ベッドの端に座らされた直弥は、シーツの上でじっとしていた。
けれど、胸の奥では波のように高鳴る鼓動が絶え間なく押し寄せていた。
その手はまだ、膝の上で落ち着きなく震えている。
言葉にしようとする思いは喉の奥で絡まり、空気を震わせる拓弥の視線が、その全てを奪っていく。
目の前に立つ拓弥の瞳が、まっすぐに射抜いてくる。
感情を隠さない、むしろこれでもかと曝け出すようなその視線に、直弥は圧倒されていた。
怒っている、確かにそうだった。けれどそれだけじゃない。
嫉妬と執着と、どこかに甘さを滲ませたその瞳は、直弥の逃げ道をすべて塞いでいた。
「なあ、直弥。俺、怒ってるって言ったよな」
静かに響くその声が、まるで部屋全体を包むように重く落ちてくる。
静けさの中で聞こえるのは、お互いの呼吸と、張り詰めた沈黙に紛れ込む心音だけ。
「……なんで、そこまで……」
震える声でそう問いかけるのがやっとだった。
返ってきた答えは、静かで、けれど鋭く熱を帯びていた。
「なおが俺のもんだって、他の奴に分からせるためだよ」
言葉の重みが、胸の奥に沈んでいく。
その意味を、すぐに理解できずにいた直弥の前で、拓弥がゆっくりと動き出す。
ギシッ、とベッドが小さくきしむ。
拓弥の膝がマットレスの上に乗り上げる音。
そのまま、直弥の脚の両側に自分の脚を置くようにして、彼を囲い込んだ。
背筋を伸ばした拓弥の影が、薄明かりの中で直弥の全身を覆い隠す。
まるで逃げ場など、初めから存在しなかったかのように。
「わ、ちょ、ちょっと待――っ」
思わず口をついて出た声を、拓弥の視線が冷静に射抜く。
「もう何回目だよ、“待て”って言われんの。……今日ばっかりは、聞かねぇ」
耳元に触れた唇が、言葉よりも先に呼吸を奪った。
首筋にかかる息が熱くて、くすぐったくて――怖いほど近い。
けれどその奥には、言いようのない期待が混ざっていて、直弥自身がその感情に気づくのを恐れていた。
「なお、分かってねぇだろ。俺がどんだけ我慢してきたか」
拓弥の声は、感情を抑えているようで、実際にはぎりぎりのところで噴き出しそうだった。
その言葉の端々から、ずっと積もっていたものが滲み出している。
「……っ、な、なんの話だよ」
返す声が震えるのは、怖いからか、それとも自分の心がぐらついているのを認めたくないからか。
「こうして押し倒すのだって、何度だってしたかった。けど、なおが嫌がると思ってさ」
その言葉の直後、拓弥の唇がゆっくりと首筋をなぞった。
軽く、けれど執拗に、熱を刻み込むように。
直弥の白い肌の上を、唇が這い、噛むように、吸うように。
そのすべてが、優しさと独占欲の混ざった行為だった。
「……もう、我慢しねぇよ」
耳元で囁かれた瞬間、直弥は小さく身体を跳ねさせた。
それでも逃げない。
むしろ無意識に、シャツの裾をつかんでしまっていた。
「……っ、馬鹿……ほんとに……!」
顔を背け、目元を赤らめながらも、完全に突き放すことはできない。
指先は、どこかで「繋がっていたい」と思っている。
その矛盾が、かえって拓弥を焚きつける。
「なあ直弥、ちゃんと“俺のもんだ”って言え」
その声に、直弥は小さく首を振った。
「……や、だ。そんなん、言いたくない……」
まるで、認めたら全部を持っていかれそうで。
負けてしまいそうで、怖くて。
「じゃあ言わせるまで、やめねぇからな」
その言葉を最後に、拓弥はキスを深く、乱暴に重ねてくる。
唇と唇の隙間を埋めるように、息を奪い合いながら、何度も。
直弥が声をあげる隙を与えずに、何度でも――貪るように、想いをぶつける。
「なおが、“もう無理”って泣いて縋るまで、終わんねぇ」
「っ……ふざけんな、バカっ……!」
叫ぶような声も、涙で滲む目も、全部拓弥の目に焼きついていた。
そしてその叫びよりも先に、直弥の指が拓弥の背にまわる。
もう、拒む力はなかった。
