◻︎私からの提案
「夫にもあなたにも、ものすごーく腹が立ってたまらないのに、この怒りのぶつけ先がないのよ!子どものことも昨日夫から聞いたばかりで、まだなにも理解できてないの、わかる?9年?もっと?」
「…もうすぐ、私は…だから…」
沙智は自分の残された時間のことを言っているのだろう。
「沙智、そのことなんだけど、俺は香織と離婚してこのまま大輝と暮らすから…」
___やっぱり…
「香織、申し訳ない、謝って済む問題じゃないことはわかってる。だけど、このままじゃ、大輝は一人になってしまう」
「親戚とかいるでしょ?うちの智之はどうなるの?」
「智之の父親としての役目はきちんと果たすよ、だから…」
「修二さん…大輝のことはもう市役所に相談してあるから…帰ってください」
「そういうわけには…」
___なに、この茶番劇は!
「市役所ってまさか、施設に?」
「はい、私も施設出身で…私がいた児童園の園長に頼んであります」
「だから、俺が大輝と…」
「もう、いいんです!」
さっきまでとは違って、大きな声の沙智。
「もう十分にしてもらいました。修二さんが私のそばにいてくれたのは、私への同情と優しさからだとわかってます。
あなたはずっと奥様のことを思ってた、気づかないとでも思ってたんですか?私の名前で、奥さんのブログにコメントしてたこと。そうやって、奥様と息子さんの生活を見守ってたでしょ?」
「は…?あのコメントは、あなただったの?」
沙智=サチだとばかり思ってた私は、なんだか気が抜けた。
「知ってたのか…」
「私も気になってブログを見たことはあります、でもコメントなんてできなかった…」
しばらく無言。
「でも、それは沙智さんの勘違いよ、だってこの人はいまさっき、私と離婚したいと言ったでしょ?私なんかと一緒にいるのはイヤなのよ」
「それは、大輝のためなんでしょ?心配しなくていいから、大輝にはもう話してあるから、あの子なら大丈夫…」
「話したって、施設のこと?9才のあの子に?なんて酷いこと言うの、残酷すぎるでしょ!」
昨日見た、麦茶を出してくれた男の子を思い浮かべる。
見た感じ、智之と同級生だと言ってもいいくらいの子だった。
「いいんです、もともとちゃんと、修二さんのことも話してあります。お父さんだけれどお父さんじゃないと。私との関係も話してあります」
「そんな…」
「だから俺がいる…って」
「いらないって言ってるでしょ?!もういいから…」
そうだ、大事なことを確認しないといけない。
「あなたは?あなたはもう私と智之と暮らせないの?本当に離婚しかないの?私も智之もあなたを待っているのに?私はまだあなたのことが好きなのに?」
終わりの方は声が掠れた。
「なんだ…奥様と修二さん、相思相愛じゃないですか…よかった。私や大輝のために、離婚なんかしないでくださいね」
穏やかに言う沙智の言葉には、嘘は感じられない。
夫が家にあまり帰らなくなったのは、半年くらい前からだっただろうか。
それまでにも、ずっと女の気配はあったけど、その時期くらいに病気が悪化したのだろうか。
けれど、私は夫に愛人がいることを認めたくなくて、打ち込めることがほしくて美魔女なんてものにもなってみたし。
___そうだ…私には夫を責める資格はない
幾度となく繰り返した聡との行為を思い出した。
夫が帰って来なくなってから、寂しさから聡を誘った…そうだ、私から誘ったんだった。
私にはそこに愛情はなかったけれど。
「私だって…」
「ん?」
「私だって、浮気した、だからそのことであなたを責める資格はない。でも、いまはそんなことを言ってる場合じゃないよね?」
「香織?」
「奥さん?」
二人が、怪訝な顔で私を見た。
「沙智さん、ちょっとこの人、借りますね」
私は夫の腕をつかむと外に連れ出した。
談話室に誰もいないことを確認すると、中に入る。
「浮気のことはお互い様ということで、この際、今後は不問にしたいの、異議はある?」
「い、いや、それはない」
「許すとか許さないとかそんなことではなく、不問、わかる?もう話題にもしたくないってことよ」
「わかった」
「それよりも、今考えなければいけないのは、智之と大輝君のこと。彼女…沙智さんも私たちが離婚することは望んでない、問題はあなた。あなたは私と離婚したいの?」
「…それは、違う。卑怯な男だと言われても、離婚はしたくない。でもそうすると大輝が施設に…」
「認知は?」
「してない、必要ないと言われて…」
「あんた、バカなの?」
「え?」
あんた呼ばわりされた夫が、呆気にとられている。
私はもう止まらなかった。
「どうせバカなんだからさ、とことんバカになって、バカなりの責任取りなさいよ!」
「どういう…?」
「そんなこともわからないの?離婚せずに大輝君とも暮らせばいいんでしょ?」
「…!!」
夫は目を丸くしている。
「沙智さんにもしものことがあったら、大輝君と、うちに帰ってくればいいでしょ?私はバカな夫のバカな妻で、二人を受け入れるわよ。智之にもきちんと説明する!すぐにはわかってくれなくても、いずれはわかってくれると思うから」
夫は、泣きたいのか笑いたいのかわからない、今までに見たことのない顔で立ち尽くしている。
「いくら沙智さんが、大丈夫と言ってもね、それは本心じゃないから。バカ夫でバカ父のあんたにはわからないだろうけどね!」
「……」
「もう本当に、沙智さんが長くないとしたら、せめて最期は安心してもらおうよ」
私は妻としてより、息子を持つ母親として沙智の心情を汲み取ってしまったことに、自分がびっくりしていた。
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