コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「えっと……買ってきたばかりのものは流通の過程で何がついているか分かりません。一度洗ってから使った方が無難です」
言いながらスポンジを手渡したら、尽が「なるほど」と神妙な面持ちをしてうなずいた。
「スポンジを濡らしてそこの洗剤をちょっとだけ付けてムニムニッと握ると泡が立ちますので……全体をまんべんなくこすってから泡、綺麗に洗い流してください。私はその間にお湯を沸かします」
そこまでいちいち説明しなくてもいい気はしたけれど、念には念を入れてしまった天莉だ。
(私も大概過保護ってことよね)
その点においては、恐らく直樹のことを言えた義理ではない。
***
尽――直樹?――が言った通り、甘いどら焼きと、日本酒との相性は抜群で。
温めに燗をつけた日本酒はとろりとしていて、果実のように熟成された芳醇な香りが、いつも飲んでいる酒とは少し違って感じられた天莉だ。
加えて。
「綺麗な琥珀色……」
それも古酒の特徴らしい。
熟成年数が増せば増すほどこの色が濃くなるのだとか。
青み掛かって感じられるほどに澄み切った色の若い日本酒しか飲んだことがなかった天莉は、琥珀色にゆらゆらと揺れる色みに目を奪われる。
白地の中に藍色で蛇の目模様が描かれた利き酒に使う猪口は、中に入った酒の色をこれでもかと言うくらい天莉に意識させた。
「気に入ったかね?」
すぐ横に座る尽から、うっとりするようなバリトンボイスで問い掛けられて、天莉は素直にコクッとうなずいた。
「ラムレーズン入りのどら焼きも、このお酒も……私には初体験の連続で……味覚も嗅覚も視覚もびっくりしっぱなしです」
別に可笑しいことなんて何もないのに、ふふっと笑いながら答えてしまったのは、もしかしたら少しアルコールが効いてきたのかも知れない。
空きっ腹にお酒はいけないという思いはあったから、先にラム薫ドラをはむはむしてお腹を膨らませたつもりだったのだけれど。
(どら焼きの方のお酒も結構強かったんだもん……)
全体的にしっとりしたラム薫ドラは、噛みしめる度ラムレーズンだけではなく粒あんからも、ラム酒の気配がふんだんに感じられるどら焼きだった。
(でもそれがすっごく美味しかった……)
空っぽだった胃腸は、ラム薫ドラの甘味としての側面はもちろんのこと、アルコール入りという部分もしっかりと吸収してくれたらしい。
尽に勧められるまま、猪口に注がれた日本酒を何杯か口にしたことも、天莉の酔いに拍車を掛けた。
天莉は猪口の中で揺れる琥珀色の液体を見詰めて、器の中に残ったものを喉の奥に流し込む。
「はぁー、美味しっ」
鼻に抜ける熟成香がどら焼きの甘さと相まって、本当に口当たりがいいな……と思った。
隣に大好きな尽がいると思うと、緊張のためか、ついついお酒を飲むピッチが上がってしまう。
***
「今まで家で飲み食いすることがなかったから余り頓着しなかったが、せっかく天莉と一緒に暮らしているんだ。皿とか茶碗とか湯飲みとか……対になってるやつに買い替えようか」
「ほぇっ?」
頭にほわりと膜が掛かっているようで、尽の言葉がすぐには頭に入ってこなかった天莉だ。
「ほら、どら焼きが載ってる皿。揃ってなくて何か面白くないだろう?」
元々個包装されていたどら焼きだ。
別に皿などなくてもよかったのだけれど、何となくそのまま盆に乗せるのは気が引けて、天莉は似たような大きさの小皿を二つ、棚から取り出して使ったのだけれど。
どうやら尽はその器が揃いじゃないことを言っているらしい。
「でも……今の所そんなに不便は感じてないれしゅよ?」
ですよ、がまともに言えなくて天莉は(あ、まずいかも)と思った。
「使えるのに買い替えりゅの、もったいないれす」
天莉としては一生懸命話しているつもりなのに呂律が回らない。
(さっき煽った残りのお酒がいけなかったのかも)
「それはそうなんだがね。キミとの夫婦茶碗に憧れているだけなんだろうな、とか察してはくれないの? ホント情ないなぁ、天莉は」
恥ずかしげもなくそう付け加えた尽に、天莉はやたらと照れてしまう。
「しょ、しょんなこと言われても……」
お酒のためばかりではなさそうな頬の火照りにどぎまぎする天莉に、尽が追い打ちを掛けるみたいにプレゼンを続けた。