そして、ふいに――
「……好きだよ、直弥」
その一言で、直弥のすべてが止まった。
息も、抵抗も、揺らぎも、すべてが。
その声だけが、まるで深い夜に射し込む光のように響いた。
目を見開いたままの直弥の表情が、ふっと崩れる。
張りつめていた強がりが、ほんの少しだけ溶け落ちる。
拓弥はその瞬間を逃さず、また唇を重ねた。
今度はゆっくりと、確かめるように。
「もっと、なおの全部、俺に教えろよ」
その夜、“お仕置き”と呼ばれた夜は、幾度もの波を繰り返しながら、明け方まで続いた。
外が白み始めても、互いの心はまだ夜の中にいたまま――
温度だけが残されていた。
直弥は、くしゃくしゃになったシーツの上で静かに肩を上下させながら、俯いていた。
荒い呼吸がまだ整いきらず、肌には汗が細かく浮かび、首筋から胸元にかけては紅く色づいている。
その姿はまるで、激しい波にさらわれたあとの岸辺のようだった。
乱れた髪が額に貼りつき、視線はうつむいたまま。照明を落とした部屋の中、微かに開いた窓から差し込む夜風が、熱の残る空気を静かに撫でていく。
無言のまま、直弥はシーツの端をぎゅっと握りしめていた。
逃げるように身体を逸らしても、背中に感じる視線は熱を孕んでいた。
拓弥の視線――まるで焚き火のように、じわじわと熱く、でもどこか安らぐようなぬくもり。
「……なに、泣きそうな顔してんだよ」
そう言って拓弥が伸ばした指先は、直弥の頬に張りついた髪をそっと払った。
その動作は優しく、けれど確かに触れてくる温度があって。
皮膚に感じるその熱に、直弥はびくりと肩を揺らす。
触れられた場所が、じんわりと火照っていく。
さっきまで身体を這っていた熱の残響が、まだそこにある。
あの唇、あの囁き、あの視線。全部が、体の奥に残っていて、消えてくれない。
「……言ったろ。“覚悟しろ”って」
低く響くその声に、直弥はうつむいたまま、かすかに唇を震わせる。
まるで飲み込んだ言葉が喉の奥で詰まっているように。
怒っているのか、それとも――ただ、追いつけていないのか。
「……っ、バカ……やりすぎ……」
ようやく絞り出した声は、掠れて、頼りなかった。
震えるその音に、怒りと戸惑いと、ほんの少しの甘さが滲んでいた。
拓弥は何も言わずに、そっと身体を寄せる。
静かに腕をまわし、背中にぴたりと自分の胸を押し当てると、直弥の身体は一瞬ぴくりとこわばった。
けれど、抵抗はなかった。
むしろ、重なる心音に安心するように、ゆっくりと力が抜けていく。
「誰にも渡さないから。絶対に」
囁くようなその声は、まるで誓いのようだった。
拓弥の唇が、直弥の肩口にそっと触れる。
その柔らかさに、直弥は小さく目を伏せた。
否定も、反論もなかった。ただ、静かにその言葉を受け止めていた。
やがて、彼の背はゆっくりと拓弥の胸に預けられた。
さっきまでとは違う、どこか安心したようなその重み。
抱きしめる腕の中で、直弥の身体はようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
窓の外では、街灯に照らされた木々が風に揺れ、ささやかな音を立てている。
その音が、まるでふたりの間をやさしく包む音楽のようだった。
夜が明けるまでの短い時間、部屋の中には静かな熱だけが漂っていた。
拓弥は直弥の髪にそっと唇を落としながら、もう一度だけ、強く抱きしめる。
このぬくもりを、自分だけのものとして抱きしめるように。
――たとえ強引だとしても。
彼にしか見せない顔を、誰にも渡さないために。
そしてそのまま、ふたりの時間は、夜の底へと静かに沈んでいった。
──夜が明ける少し前。
薄いカーテン越しに差し込む灰色がかった光が、部屋の中を静かに照らしていた。
まだ街も寝息を立てる時間。遠く、鳥の声すら聞こえないほどの静寂。
ベッドの上、乱れたシーツの中で、直弥は背中を向けたまま毛布にくるまっていた。
