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王宮の白磁の床に、私のヒールの音が場違いなほど高く、鋭く響き渡る。
今夜の私は、ルネサンスから贈られたあのサファイアを首元に飾り、夜の海を溶かしたような深い紺青のドレスを纏っていた。
幾重にも重ねられたシルクの裾が歩くたびにさざ波のように揺れ
鏡に映った自分は、没落令嬢としての惨めさを微塵も感じさせない
冷たくも華やかな「公爵夫人」そのものだった。
「……似合っていると言ったはずだ。だが、これほどまでとはな」
隣を歩くルネサンスが、地響きのような低い声で呟く。
彼は漆黒の正装に身を包み、胸元に飾られた勲章の銀光が、シャンデリアの光を跳ね返して鋭く輝いている。
その立ち姿は神々しいほどに完璧で、見る者を威圧する峻烈な美しさを放っていた。
しかし、私を導くために差し出された彼の腕には
まるで獲物を逃さない鉄のような硬さと、隠しきれない苛立ちが籠もっていた。
「ありがとうございます、閣下。おかげで、『愛されている幸福な妻』を演じる準備は万端ですわ。これもすべて、契約のうちですから」
私が極上の笑みを湛えながら皮肉を返すと、彼の長い指先が私の腕を強く、乱暴なほどに引き寄せた。
大広間の重厚な扉が開かれた瞬間
数百の視線が、まるで物理的な熱量を持って私たちの全身に降り注ぐ。
「……あれが、例の没落伯爵令嬢か」
「氷の公爵が、あんなに美しい女を隣に置くとは。呪いを受けているという噂も、あれを見れば疑わしくなるな」
ひそひそと囁かれる、羨望と嫉妬の入り混じった毒のような声。
特に、独身の貴族や血気盛んな若き将校たちの視線は、私の首元で鎮座するサファイアよりも
ドレスから露わになった肩や背中のなだらかなラインに、無遠慮に、そして貪欲に突き刺さっていた。
「……閣下、皆様がこちらを見ていらっしゃいますわ。もう少し、仲睦まじく微笑まれては?愛妻家のフリも公爵の務めでしょう」
私が耳元で小さく囁くと、ルネサンスの彫刻のような顎のラインが、険しく強張った。
彼の蒼い瞳は、もはや社交界の仮面などかなぐり捨て
周囲を威嚇する獣のような鋭さを帯びて、視線の主たちを順番に射抜いていく。
「……微笑む?威厳が無くなるだろうが。それに君は、自分がどれほど無防備な姿を晒しているか、その自覚が微塵もないのか」
「無防備?心外ですわ。あなたがそばにいるのに」
「…あまりこっちを見るな」
彼は吐き捨てるように言うと
不遜な笑みを浮かべてダンスの誘いに近づこうとした若い伯爵を
一瞥だけで射殺さんばかりの冷徹な眼光で退けた。
華やかな旋律が広間に満ち、彼は流れるような動作で私の腰を強く抱き寄せると
ダンスホールの中央へと半ば強引に連れ出した。
ステップを踏むたび、彼の掌から伝わる確かな熱が
ドレスの薄い生地を容易く透かして、私の肌をじりじりと焼き焦がしていく。
それは昨夜
あの暗い寝室で私を求めた、あの狂おしい「呪いの熱」に、あまりにも酷く似通っていた。
「……閣下、力が強すぎます。これでは、まるで私を檻に閉じ込めようとしているようですわ」
「檻だと?……まあ、否定はしない。できることなら、今すぐここから君を連れ去り、誰の視線も、誰の指先も届かない場所へ隠し、私だけを見ていればいいと閉じ込めてしまいたい」
彼の低い吐息が、逃げ場を塞ぐように私の耳を掠める。
その声には、魔力の乱れなどという
これまでの使い古された言い訳では到底説明のつかない、剥き出しの独占欲と渇望が混じっていた。
周囲の華やかな喧騒が、まるで霧の向こう側へと遠のき
世界には私たち二人だけが取り残されたような錯覚に陥る。
「……ルネサンス様、それは契約にはない感情ですわ。正直に言えば私はお金のために貴方の隣にいる。貴方は私の魔力しか見ていない。……そうでしょう?」
私が挑発するように、震える瞳で見上げると、彼はダンスの回転に紛れ
私の首筋──大粒のサファイアが冷たく鎮座する
そのわずかに上の柔らかな肌に、熱い唇を深く押し当てた。
「……嘘つきは、お互い様だろう。ヴィル。君の瞳も、今は『お金のため』だとは言っていない。私に触れられて、これほどまでに乱れている」
その瞬間
完璧に塗り固めてきた「仮面夫婦」という私たちの虚構に、決定的なひびが入った。
王宮の冷たい輝きの中で、二人の嘘は
もはやその形を保てないほどに熱く、真実へと音を立てて溶け出そうとしていた。