真の心臓は鷲掴みにされた。
(ーーー撮ってみたい!)
「蒼井さん、今度お時間頂けませんか」
「は、はい!」
「明後日の、そうだなぁ、お茶でもいかがですか」
「も、勿論!よろしくお願い致します!」
紺谷信二郎はもう一枚名刺を取り出すと、待ち合わせの場所と時間を指定した。
「石川県立美術館のル ミュゼド アッシュ、11:30に店内でお待ちしています」
「はい!」
「カメラをご持参頂けますかな」
「はい!」
マスターは木製のフォトフレームを胸に微笑んだ。
「蒼井さん、《《喜びを運ぶ》》、運んできましたね!」
「あ、あぁ」
その時、結城紅の赤茶の目は拓真の横顔を捉えて離さなかった。
「蒼井さん、うちの店の名前は Agreement《アグリーメント》なんですよ」
「うん、そうだね」
「意味は、合意、承諾、契約」
「そうなんだ」
「きっと紺谷さんのお仕事は蒼井さんの人生を変えますよ」
「そうかな」
チラリとバーカウンターの隅を見遣ると、結城紅の赤茶の瞳が拓真を見つめていた。ダウンライトの照明加減もあるのかもしれないが、独特の色合い、吸い込まれそうな錯覚に陥る。マスターが拓真に詰め寄った。
「蒼井さん」
「なに」
「でも、あの子は駄目ですよ」
「はぁ?」
「合意も、承諾も、契約も駄目ですよ」
「どういう意味なの」
「あの子は蒼井さんの人生を変えちゃいますよ」
「人生が変わる?」
「破滅しちゃいますよ」
「物騒な事、言わないでよ」
「僕の勘は当たるんです」
拓真は紺谷信二郎と再び握手をし、結城紅には軽く会釈をして店を出た。
借りた雨傘にパタパタと雨粒が落ちる。「僕の勘は当たるんですよ」そう言われれば言われるほど興味が湧いてくる。
(ーーーあぁ、あの子、撮ってみたいな)
マンションのエントランスで雨傘の雫を叩いていると背後に視線を感じた。
「うおっ!」
いつから待っていたのだろうか、そこには 青 が微笑んでいた。
「傘、持って行かなかったでしょ」
「あ、あぁ」
「《《迎えに行こう》》かと思って」
「ど、どこに」
「Agreement、行ってたんじゃないの?」
「なんで分かったの」
青 の指先には|大野木 拓真《マスター》の名刺がぶら下がっていた。「仕事部屋の掃除をしている時に見付けたの」と話しながらエレベーターホールへと向かう。エレベーターのボタンを押すと黄色いランプは三階から降りて来た。
「青 のポストカードが店に飾ってあったよ」
「どの花?」
「クチナシ」
「とても幸せです」
「あれ、花言葉は喜びを運ぶ、じゃないの?」
「花言葉はいくつもあるのよ」
「拓真」
「なに」
「死人に口無し」
拓真の顔色が変わった。
「私たちにはその言葉が一番似合うわね」
ーーーーーーーー
石川県立美術館 ル ミュゼド アッシュ
本多の森と呼ばれる緑地に建つ美術館内にあるパティスリーカフェ、大きな窓から眺める緑を背景に赤茶の瞳を持つ女性が微笑んでいた。
その隣には object《オブジェクト》 紺谷組の紺谷信二郎、結城紅のマネージャー|日村 隆信《ひむらたかのぶ》が座っていた。
「はじめまして、日村と申します」
「初めまして蒼井拓真です」
名刺の交換を終えた四人は紅茶をオーダーしたが、結城紅は「ケーキが食べたい」とメニューを指差した。ネイルはマットなベージュ、ピンクゴールドの華奢な指輪が少し骨ばった指を彩っていた。
「美味しい」
結城紅は「レモン果汁をふんだんに使っています」と説明された黄色いムースにナイフを入れ、とろけるヘーゼルナッツプラリネのソースを絡めながらそれをフォークで口に運んでいる。
男性モデルのような色味のない薄い唇に垂れるソース、舐め取る舌先、拓真はその危うい美しさに見惚れてしまった。
「モデルさんでも召し上がるんですね」
結城紅は口元を隠しながら「太れない体質なの」と答えた。
「では、早速ですが」
マネージャーの日村が企画書を取り出し全員に配った。紺谷が拓真に持ち掛けた案件は、大手コスメブランドblos-som《ブロッサム》が今秋発売を予定している化粧品のイメージモデルを撮影する、というものだった。
「秋、ですか」
「はい」
「僕の写真は青色、寒色が基本ですが」
拓真が困惑した表情を見せると紺谷は数枚の写真を取り出した。
「これ、は」
それは高校卒業の記念アルバムの一ページを捲る瞬間によく似ていた。
「これは蒼井拓真さんの作品で間違いないですね」
「は、はい」
「<週間フォトコンテストユース部門>で入選された作品ですね」
「は、はい、なぜ、これを」
「この男子生徒は知人の息子なんです」
「羽場、が」
「はい」
紅茶のカップを口にし、ソーサーに置いた紺谷が拓真の顔を凝視した。
「あなたは人物を撮りたい筈だ」
「それは」
「《《青い花ではない》》」
拓真の指先はティーカップをカタカタと揺らした。
「私はそう感じました」