肌にはかすかに残る熱と汗の膜。
腕や脚には、キスの跡がいくつも散らばっている。
けれどそれらは、痛みではなく、確かな「愛されていた証」だった。
「……加減ってもんを覚えろ、ほんとに」
ぼそりと吐き捨てた声は、喉の奥で掠れていた。
それを聞いた拓弥は、低く短く笑ったあと、ゆっくりと直弥の背中に腕を回す。
「……なあ、嫌だった?」
囁くような声。
ぬるい吐息が、首筋にふれてくすぐったい。
「……別に、嫌とは言ってないし……」
毛布に潜りながらも、直弥の耳が赤く染まっていくのがわかる。
枕に顔を埋めたままのくぐもった声には、怒りよりも、むしろ呆れと照れが混じっていた。
「ふーん?」
わざとらしく間をあけて問い返すと、直弥は布団をぎゅっと握る。
拗ねているのか、恥ずかしいのか。
その背中の丸まり方で、感情が全部見えてしまう。
「俺、マジでなおのことになると余裕ないから。……あんな距離で他のやつと笑ってんの見たら、正気じゃいられねぇ」
拓弥の声は、いつになく落ち着いていた。
深夜の熱が抜けたあとに残る、本音の温度だけがそこにある。
しばらくして、直弥が少しだけ身をひねって、枕越しに拓弥を見つめた。
「……ったく。嫉妬深すぎんだよ」
「だって、なおが好きだからに決まってんだろ」
ぽつりと落ちたその言葉は、部屋の空気に優しく溶けた。
直弥の目が、ほんの少しだけ揺れる。
意地を張るように視線を外すけど、その頬はさっきよりも熱くなっている。
「だから、許して? ……もう、他のやつの前であんな顔すんなよ」
「……知らね。気分次第」
言葉では強気を保つけど、手だけはそっと拓弥の指先を探していた。
指先が触れ合うと、まるで合図のように、互いに握り合う。
ぬるい体温。柔らかな指の重なり。
それが、何よりも本心を物語っていた。
拓弥は、ゆっくりと上半身を起こし、もう一度直弥の顔を覗き込む。
毛布の隙間からのぞくその表情は、伏し目がちで、まつげが湿って光っていた。
「じゃあ、またお仕置きするしかないな」
意地悪に言って、にやりと笑う。
だけどその笑みの奥には、少しだけ照れと安堵が混ざっていた。
「っ……ふざけんな、バカ! 絶対させねぇし!」
怒ったように声を上げる直弥の顔は、耳まで真っ赤。
そのくせ、もう拓弥の胸元に額を預けていて。
「はいはい、じゃあもうちょいだけ、朝まで時間潰してくれや」
「潰すって言い方すんな……」
「なら“いちゃつく”でどうだよ」
「最悪……」
口では文句を言いながらも、直弥の指先は拓弥の胸のあたりをつつきながら、ゆっくりとなぞっていた。
その指が止まると、拓弥がそっと髪に手を添えて、額にキスを落とす。
「……なおの全部が愛しいよ」
「……なに、急に……」
「本気で、なおが他のやつに取られそうな気がしたんだよ。そんだけ」
ぽつりと落ちる言葉が、空気の中で溶けていく。
言い終わったあとも、どちらも何も言わず、ただ静かに時間が流れていく。
毛布の中はまだ熱を残していて、肌と肌がふれている部分だけ、少し汗ばんでいる。
窓の外、東の空がうっすらと朱を帯び始めていた。
カーテンの隙間から射す光が、ゆっくりと、ふたりの肌を撫でていく。
夜が終わっていく。
けれど、そのやわらかな余韻の中で、ふたりはまだ、ベッドの上で呼吸を重ねていた。
名前を呼ぶこともなく、言葉も交わさず。
ただ隣にいることだけで、確かめ合える朝。
そうしてしばらくの間、直弥は拓弥の腕の中で、まぶたを閉じたまま微かに笑った。
「……バカだけど、優しいお前が……ちょっとだけ、好きかも」
その声は、寝息と混じって、小さな朝に溶けていった。
長文にもかかわらず、最後まで目を通していただきありがとうございます。
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