「それにね、天莉。知っているかい? そういう無駄な物欲が経済を回すんだ。言うなれば景気のために必要な欲望だね」
止めを刺すように眼鏡越し、極上の笑顔を向けられてそんな風に言われてしまっては、天莉に勝ち目なんてない。
たかだか高嶺家の食器問題が、経済問題云々にまで発展するだなんて。
「はぁ~、尽しゃん。言ってることはめちゃくちゃなのに……しょんなにかっこいいとか反則れしゅ……」
ぽわんとした頭は、日頃思っていても口に出来ないことを簡単に垂れ流してしまう。
尽から『さんも要らない』と言われたことも失念して舌っ足らずで〝尽さん〟と呼び掛けていることにも気付けないまま、天莉はうっとりと隣に座る尽を見詰めた。
「俺は呂律の回っていない無防備な天莉の方こそたまらなく可愛いと思うがね?」
言うなり尽の手がスッと伸びてきて、天莉の手から空になっていた猪口を奪い取った。
そこで初めて、(私ってばお猪口を持ちっぱなしで話していたのね)と気が付いた天莉だ。
どうにも悲しいほどに頭が回っていないらしい――。
「だが、これ以上酔われたら色々忘れられてしまいそうで惜しい。――酒を飲むのはこの辺でやめにしておこうか、天莉」
尽の言葉に、天莉は「そうですね」とつぶやいて「ふふっ」と声に出して笑うと、尽の肩にポスンッと額を預けた。
尽の纏う甘い香りが、ぼんやりした脳に心地よく届いて……。
天莉は酷く満たされた気持ちになってうっとりと目を閉じた。
***
天莉がふと目を覚ますと、見慣れない景色で――。
「んっ」
不用意に動かした頭がほんの少しズキンと痛んだ。
「あれ? 私……」
こめかみを押さえながらつぶやいたと同時、「目覚めたかい?」という声がすぐそばから降り注いで。
まだ紗が掛かったみたいに回らない頭で声の方へ視線を向けた天莉はビクッと身体を撥ねさせた。
「ひゃっ、高嶺常務っ⁉︎ ……えっ、えっ⁉︎」
自分のすぐ真上。尽が天莉の顔をうっとりと覗き込んでいて、天莉は自分がリビングのソファーの上にいて、尽の膝枕で目覚めたことを知った。
慌てて身体を起こしたら寝起きでシャキッとしていなかったからだろうか。ヨロリとふらついて、再度尽の腕の中へ収まってしまう。
オロオロと落ち着かない感情に支配されるまま、尽に抱き止められたまま周りをキョロキョロしてみた天莉だ。
アナログの壁掛け時計が指す針は、果たして午前だろうか午後だろうか?
「まだ二十一時を少し回ったばかりだよ? 明日も会社は休みだからそんなに慌てなくても大丈夫だ。――とりあえず風呂にでも入るかい?」
湯張りはAIアシスタントがしてくれているからね、と付け加えてくれた尽に、天莉は自分が風呂にも入らず寝落ちしていたことを思い知らされた。
尽も天莉が寄り掛かってしまっていたからだろう。スーツ姿のままで。
「ごめ、なさっ。私のせいで常務も着替えとか……」
「俺が好きでキミの枕になってたんだ。そこは気にしなくていい。それよりも――」
尽は天莉を抱く腕にギュッと力を込めると「さっきから俺のこと、また〝常務〟って呼んでるね? 俺としてはその方が大問題なんだけど」と吐息交じり。
「キミはそんなに俺からお仕置きがされたいの?」
どこか楽し気にバリトンボイスを天莉の耳朶に吹き込んでくる。
「そ、んなことあるわけないれしゅっ」
焦る余り、語尾を盛大に噛んでしまった天莉だ。
断じて先ほどまでのように呂律が回らなかったわけではない。
なのに――。
「ああ、これはまずい。どうやら天莉はまだ酔いが醒め切っていないみたいだ。……一人で風呂は危険過ぎるね」
「だっ、大丈夫ですっ! バッチリキッチチ醒めてまっ!」
(あーん、また噛んだっ!)
キッチリ醒めてます!がちゃんと言えなくて、天莉はグッと言葉に詰まった。
焦れば焦るほどグダグダになってしまう。
「うん、ホント、キッチチ醒めてるね。――酔っ払いは大抵酔ってないって言うんだ。ほら。遠慮しなくていいよ? 俺も一緒に入るから」
「ほぇっ?」
言うなり、尽は天莉の答えを聞かないままにソファーから降りて。
目を白黒させている天莉を軽々と横抱きに抱き上げてしまう。
「あ、あのっ、私、本当に一人でっ」
尽の腕の中、ジタバタしながら懸命に言い募った天莉に、尽はククッと喉を鳴らして笑うと――。
「残念だが天莉。これはお仕置きも兼ねているんだ。諦めなさい」
高らかにそう宣言した。