「・・・・・」
結城紅はケーキを綺麗に平らげて、満足げに唇をペーパーナフキンで拭っていた。
「これから隣のレンガ倉庫で紅を撮ってみませんか」
「は、はい」
「その作品を拝見したい」
羽場勝己は拓真の唯一無二の親友だ。ここ数年はLINEで誕生日祝いのメッセージを送り合う程度だが、その縁は細々と続いている。
(今夜にでも連絡してみるかな)
高校時代、拓真は羽場の姿をカメラのファインダー越しに追い掛け続けた。バスケットボールを手に弓のようにしなる肢体、床を蹴り上げる筋肉、ゴールを見据える鷹のような眼、飛び散る汗。それらを切り取る瞬間は拓真自身もバスケットボールコートを駆け抜けている感覚に陥り目眩すら覚えた。
「拓真、おまえ俺の事が好きなんだろ」
「モデルとしてな」
眩しい日々。
そもそも拓真にとってコンテストへの応募は部活動に所属している以上参加しなくてはならないイベントだった。入選や入賞になんの興味も関心もなかった。撮りたい、ただ撮りたい、その欲求が拓真の全てだった。
ーーーーあの夜までは
拓真は紺谷から手渡された数枚の写真を手にし、自身を解き放ちたい欲求に駆られた。撮りたい、ただ撮りたい。
「では蒼井さん、一時間でお願いします」
「はい」
拓真はカメラバッグから機材を取り出しバッテリーを差し込んだ。起動音に鼓動が跳ね、身体の奥底が昂るのを感じた。
(撮れる、自由に撮れる!)
赤レンガ倉庫に寄り掛かるメンズサイズの白い長袖ワイシャツ、白いカーゴパンツ、石畳を踏む素足、中性的な顔立ちの無表情な結城紅は陽炎《かげろう》のように揺らいでいた。
「紅さん、階段に腰掛けて」
カシャ
「自由に動いて、はい、目線下さい」
カシャカシャ
「髪、かきあげて」
カシャ
ところが、被写体《モデル》がバスケットボールコートを所狭しと駆け回っていた羽場とは勝手が違い、撮影開始から三十分程でシャッターを切る指が止まった。
「どうされました」
怪訝そうな顔の紺谷が木陰のベンチから歩み寄って来た。
「撮ることが出来ません」
「撮れない」
「随分長く《《撮っていなかった》》ので感覚が」
「感覚が戻らない」
「はい」
マネージャーの日村が結城紅に黒い日傘を差しながらこちらに戻って来た。結城紅は少し不服そうな顔をしていた。
「いえ、紅さんが、どうという訳ではなくて」
「いいのよ」
「はい、申し訳ありません」
紺谷は液晶モニターに手を翳して紅の姿を確認した。
「どう、でしょうか」
そして白髭を二、三回撫でると一枚の紙を渡した。
「悪くはありませんがスタジオで慣らしましょう」
「は、はい」
「ここがウチで借りているスタジオです」
「はい」
「紅のスケジュールに合わせて自由に使って頂いて結構です」
「はい」
「調整は日村くん、頼むよ」
「はい」
無表情の結城紅は口角をほんの少しだけ上げて軽く会釈をした。
「お疲れさまでした」
「は、はい」
これが現実、カメラバッグを肩にした拓真の足取りは重かった。
「ーーーーーはぁ」
拓真はカメラバッグをソファの横に置き、大きなため息を吐いて背中から崩れ落ちた。両手で顔を覆い不甲斐ない自分にまたひとつため息を吐く。天井を見上げるとシーリングファンがクルクルと回り、あの夜が脳裏に甦る。
叩き付ける雨、ビニールシート、皮のカメラストラップ、その中のSDカード、 青 の怯える口元。全てがあの夜から始まった。
「おかえりなさい」
その声に驚いて振り向くと黒い日傘をたたみながら、「おかえりなさい」と 青 が玄関扉を開けサンダルを脱いでいる。
「なに、逆じゃないの。ただいまだろう」
「そうね、でも拓真が帰って来たからおかえりって言ってたのよ」
「何処に行ってたの」
「ん、これ」
青 は首から下げた一眼レフを手に微笑んだ。
「撮りに行っていたのか」
拓真はソファーから飛び起き、カメラを受け取ると起動させた。
「うん、金沢城址公園《かなざわじょうしこうえん》」
「え」
「なに?」
拓真の動きが止まった。
「金沢城?」
「そうよ」
石川県立美術館、赤レンガ倉庫と金沢城址公園は目と鼻の先に位置している。普段から人混みを避け遠出をしない 青 が金沢城、兼六園、で写真を撮っていた。偶然にしては出来すぎていないか。
「なに、なにを撮って来たの」
「睡蓮」
「睡蓮か、青 は睡蓮が好きだね」
「うん」
「花言葉、なんだっけ忘れたよ」
「・・・・」
「なに、覚えていないの」
「清純な心、信仰、信頼、かな」
「そう」
「信頼、信じているわ」
液晶モニターには黄色い睡蓮が|瓢池《ひょうたんいけ》で揺らいでいた。
「ーーーー信じている」
「信じているわ、拓真」
そこで拓真の携帯電話にLINE着信を知らせるバナーが浮き上がった。
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