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少女は俯いていた。しかし悲しいわけではなかった。その顔は薄ら笑っていた。唇は弧を描き、大きな目を見開いている。しかし嬉しいわけでもなかった。これが少女の”顔”なのだ。スクールバスへ乗り込む。少女はいつも独りだった。いじめではない。ただ周りの同年らは少女を無意識に不気味に思っていた。少女は喋らない。クラスメートを前にしても沈黙を保っていた。少女の名前はミーア。右目を長い前髪で覆った、一風変わった女の子である。
少女の父はこんなことを言う。
「お前は夏に降る雪を見たことがあるか」
それはまるで少年のように弾んだ声で少女に問いかける。
「ひまわりに雪が積もり、氷の下で泳ぐサカナをお前は見たことがあるか」
焦げたチキンにフォークを突き刺し、かぶりつく。
「ああ、かわいそうに。お前は世界にすら歓迎されないなんて」
ミーアはただ、父を見つめるだけだった。
そんな父が家を飛び出したのは、その翌日、冷えた朝のことだった。
もう一年が経とうとしている。そしてある日ミーアがスクールから帰ってくると、家の中は蒸した匂いが充満していた。静かだった。人間の気配が消えたリビングをミーアは見渡す。すると隣の部屋、白い照明と黄色いカーペットだけが置かれた部屋で、母は首を吊って、死んでいた。
「おまえはまだ知らない」
父の声が反響する。
「この世界は残酷なんだ」
生き絶えた母をミーアは見上げる。その顔は泣いていた。なぜ泣くのか。どうしたら涙は出てくるのか。ミーアにはわからない。世界に歓迎されていない。泣くことさえできないミーアの代わりに、母が泣いていた。ミーアが9歳を迎えた頃だった。
その後すぐにミーアはひとりの神父と複数のシスターたち、そして十数人の子ども達が暮らしている小さな孤児院へ移された。ミーアの顔は未だ笑ったままである。それを不思議に思う子ども達。そして不気味に思う大人達。ミーアにはもっと幼い頃から不思議な力があった。夢を渡り歩き、物を浮かせ、そして広い海が見える右目。それはかつて暮らしていた海だと、ミーアは主張する。左目と対照的な色をしているそれは、微かに澱んでいた。未だ喋らないミーアに、1人のシスターが声をかけた。
「こんにちわ。私はアリシア。ミーアちゃん、お外で遊びましょうよ」
ミーアはアリシアを見上げる。
「いい天気だもの。きっとお友達もできるわ」
ミーアは口を開く。ここにきて初めて喉を開いた。
「雪の降る夏を見たことがある?」
アリシアは目を見開き面を食らった。それも一瞬のことで、優しく笑顔を浮かべる。
「ないわ。でもそれはとても幻想的ね。ミーアはみたことがあるの?」
「私は焦げたチキンは嫌いだし、泣いた顔も好きになれないの」
ミーアは笑った。
「わたしはずっと海にいたのよ。だから世界に歓迎されないの」
会話にならない。アリシアはそう思った。この子は不思議で、不可思議で、そして自分の世界に閉じこもったまま、歳をとってしまった。ミーアの生い立ちは知っている。父の蒸発と、自殺した母を目撃したこと。アリシアはなんとかして、普通にしたかった。普通に笑い、泣き、怒り、そしてその世界とやらを忘れるように。ミーアはもうすぐ10歳の誕生日を迎える。ここにきて半年と少し、ミーアは部屋に籠り、絵を描くことが多くなってきていた。他のシスターもミーアのことは諦めている。何よりここを仕切るシスターはミーアを嫌悪し、近付くことさえしなかった。ミーアの力を目の当たりにしてしまった日から、ミーアを部屋へわざと閉じ込めた。それをアリシアは許さなかった。ミーアを普通にすべきだ。それは使命感に似た感情だった。
「ミーアちゃん、欲しいものはある?」
少女の普通を見たかった。
「青い絵の具がほしいわ」
真っ直ぐと見つめられた大きな目。薄ら笑った少女の初めての人間らしさが垣間見えた気がした。少女の絵を見たことはないが、部屋に篭り描いていることは知っていたから、アリシアは素直に頷く。ここを仕切るモーヴシスターに頼まなくては。きっと承諾してくれるだろう。彼女はミーアが部屋にいることを好ましく思っている。部屋にいる理由なら、きっと絵の具ぐらいすぐに用意してくれるだろう。
「ミーアちゃんはどんな絵を描いているの?」
「海の中」
少女は部屋の奥を見た。物置部屋にベッドが一つ。ごちゃついた部屋の奥には壊れたおもちゃがたくさん置いてあった。
「みたい?」
ミーアはさらに笑みを深め、問いた。海の中。少女が言う、かつていた海。青い絵の具。
「ええ、是非見せて欲しいわ」
「まだ空をおよげないの。完成したらみせてあげる」
愛おしそうに、部屋の奥を見た。もうすぐ夕暮れだ。小さな窓から淡いオレンジ色が入ってきている。
「楽しみね。これは二人だけの約束よ」
「やくそくよ。あなたの顔はちゃんとみえるわ」
最後まで会話がしっかりと続かない。少女が何を思っているのか、感じているのか、少女が見た私たちがいる世界はどう映っているのか。けれど少しだけ、少女に近づけた。アリシアは喜ぶ。しかしまだ、足りない。
「焦げたチキンの匂いがするのよ。シスターの顔はたくさんのすすが渦をまいてみえないの」
少女は言う。
「わたし、ここがきらい」
そして笑った。